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第24話:一ノ瀬保奈美

――ようやく、少しだけ空気が落ち着いてきた。


直也さんが「9月の終わりか10月には必ず時間をつくる」と言ってくれたおかげだ。

クラスメートからの「カラオケパーティに呼んで!」という無茶な声も、一旦は収まった。


サインは……正直、すごい数をお願いされてしまったけれど。

直也さんが笑顔で、何十枚でも気持ちよくサインしてくれたから、みんな満足してくれた。

「字までかっこいい!」なんてSNSに写真を上げる子もいた。

私は心臓がヒヤヒヤしたけれど……直也さんの柔らかい対応のおかげで、ようやく友人たちの熱も少し冷めたように思う。


でも――その代わり。


直也さんが、帰ってくるのがますます遅くなった。

玄関が開く音がするのは、いつも夜の10時を過ぎてから。

スーツの上着を脱ぐ仕草ひとつとっても疲労がにじんでいて、時には汗でシャツが張り付いていることもある。


「……大丈夫?」と声をかけると、彼はいつも笑って「平気だよ」と答える。

だけど私は知っている。

その笑顔の裏に、どれだけの重さがのしかかっているか。


(――私、守られてばかりだ)


胸の奥が、じくりと痛んだ。

私にできることはないの? せめて、少しでも直也さんの力になりたい。


そう思って「魔法のレシピ」のノートを広げた。

私と直也さんの間にある、小さな宝物。

ページをめくるたびに、「体を癒すスープ」「喉を潤すはちみつレモンジュース」なんて走り書きが出てくる。


その中に――見つけた。


『直也はバナナケーキが好き』


思わず指が止まった。

バナナケーキ。

そういえば、以前ふとした会話で「オレは結構バナナ好きなんだよね」と言っていたことを思い出す。


よし、これにしよう。

私は学校帰りにスーパーへ寄り、黄色く熟したバナナを選んだ。

「お菓子作りに使うなら、少し黒い斑点が出ているくらいが甘くて最適」――そんな魔法のレシピ帳の一文を思い出しながら。


家に戻り、台所でエプロンを結ぶ。

フォークでバナナを丁寧に潰す。でも潰しすぎない。粗くつぶす。とろりとした果肉の香りが広がって、思わず顔がほころんだ。


そこに卵を割り入れ、バターを溶かして混ぜ、砂糖を少しずつ加えていく。

――バナナの熟れ具合によって甘さが違う。だから砂糖は加減が大事。

私は何度も味を確かめながら、慎重に木べらを回した。


そこに更にホットケーキミックスを加える。生地ベースが出来てくる。

「これなら大丈夫かな……」と胸がどきどきする。

でも、これはきっと直也さんが喜んでくれる。

そう信じながら、パウンド型に流し込んだ。


オーブンに入れると、じわじわと甘い香りが部屋いっぱいに広がっていく。

途中で切れ込みを入れると、生地がふっくらと持ち上がってきた。

その様子を見つめながら、胸の奥が熱くなる。


――私は、ただの女子高生かもしれない。

でも、直也さんの支えにはなれる。

こんなふうに、小さな「魔法のレシピ」で。


オーブンのガラス越しに、膨らんでいくバナナケーキを見つめながら、私は静かに誓った。

「――絶対に守るんだ。直也さんの笑顔を」


甘い香りの中で、胸の奥の決意が強く形を結んでいくのを感じていた。


 ――食卓に夕食の皿が片付いたあと。

 私は、胸の奥がどきどきしっぱなしだった。


 キッチンのオーブンから取り出したばかりのパウンド型。

 ふっくらと膨らんだ生地の表面はこんがりと焼き色がつき、バナナの甘い香りが漂っている。


「……直也さん、今日はこれを作ってみました」


 おそるおそる切り分けた一切れを、小皿にのせて彼の前に置く。

 バナナケーキ。

 直也さんが好きだと知って、何度もレシピを読み返して作った“魔法のレシピ”だ。


 直也さんは、少し驚いた顔をしたあと、すぐに笑みを浮かべてフォークを手に取った。

 そして、ひと口。


 ――その瞬間。


「……っ!」

 直也さんの瞳が大きく見開かれた。


 次の瞬間、口元が緩んで、噛みしめるように何度も頷いている。

「……美味しいな。これすごく懐かしい味だよ」


 その声を聞いただけで、胸の奥が熱くなった。

 でも、続いた言葉は私をさらに驚かせた。


「――母さんが、よく作ってくれたんだ。オレが小さい頃、誕生日や試験の後に……まったく同じ美味しさのバナナケーキを」


 懐かしそうに笑う横顔。

 けれど、少しだけ寂しげでもあった。


「まさか、こんなにそっくりな味に出会えるなんて思わなかった……。義妹ちゃん、本当にありがとう」


 胸がいっぱいになった。

 嬉しくて、でも少し涙が出そうで。

 私はただ、必死に笑顔を保とうとした。


「……良かった。直也さんに食べてもらえて、本当に」


 彼は照れくさそうに笑いながら、もう一口大きくケーキを頬張った。

「――うん。やっぱりオレは、こういう味が――義妹ちゃんが作ってくれるお菓子やご飯が一番美味しいなぁ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸がじんわりと温かくなった。

 (……直也さんに、少しでも力になれたんだ)


 オーブンの残り香に包まれながら、私は心の中で強く思った。

 ――また作ろう。何度でも。

 直也さんが笑顔で「美味しい」と言ってくれる限り、私は何度でも。


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