廃屋へ 弐
吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。俊夫はよろめきながら歩き出す。
「せ、先生? なんで? 俺は……?」
「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」
「梓さんは、沙織さんたちを」
「はい!」
梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。
「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」
梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。震える手を梓の指に絡める。
「……どうして……どうしてこんなことを……」
「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」
沙織は涙に滲む視界で少女を見上げた。若いのに、どうしてこんなに強いのか――その姿が眩しかった。
沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。
「おかあさん……」
「……おとうさん、だいじょうぶ?」
その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。
「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」
その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。吉川の目が一瞬だけ険しくなる。
「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」
梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。
「ここに入ったのは誰じゃ? 村の外のもんか?」
そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。梓は咄嗟に陽一を胸に抱き寄せる。
吉川はゆっくりと立ち上がり、廃屋の戸口に向かって歩を進めた。
「庄司さんですか! 私です、吉川です!」
声は穏やかに見えて、奥に冷たい刃を含んでいる。
「おお、先生じゃったんか。こげなところで何を?」
「こちらの方々は負傷者です。治療が必要であり、今は手当を優先させていただきます」
吉川の声は丁寧だが、決して退かなかった。庄司は笑みを崩さぬまま、吐き捨てるように答える。
「村の掟がそういうとらんか。ここに置かれたのは、にくゑ様のためのことじゃ。あんたらが余計なことをすれば、事は済みはせん」
「診療所へ移します。手当を続けますが、ここで長居するわけにはいきません。穏便に移動させますので、危害は加えません」
庄司の影がぴたりと止まった。次の瞬間、障子が大きく揺れ、銃口が月明かりに冷たく光る。
「置いてけ。すりゃ、先生までどうこうしようとは思わん」
「できませんっ!」
「――なら」
庄司の猟銃が、ゆっくりと持ち上がる。まさか、撃つつもりなのだろうか? そして猟銃は、ピタリと吉川の胸に向かって狙いをつけた。
「あなたはっ! 自分が何をしているのかわかってるんですか!?」
「この人らは、大切な新しい血じゃけんな。置いといてもらわんと困るんじゃ」
「――くっ!」
梓はとっさに外に向かって駆けだしていた。吉川と庄司の間に両手を広げて立ち塞がる。
「《《やめて》》! 《《やめてくださいっ》》! この人たち、怪我をしてるんですっ! 先生に診て貰わないとっ!」
梓の声が夜気を切った瞬間、庄司の肩の力がすっと抜けた。猟銃はゆっくりと揺れ、銃口が吉川の胸から外れて下ろされていく。指先が引き金から滑り落ちるように緩み、男の顔がふっと遠くを見つめるように変わった。
「はい……やめ……ます、けん……」
庄司はその場に崩れ落ちるように膝をつき、握っていた銃が地面に鈍い音を立てて落ちた。彼の目は虚ろで、口がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
「え?」
庄司の様子に、梓は目を見開く。どうやら彼は意識を失っているようだ。
――何が起きたの? あの少女は一体……。
沙織は胸の奥に恐怖と安堵が入り混じるのを感じながら、その疑問を飲み込んだ。
「一体……何が起こったんです?」
「わかりません……いきなり気絶したみたいになって……」
梓は自分の喉に手を当てた。必死だった。ただ、この人たちを守りたい一心で叫んだだけだ。
母の日記の一節が、頭をよぎる。――虚木の強い血。
これが、その力なのだろうか。
吉川が庄司に駆け寄り、脈を診る。呼吸は安定し、外傷もない。だが何が起きたのかは不明だった。
「色々気になることはありますが、今はここを出ましょう。私が先導します。外に出たら、走らないでください、静かに」
「おとうさん……いっしょに、いく?」
「ああ、一緒だよ。お父さんも、もうすぐ元気になるからね」
陽一は小さく頷き、再び梓の胸に顔を埋めた。梓が沙織に歩み寄り、手を差し出す。沙織はぎゅっと梓の手を握り返し、その目にわずかな決意が宿る。
道を抜ける間際、梓はふと背後を振り返った。廃屋の前に、庄司が猟銃を傍らに落としたまま倒れている。月光に照らされたその姿は、まるで操り糸を切られた人形のようだった。
佐藤一家を誘導しながら、梓と吉川は夜道を進んだ。ほどなく、診療所の灯りが遠くに見え始める。
胸の中で祠の名と井戸の戒めが重くのしかかる。だが今は、それを飲み込むしかない。救った命を先に運ぶ――それが今、梓にとって最も大切な行為だった。
§ § §
【筆者後書き】
長い章が終わりました。
次章は「悲劇」
ひとつの物語の顛末を、どうか見届けてください。
夜、誰かが呼んでいるような気がします。
でも、まだ書けます。




