14話:契約を破棄された花嫁
「ああ。しかし、最初は追い返された。そんな娘はいないと。だから交渉材料と君を領地で迎え入れる用意をして再度、君の実家に取引を持ちかけに行った」
「…………」
「ミリアリアは初めて会ったとき、とても警戒していたな。無理もない。金で君を買おうとする男なんて信用できるはずがない。この子は利口だと思った。逃げ場がない状況で、俺の手を取ってくれたのだから」
「買い被りすぎです、ユージーン様」
大人の彼からすれば、ただの小生意気な娘にしか映らなかっただろう。
けれど、ユージーンは真面目な顔で話を続けた。
「俺は君を妻に迎え入れた。妻として尊重し、何不自由ない生活を保障するつもりだった。しかしながら、君は今まで実家でひどい扱いを受けていた。邸から連れ出した俺になんでも尽くす覚悟もしていた。このままでは妻の役目として夜伽も粛々と受け入れると思った。……だが、それは俺の望みとは違う」
「どういうことでしょう? わたくしはあなたの妻です。妻なら、子を成すことは大事なお務めかと」
「信頼関係が得られていない中では、俺の言葉はすべて命令に聞こえるだろう。そう思ったからこそ、この結婚に際してルールを作った。それが、あの契約書だ」
淡々と告げられる言葉の真意を初めて知り、目を見開いた。最初から契約書が用意されていたのだと思っていた。だが彼の話が真実なら、契約書は当初存在しなかった。
すべては命令に従うミリアリアの行動を見越して。
(この方はなんてお優しいの。まるで砂糖菓子の塊のよう……)
本人が聞いたら怪訝な顔をされること間違いなしの賛辞を送り、ミリアリアは感嘆のため息をついた。
「さようでございましたか」
「君は一応、淑女教育は受けているな。でも穴だらけだ。最初は家庭教師がついていたが、途中からいなくなった、というところか」
「…………そこまで見抜いてしまわれるのですか。わたくしについていた家庭教師は弟妹の教育係に回されました。ですから、本を頼りに独学で学びました。至らぬ点が多かったようで、申し訳ございません。大変不躾なお願いですけれど、よろしければ社交マナーを学ぶ機会が得られましたら嬉しく思います」
今まで言えなかったことを口にする。
無知は恥だ。社交界で教養が足りないのは自分だけではなく、侯爵家全体の体面に関わる。どうか学ぶ機会を、というミリアリアの切実な願いはあっけなく叶えられた。
「もちろんだ。早速、君に合った教師を派遣しよう。だが案ずることはない。君に手ほどきをした家庭教師は優秀だ。基本の型はちゃんとできている。不足はこれから補えばいいだけの話だ。独学で身に付けた聡明な君ならば、物にするまでそう時間はかからないだろう。努力を厭わないミリアリアはよくやっている。もっと誇っていい」
「……ですが同年代と比べたら、わたくしの教育不足は否めません……」
「それほど自分を卑下する必要はない。あの環境の中で腐らず、素直に育ったことを喜ばしく思う。俺にとって、ミリアリアに出会えたことは幸運だった。過去を振り返るばかりでは前に進めない。ともに明日を見つめよう。俺たちは領地を守ったんだ」
未来は明るい、そう言われた気がした。
ユージーンが思い描く未来にはミリアリアもいるのだろう。
それが当然とばかりに胸を張る彼はよき領主だ。形だけの妻の命も尊重してくれる。これ以上の人はいないと断言できる。
「契約書について話を戻そう。ミリアリアが来た当初、君はかなり衰弱していた。俺と同衾すれば、たとえ何もしなくても君は一晩中、緊張することは目に見えていた。だから最初の項目に寝室を別にすることを明記した。ミリアリアに必要なのは栄養と快適な睡眠だ。心身ともにしっかり休み、健康を取り戻してほしくて、いろいろと書き連ねた」
切実な響きは、純粋に自分の身を案じるものだ。労りに満ちた蒼紫の瞳に見つめられ、ミリアリアの心はぽかぽかと温かくなっていく。
改めて、彼の元へ嫁げた幸福を感じずにはいられない。
「……ユージーン様。わたくしはこれほど誰かに気にかけていただいたことがございません。すでに返せないほどの恩があります。わたくしは、あなたの妻として臣下として、今後も──」
「待った。ミリアリア、君は誤解している」
「誤解……ですか?」
きょとんと目を瞬かせていると、ユージーンが首肯する。
「俺は妻に臣下になってほしいわけじゃない。侯爵家当主は俺だが、君とは対等な関係でいたいんだ。ミリアリアに初めて会ったとき、君を守りたいと強く思った。当初は形式上の妻にする予定だったが、君と出会って考えが変わった。同じ家で過ごし、君のことを知るたびに愛おしさが増していった。この気持ちはもう誰にも止められない。…………俺は、愛し愛される夫婦になりたい。だから最初の契約は破棄させてもらう」
「…………え?」