15話:遅れた恋心の自覚
契約を破棄──それはすなわち、契約婚の終焉を意味する。
ミリアリアは震える唇を懸命に動かした。
「恐れながら、ユージーン様。わたくしたちは契約によって結ばれた夫婦です。それを解消するということは、この婚姻関係に終止符を打つ、ということですか……?」
「違う。そうではない。婚姻関係は続行だ」
「続行……つまり、今まで通り?」
「ああ。変わらず、俺は君の夫だ。……どうやら、少し混乱させてしまったらしいな。俺が言っているのは、偽の夫婦関係をやめて、普通の夫婦になりたいということだ」
当然のように言われたが、ミリアリアの困惑は深まるばかりだった。
彼が言う、世間一般の夫婦がわからない。
実家の使用人の噂を聞いただけだが、世の中には鴛鴦夫婦もいれば、仮面夫婦もいるらしい。夫婦関係は表面的には穏やかでも、その内面は家庭によって異なる。
ミリアリアの両親の仲は険悪ではなかったが、実の娘を差別している時点で、一般家庭とは違うだろう。童話によくある結婚して幸せになりました、という結末は幻想だと思って生きてきた。生活環境や考え方が違う男女が一つ屋根の下で住むにあたり、今までの習慣や価値観の違いは必ず出てくる。
円満に過ごすためには、互いに思いやってしっかり話し合うことが大事だと、かつての家庭教師が教えてくれた。言葉を重ねて相手の意見にも耳を傾け、価値観をすり合わせていくのだと。一方的な押しつけは相手に苦痛を与え続け、愛があっても急激に冷えていくのだと。
(わたくしたちの夫婦生活がうまくいっていたのは、使用人の皆様が快適に過ごせるように心を配ってくださったから。彼らがそう動いてくれたのは、侯爵家当主のユージーン様がそのように指示をしてくださっていたから。そして、わたくしは彼の臣下として忠誠を尽くしていた)
ユージーンは言った。俺は妻に臣下になってほしいわけじゃない、と。
けれど、これまでの前提が崩れてしまえば、夫婦生活の破綻に繫がるのではないかという不安が拭いきれない。
未知なる恐怖に身がすくみそうになる。
ミリアリアは眉を下げ、つぶやくように言った。
「…………普通の、定義とは」
「定義? ああ、そうか。君の生家での扱いを考えれば、疑問に思うのは無理もないか。俺は自分の気持ちを伝えるのに必死で、配慮が足りなかったな。すまない。……まずは状況を整理しよう。夫婦になるパターンは、大きく分けて二つ。お互い好きで一緒になる恋愛結婚、次に政略結婚や契約結婚。俺たちの場合は後者だったが、今の俺はミリアリアに恋愛感情を持っている」
「ふぇっ!?」
「……なぜ驚くんだ?」
心底不思議そうに尋ねられ、ミリアリアはうっと半歩下がった。
(い、言えるわけがない。ユージーン様がわたくしに恋情を抱いているなんて、都合のいい夢を見ているとしか思えなかったなんて。なのに、そんなはっきりと言われたら……現実だと認めざるを得ない)
心の準備ができていないまま、想いを告げられてどうしていいのか、反応に困る。
もちろん、ミリアリアだってユージーンのことは好きだ。尊敬しているし、美しいご尊顔を拝するだけで幸せな気持ちになる。自分に向けられる言葉は優しさに満ちていて、いつも胸が温かくなるのだ。
(わ、わたくしは……自分でも気づかないうちに、ユージーン様に恋をしていたの……? そして、彼もわたくしのことを? 本当にこれは夢ではないの? あまりにも都合がよすぎて怖いわ)
真剣に悩むミリアリアの耳にため息が聞こえてくる。
うつむいていた顔を上げれば、ユージーンが神妙な表情でこちらを見ていた。
「俺の気持ちは……君には迷惑だっただろうか?」
その一言は諦観の念を感じさせるもので、思わず息を呑んだ。
早く答えなければ。
そう思ったら、考えるより先にも言葉が口から出ていた。
「迷惑なんかじゃありません! ユージーン様に大事にしてもらっているとわかって、むしろ嬉しいです」
「……それを聞いて安心した。俺たちには、もっと会話が必要だと前から考えていたんだ」
「会話」
「ああ。君の寝室に出向くのも悪くはないが、眠りが訪れるまで話したいことがたくさんある。君のことをもっと教えてほしい。俺のことも君に知ってほしい。今夜からは、寝室は君も俺と同じ部屋だ。すでに準備させてあるが、さすがに急すぎたか?」
行動力の速さに驚いたが、主人に叱られるのを待つ犬のような顔をされては、強くは言えない。ミリアリアは必死に首を横に振った。
「そ、そんなことはございません。わたくしも、その……ご一緒できて嬉しいです。でもあの、以前は『お互いのプライベートに踏み込まない』という項目があったはずですが。ユージーン様は、そういった話をするのがわずらわしいのでは……」





