居なかった子供たち 参
清音。
隣で、あの子は手を握ってくれた。ああ、やっぱり貴方は特別、と。言葉は甘く、肌の上に溶けた。
同時に、彼女の目の底には膜とは違う何か――静かな水の深みのようなものがあった。そこに蓄えられている秘密の量を、梓は直感で知ってしまった。秘密は、愛情の形をして近づいてくることがある。
――知らなければいけない。
何故、誰も美穂たちのことを覚えていないのか。
あるいは覚えていない振りをしているのか。
廊下の端から足音がした。あゆみの笑い声が、誰かの足音と重なる。
「梓ちゃん、一人でなにしよるん?」
顔だけ出して、あゆみが覗く。いつもどおり、明るい。
「……ちょっと、考えごと」
「考えごと、ねえ」
あゆみは教室に入ってきて、梓の机に肘をのせた。
「さっきは、ごめんね。なんか、変なこと言ってしもうた」
「ううん」
「でも、清音様がおるけん。大丈夫じゃけん」
“清音様”。その呼び方に、細い針がまたひとつ刺さる。
「清音は……優しいよ」
「そうじゃろ? 清音様は、うちにも優しいよ」
言いながら、あゆみは梓の目を見ない。視線は梓の手元に落ちて、そのまま机の木目を追った。
「梓ちゃんも、清音様が好きなんじゃろ」
「……うん」
「じゃあ、ええね」
あゆみはにこっと笑って、くるりと踵を返した。
扉まで三歩。そこで一度だけ振り返る。
「梓ちゃん、勘違いせんといてね」
言葉と笑顔は優しい。けれど、優しさの輪郭は少しだけ鋭かった。
「清音は誰にでも優しいんよ?」
扉が閉まる。静けさが戻る。
梓は深く息を吸った。肺の奥が痛い。
――信じたい。
指先が震える。清音の手の冷たさを、皮膚の記憶がまだ正確に辿れる。
――でも、確かめたい。
目の裏で、母の顔が薄く笑う。「いつか、話せたらいいな」。
いつか、は多分、来ないことがある。来ないまま、誰かがいなくなることがある。
――母さん。何故母さんは、この村には戻ろうとしなかったの?
村の掟って何?
にくゑ様って何?
どうして美穂と健太のことを誰も覚えてないの?
あの子たちは……どうなってしまったの?
梓はゆっくり立ち上がり、椅子の脚を床から離す。音が小さく鳴って、教室の隅で消えた。
鞄を肩にかける。文庫本の重みが、布越しに背中へ伝わる。角の丸いその本は、たった数百グラムの灯りだ。
窓の外は、夕暮れの色を濃くしている。山の端に沿って薄紫が広がり、校庭の鉄棒が黒い線になった。
梓は黒板に背を向け、扉の前で一度だけ振り返る。空の机。呼ばれなかった名前。――消された気配。
舌の先に、ひとことが乗る。
「逃げない」
梓は自分に言い聞かせた。
「私は、確かめなくちゃ」
元々そのつもりでこの村に来たのだから。
言葉にすることで、心の奥の火が強くなった。誰かに与えられる灯りではなく、自分で燃やす炎を。
廊下を歩く。踵の音がやけに遠くに聞こえる。
階段を降りながら、梓は心の中で、清音の名を呼んだ。
――信じたい。
でも、隠していることがあるなら、わたしはそれを知らなければいけない。
この想いは、わからないまま抱えられるほど軽くない。
学校の敷居を跨ぎ、夕風に頬を撫でられながら、梓は小さくうなずいた。
清音を信じたいからこそ、確かめる。隠し事の名前を、光の下に引きずり出す。
それが、自分の居場所を自分で選ぶということの、いちばん最初の一歩だと感じられた。




