スタニング・ワード⑧
ここは天国に違いない。目を覚ました世界は体全体がぬくもりに包まれていた。
痛くも寒くもない、ごくごく当たり前な環境に俺はありがたみを感じている。額は包帯でぐるぐる巻きになってて、体も重さが残っているけど、しんどさやだるさといったものはない。
そう、あたたかいんだ。包み込むようなあたたかさが背中から伝わってくる。目の前でオレンジ色を点すストーブも体を温かくしてくれているけど、そういうのとはちょっと違う、感情が伝播してくるようなぬくもりだ。
外は既に真っ暗で、電灯も点けていない教室はストーブの色だけが頼りだ。その割に室内はよく見えていて、向かい合わせで置いてあった鏡が重たい理由のすべてを教えてくれた。
後ろから被さって俺の全身を抱えてくれた人間がいた。凍りついた俺に触れるのは難を極めただろうに、身震いひとつせずに俺を抱きしめてくれている。目を覚ましたことに気づいたそいつは俺のうなじに顔を押しつけると、ひんやりとしたものを筋にして流し落としていった。
「どこで頭打ったのよ。どこから狂ったのよ。ほんと、あんた頭おかしいんじゃないの」
「狂ったオーダーだったよな。でも、まあ、女子一生の問題だったからな」
「こんなになってまで……叶えてほしいなんて」
「思ってくれよ、そう聞こえたんだ。三年前のツケ、返したかったからさ」
「言ってないわよ!そんな権利私にあるわけない!あんたの将来……潰したの、私だよ」
やっぱり時計の針は止まったままだった。だからこそ野球部に入らず風紀委員なんてものを三年間務めていたんだろうけど、もう、そいつは背負わなくていい。向きを返して正面で見合った俺は思い切ってエースをぎゅっと抱きしめた。
向こうだってずっとやってたんだから、俺だけが怒られるなんて不条理は起きないはずだ。驚きのあまり震えた腕で今にもぶん殴ってきそうな気がしないでもないけど、多分大丈夫。まだ力強くはない左手をぐるりと回して、ポニーテールごと俺は彼女の体を寄せる。
潰れたのは、俺の左手だった。
バッターのファウルチップを強引に受け止めようとして手の甲全体に亀裂が走った。もがき苦しみ、自分でミットを取り外せない俺のもとに全員が集まった。泣きそうになったこいつを見て、泣きながら「大丈夫です」と言った俺に説得力なんか欠片もなかった。デッドボールで受けた手負いを隠して我慢し続けたツケが、結果として一気に回ってきた。
交代要員を使い切った監督は俺の訴えを無視して中止を要請して試合は無効。敗者となった俺たちは中学生が発信する高校野球の大改革を成し得ることができなかった。
「ちゃんと動いてるだろ。もう、お前のボールをちゃんと受けられる」
軽快にグーとパーをする俺の左手を握って、風紀委員は泣きじゃくった。責任感の塊みたいなこいつのことだ、ろくに口をきかなかった三年間、ずっと自分を責め続けていたに違いない。
「よかった。本当によかったよ」
小学生から現在に至るまで、こんなにしおらしい姿、初めて見たかもしれない。自分を顧みず約束を守ろうとした馬鹿な男を、目が覚めるまで温もりを与え続けてくれた頑固な女。ポケットから落ちた折り畳みの携帯電話を広げると、防水加工は大したもので画面も電池も問題ない。
たまたま表示したままだった受信メール。「よろしくお願いします」で締めくくったはずの文章は、どういうわけかぐいぐいスクロールできる。
それは、ちゃんと最後までバーを下げないと気づかない最後の一文。
―今でもずっと、あんたを信じてる。
なるほど。良い女だ。店員さんの言ったことは間違いじゃなかった。