吉川直樹 逃走
千鶴の悲鳴が背後で弾けた。
吉川は竦む足を堪え、強ばる体を無理矢理動かす。恐怖は容易に人を縛る。しかし理性がそれを打ち破ることはできる!
反射的に手近な器具を探す。
刃物……いや、メスでは駄目だ。脆すぎる。
指先に触れたのは、重みのある金属。
鉗子――血管や腸管を挟んで固定するための器具だ。大きな鋏のような形をしているが、刃はなく、先端は厚みのある金属で噛み合わされている。外科ではこれで出血を抑えたり、組織を保持したりする。だが今の吉川にとっては、手にできる唯一の武器だった。
肉塊が天井からしなるように落下してきた。
直感が告げる――狙われているのは眼と口だ、と。
吉川は咄嗟に左腕を顔の前にかざした。
ずしりと重い衝撃。
赤黒い塊が腕に絡みつき、ぬめりとした感触が皮膚を覆う。
骨ごと圧し潰そうとする締め付けに、思わず息が詰まった。
「ぐっ……!」
右手で鉗子を握り直し、絡みつく肉へ突き立てる。
ぶすりと穴は開く。だが、すぐに盛り上がった肉が塞がり、先ほどの痕跡はほとんど消えていった。
再生する――。どれほど突いても意味がない。
恐怖で固まっている千鶴の姿が視界に入った。彼女の傍らに置いてあるのは――。
――そうだ、あの時、あの時も炎だった。
吉川は喉を裂くように声を絞り出した。
「千鶴さん……火です! 医療用バーナーを!」
喉を裂くような叫び。
千鶴は一瞬呆然としたが、すぐに棚に手を伸ばし、震える手で器具を抱える。
持っているのは、金属製の小型バーナー。消毒や滅菌のために使うものだ。
普段はアルコール綿に火をつける程度だが、ガスを全開にすれば炎は刃のように唸る。
「火をつけて渡してくださいッ!」
千鶴が震える指で着火スイッチをひねった。
――シュボッ。
青白い炎が鋭く伸び、処置室の空気が一気に熱を帯びる。
吉川はそれを受け取り、腕に絡みついた肉塊に向けて青白い炎を向けた。
医療用の滅菌バーナーとはいえ、その温度は千五百度に達する。
「こいつを……焼くしかない!」
叫ぶと同時に、炎を腕に絡みついた肉塊に浴びせた。
肉塊から幾つもの口が一斉に開き、甲高い軋んだような悲鳴を上げ、粘膜が泡立ち、無数の眼が次々と焼け潰れていく。
熱に耐えかねたように、肉塊が腕から離れ床に落ちる。高温の炎を間近で受けた左腕は深刻な火傷を負っているが今は無視だ。
「くっ……このッ!」
続けざまに動きが鈍くなった肉塊に、吉川は青白い炎を浴びせ続けた。
弾けた体液が飛び散り、甘ったるい臭気と焦げた匂いが室内に充満した。
「キャっ!」
千鶴が悲鳴を上げ、顔を覆う。
吉川は目を逸らさなかった。炎の光の中、黒い塊がのたうち、やがて崩れ落ちるまで見届けた。
床に落ちた残骸は炭のように黒く固まり、もはや動かない。
悪夢のような光景に、吉川も千鶴も声を失って立ち尽くした。
吉川は荒い息をつき、腕の火傷の痛みを無視しながら処置台へと視線を戻した。
そのときだった。
――ぐずり。
肉塊が抜け出した少年の遺体が、音を立てて沈んだ。
皮膚は自重に耐えられず、ずるずると滑り落ちるように形を失っていく。
眼窩からは濁った液があふれ、肋骨は軋みながら崩れ、内側から腐ったように崩壊していった。
「……っ」
千鶴が声を飲み、壁際に後ずさった。
吉川は目を逸らせなかった。
それは確かに、かつて見た“あれ”の姿だった。
唇を持ち、歯をのぞかせ、炎に包まれて溶け崩れた、あの夜の肉塊。
――そうだ。あの時も火だった。
匂いが鼻を刺した瞬間、意識を引き戻される。
焚き火の光、夏の夜の空気、三人で過ごしたあの時へ。




