佐藤沙織 疑念の夜
夜、布団に入ったあと。
寝息の落ち着いた陽一を横に、沙織は勇気を振り絞った。
「俊夫さん……やっぱり、一度診てもらったほうがいいと思うの」
「なんだと?」
俊夫が身を起こし、低い声で繰り返す。
「俺を疑ってるのか」
「違うの、ただ心配で……」
「俺は元気になったんだ。お前も喜べばいい」
笑みを浮かべながらも、声は荒々しく、瞳の奥にぎらりと光が走った。
沙織は胸が縮み、言葉を失う。疑ってはいけない。否定すれば、もっと遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が喉を塞いだ。
その夜遅く――突然、俊夫が暴れ始めた。
沙織が台所で夕食の片付けをしていると、居間から異様な音がした。何かが畳を引っ掻く音。そして、低い呻き声。
「俊夫さん?」
駆けつけると、俊夫が床に膝をつき、全身を震わせていた。顔は赤黒く火照り、荒い息が喉を震わせている。
「大丈夫……?」
近づこうとした瞬間――
「うあああああッ!」
俊夫が跳ね起き、喉の奥から獣の咆哮を上げた。畳を裂く音、柱を揺らすほどの力。
赤く充血した眼がぎらりと光り、瞳孔が縦に裂けかける。汗に濡れた胸板が脈打ち、全身の筋肉が浮き上がる。
「俊夫さん!」
沙織は叫んだが、その時すでに玄関が激しく叩かれていた。
「奥さん! 大変なことになっとるな! 大丈夫じゃから!」
メキメキと音を立てて、戸が無理矢理開かれると、男衆が十人以上、総出で駆けつけていた。まるで俊夫の暴発を予期していたかのような素早さだった。
その群れの後ろに、村長・虚木清一。そしてその隣に、まだ少女のはずなのに自然すぎる佇まいで立つ、清音。白い首筋をまっすぐに伸ばし、沈黙の中に不思議な威厳を帯びている。周囲の大人たちが彼女を一目置くように距離を保っているのを見て、沙織の胸に違和感が走った。
「心配せんでええ、すぐ良うなるけぇ」
「よう働きすぎただけじゃ」
口々に同じ言葉を並べながら、全員が笑顔を浮かべていた。その揃いすぎた笑みに、沙織の膝が震えた。
男衆が一斉に居間に入り、暴れる俊夫を押さえ込む。清音が一歩前に出て祈りのような声を漏らすと、俊夫の痙攣がふっと弱まった。
――この子が、俊夫を鎮めた?
「清音様がいらっしゃるけぇ、大丈夫じゃ」
「清音様のお力で、よう鎮まらっしゃった」
押さえ込んでいた男衆が口々に少女の名を言い、安堵の笑みを浮かべた。その瞬間、沙織の心臓は冷たい手で握られたように縮んだ。
「もうよかろう。ここでは抑えきれん。何時もの場所へ連れて行け」
清一の声に、誰も逆らわない。縄が持ち出され、俊夫の両腕が縛られていく。呻きと咆哮が混じる中、縄の軋む音だけが異様に大きく響いた。
「やめて! どこへ連れて行くの!」
沙織は必死に叫び、陽一を抱きしめて立ちはだかる。だが清一は笑顔を三度浮かべ、静かに近づいてきた。
「奥さん、心配することはない。にくゑ様のお側で休ませれば、すぐ良うなる」
柔らかな声。けれど否定を許さない威圧が背筋を這い上がる。沙織と陽一の体に幾つもの手が絡みつき、一家は揃って移送されてゆく。
§ § §
松明の列に囲まれ、家族ごと村はずれの洞窟前へと連れ出される。
「こんなところに……洞窟が」
沙織は震える声でつぶやいた。村に住んでから一度も聞いたことのない場所。古びた井戸の向こう、黒ずんだ畳と煤けた梁が残る廃屋があった――かつては社務所だったのだろう。
「ここじゃ」
俊夫は柱に縛り付けられる。清音がその前に跪き、祈りを紡ぐと、俊夫の体は震えながらも再び静かになった。
「奥さん、坊も。ここから出てはいかん。にくゑ様がお守りくださる」
笑顔。穏やかで、しかし絶対に逆らえない命令。
戸が閉ざされ、閂が落ちる音が響いた。残されたのは、縛られた夫の呻き声と、泣きじゃくる子の声、そして湿った闇だけ。
沙織は陽一を抱きしめ、全身を震わせた。
――ここは、牢獄だ。もしかしたらこの村そのものが。
清音の祈りが夫を鎮めた光景が、何より恐ろしい。
絶望が胸を満たし、涙が止まらなかった。
§ § §
【筆者後書き】
序が終わり、破が始まります。
次章「二つの遺体」から、物語は加速してゆきます。
お腹から、水の音が聞こえてくるのは気のせいでしょうか?
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全話投稿済みなので、どうか最後までお楽しみ下さいませ。




