スタニング・ワード①
「あの、アマ」と五度ほど毒を吐いた頃、ようやく両目の視力が戻ってきた。
真冬の男子トイレは容赦なく全身を身震いさせる。古めかしい学び舎に温水なんて気の利いたものはあるはずもなく、水洗いした顔の震えが止まらない。
ポケットから取り出した携帯電話はちょうど午前九時を指していた。
今日は入試の都合で三年生は午前のみの短縮授業、それも全時限自習の日だ。本命大学に向けて追い込み勉強をするやつもいれば、バレンタインでの勝利に浮かれに浮かれて暗殺の標的となるやつもいる。どちらにも含まれない人間は教材の代わりに漫画を読んだり、友達と飽きることもなく談笑したりするのが大体の相場だ。そんな中で俺だけが出オチの負傷をひとり寂しく治療するという憂き目に遭っている。
―――いつ見ても綺麗だ。眉間を寄せる姿がお似合いだ。
割と俺は本気で思っていたりする。
青い瞳に肩までかかった金色の髪、すらっとした足の長さと整った顔立ち。世代を超えてなお容姿の遺伝子はしっかり引き継がれていて、むかつくことにネイティブレベルの英語力をもあいつは有している。
とはいえ、生まれ育ちは日本っていう典型的な日系クォーターであり、もっと言うと俺のご近所様だ。金髪は地毛だと譲らず黒彩を断固拒否する屈強さ、融通の利かない生真面目さ、責務をまっとうするためなら誰が相手でも引かない気の強さ。
悲しいかな人間三つも主張が激し過ぎると、どれだけ可愛いかろうがlovelyって単語はterrorの六文字に置き換えられる。黙っていれば誰もが振り返るほどの見た目にもかかわらず、恋人を募集してやまない今日ですら九分九厘の男子生徒があいつの存在に恐れおののいている。
そんなマイナスイメージばかりが先行するから忘れがちだけど、実はよく見ると可愛い内面もあったりする。五発ぐらいの顔面殴打を覚悟して人間ウォッチングをすればよくわかる。もっとも、普段見せることのない一面なんか、誰かに話したところで都市伝説にすり替えられるのが関の山だとも思う。
ハンカチを仕舞った俺は教室に向かって歩きはじめた。このおんぼろ校舎にエアコンなんて現代家電は望めないが、代わりにストーブという強力な味方がいる。早くあそこに戻ってぬくぬくしたい。なんなら購買のパンを賭けて花札をしたい。受験というラスボスにすっかり弱気となってしまった俺にテスト勉強って選択肢は存在しない。
かじかむ手をポケットに突っ込んで教室に戻ろうとすると、階段を通り過ぎた辺りで何かが聞こえた気がした。足を三歩戻して階段の昇降口で耳をすませると、どこからかだろうか人の声が聞こえてくる。
すすり声、なにかを必死に堪えているような声。それが女性ならばなおさらだ。上階から聞こえていることを確認した俺は階段を二段跳びで駆け抜けていく。高校三年間でとうとう花が咲かなかった部活動だったけど、基礎体力だけはこういう時に活かせるもんだ。
屋上の手前まで走り切った俺の前でひとりの女の子がすすり泣いていた。鞄の横に弁当箱や教科書やら、中に詰めていたであろうありとあらゆるものをまき散らしながら。
「おい、どうしたよ」
うちの高校は胸の校章の色で学年分けをしていて、彼女は俺より一学年違う色だった。こんな日じゃなくても女の子が泣いているのは俺としては穏やかじゃない。むせびそうな声を抑えるのに懸命な彼女は自分を制御するだけで精一杯の様子だったが、しばらく待っていると徐々に落ち着きを取り戻して「ごめんなさい」とか細い声で謝ってきた。
「嫌なこと、あったのか」
単刀直入に聞いてみると、躊躇しながら「チョコ」って声がかすれて耳に入ってくる。ああ耳が痛い。俺の方が消えてしまいたい。
「渡したい人がいたんです。私なりに一生懸命作って用意してきたんです……なのに、なのに、鞄に入れたはずのチョコがどこを探してもなくて」
なるほど。女子一生の問題というわけだ。そこに詰めた思いを根こそぎ奪われた気分になって、どうしようもなく感情が高ぶったんだろう。
「男ってのは案外待てるもんだ。ちゃんと話したらわかってくれるって」
「その人、明日で転校しちゃうんです。今日の夜にはこの町を出て行っちゃうんです」
まさかとは思うが、可愛い俺の後輩のことじゃあるまいな。恐る恐る聞いてみると予想通りの答えが返ってくる。もう可愛いなんて前置詞はいらない。たった今からあいつは『ただ』の後輩だ。罪人は爆ぜればいい。
「もう一度作ろうとしても、材料もないし、とても夕方までには……」
俯いて絶望に暮れる女の子を前に、俺は黙りこくって思考を巡らせる。
落とした、無くしたって本人の過失ならばもうどうしようもないし本人責任だ。出来合いのチョコならひとっ走りしてスーパーに買いに行けば十分に間に合う。むしろそうすればいい。できないのは、そこに賭けた思いがあまりにも大き過ぎたせいだろう。
俺だったらどうする。俺が女子だったらどういう道筋が開いてほしいだろう。どんな助けがほしいだろうか。次々に思考を重ねるがなかなか結論はまとまらない。
残念だけど俺は至ってノーマルな男子だ。乙女心を理解することに乏しいことは認めざるを得ない。だから俺も誰かに頼るしかない。取り出した携帯電話のリストのバーを下げていくと、目的の名前の位置で俺は指をぴたっと止める。
ついさっきとんでもない目に遭ったばかりなのに、女性で真っ先に相談したいのは、気に入らないがあいつが第一候補だ。女友達が多くないとかせせこましい事情がそこにあったとしても結論は変わらない。小学生からの腐れ縁ともなると表面に出ない個性までお互い知り尽くしている。
あいつなら―――都合の良いことを考えた時、そいつは大概のケースで聞いていたかのように目の前に現れる。ご自慢の金髪を揺らしながら俺の前で立ち止まると、さっきと同じように眉間を寄せて指差してくる。
「あんた、授業中よ!こんなとこで……」
「聞いてくれ!」
言葉を遮って俺は事の顛末を話した。バレンタインが特別だとか、なんで気持ちが昂るんだろうとか、そういった感情論をこいつは今でも受け入れてくれるだろうか。
理解してほしい。でも伝わってくれるだろうか。しかめっ面の人間を相手に感情のままに伝え、感情のままにどうすればいいかを俺は問う。
「くだらない」
やはりというか、躊躇ない一言で俺の思いは非情のホイッスルを迎えた。言葉を失って唖然とする俺の胸を押した切れ長の目は、感情を剥き出しにして俺を捉えている。
「なにボサッとしてんのよ!さっさと動きなさい!」
「え?え?」
戸惑う俺に「ああ、もう!」とじれったそうに彼女は睨みつけた。
「夕方までに作りなおすんでしょ?一秒も無駄な時間は許されないのよ。ほら、さっさと行きなさいってば!」
「行くってどこへ?」
「手作りだったら材料から集めるに決まってるでしょ!」




