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スタニング・ワード⑦

 聞いたことのない鈍い音が頭に響いて、次に、感じたことのない痛みが脳天に走った。考える間もなく膝が崩れて、なんとか倒れる手前で踏み留まった地面に赤い液体がしたたり落ちる。


 何がどうなったのか、わけがわからないままトラックの車輪に背中をぶつけて倒れると、遠くなりそうな意識の中でようやく俺は事態を把握した。目の前の男が握る金属バットの先端が赤い血で染まっている。言うまでもない、俺の額から流れているこの血だ。


 バットを握る男の目は血走っていて、今にも追撃して俺を殺す気満々って感じだった。次にあれで殴られたら確実に意識は失うだろうし、即死でなくても殴り殺されるのは目に見えている。


 「これでもスラッガーだったもんでな。獲物に全力でぶつけんのは十八番おはこなんだよ」


 したり顔で詰め寄ってくる犯人。抵抗する術がほしい。戦える武器がほしい。こんなところで死にたくない、死ぬわけにはいかない。焦りに支配されて身を震わせる俺の足元に、ころころと白球が転がってきた。さっき倒れたはずみでポケットから落ちたらしい。それは俺にとってバットよりも武器になる道具でもある。


 「十八番おはこみっけ」


 バットを振りかぶった犯人を前に、俺は力の限り全力ストレートを放った。詰め寄ってきた分、威力も数倍になった直球を額にぶつけると、よろけて後ずさりした犯人は車とぶつかって倒れ込む。


 「こっちも一応エース張ってんだよ。馬鹿野郎」


 今しかないと箱を抱えて俺は走り出した。手負いのせいでふらつく体に鞭打ちながら、階段を上って甲板へと出る。船の端まで行くと、遥か後方に見える港がますます遠ざかっていく。船内の出入口からは怒り狂った表情で犯人が詰め寄ってくる。


 港が遠ざかる一方で、やけに見覚えのある風景が目の前を通り過ぎようとしていた。三年間、何度窓辺からこの海を眺めたことだろう。早く授業が終わらないかと欠伸しただろう。まさか逆側から同じ景色を覗くことになるとは思いもしなかった。


 ―――だから、だから助けなさいよ!あんた、私のナンバー2でしょ!


 まったく魔法の言葉だよな。自分で原因作っておいて逆らえなくなるんだから、世話ないったらありゃしない。


 そうだよ。俺は約束したんだ。そいつを叶えるには脇に抱えたこいつが必要なんだ。ポケットから取り出したカカオマスとカカオバターを箱に入れて封をすると、追いかけてくる犯人に向けて俺はにいっと蔑み笑う。


 「遅かったな!」


 箱を抱えたまま俺は海へと飛び込んだ。海面にぶつかった衝撃で呼吸するタイミングを失い、ろくに息ができないまま荒波に体を流されていく。真冬の海がどれぐらいの温度かなんて馬鹿げたことを考えたことはあるか?考えるまでもなくたった今、俺は知った。寒い冷たいのレベルじゃない。ただただ体中が痛くて、全身がつながっている気がしない。


 それでも、諦めるわけにはいかなかった。


 必ず届ける約束、これだけは命賭けても譲れない。箱に体を預けて学校の方角へと俺は泳ぎ出す。バタ足ひとつで海辺を目指していく。


 距離はそう遠くないはずだった。1,2キロなら学校のプールで何度だって泳いだことがある。服が重い。脱ぎ捨てたい。そんな余裕はどこにもない。でも行かなきゃいけない。昼までに抱えたこいつを届けなきゃいけない。あらゆる準備を施して、信じて待ってくれている人間がそこにいるから。


 飲み込んだ海水を吐き出して、近づかない浜辺に思いを焦がして泳ぎ続ける。気が失いそうになる度に約束の二文字が体を動かす。なかなか縮まらなかった距離が、荒波の向きが変わることで一気に近づいてくる。


 ざらざらした砂の感触に手をつけると、沈みながらも腕は支えられて膝もつくことができた。鉛のように重い体は寒さや痛覚がほとんどない。残された義務感だけが箱を持つ力となり、俺の足の動力となってふらふらと学校の裏口へと導いていく。


 いつになったらこの階段は終わりを迎えるんだろう。


 数えるほどの教室がどうしてこんなに遠いんだろう。


 家庭科室を四階に作った馬鹿は、どこのどいつだろう。


 よく、扉を引く力が残っていたなと思う。驚き言葉を失ったあいつを見て無理矢理笑うことができたなと思う。


 泣きそうな顔で抱きついてきたあいつに、箱の中身を、ちゃんと伝えられたなと思う。

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