佐藤沙織 回復の朝
翌朝、朝食の支度をしていると、俊夫が台所に顔を出した。
「おい、もう畑に出てくるよ」
昨日の薬が効いたのか、その声は力強く、顔色も昨日までとは見違えるほど良い。
「でも、まだ体を休めた方が――」
「平気だって。むしろ体が軽いくらいだ」
眠っていた陽一が朝の気配に目を覚ます。
「お、陽一、もう起きたのか!」
「うん、おはよ……お父さん、すごい! 昨日は寝てたのに!」
「あっはは、お父さんは強いからな!」
無邪気な声と笑顔が、いっそう沙織を孤立させる。二人にとっては幸福の回復。それを喜べない自分だけが、外に置き去りにされていた。
朝食の膳を並べながら、沙織は俊夫の顔を盗み見る。目の充血はすっかり引き、頬にも赤みが差している。それなのに、どこか作り物めいた元気の良さが引っかかった。
「今日はいい天気だ。畑仕事が捗るぞ」
俊夫は味噌汁を一息にすすり、茶碗を突き出す。
「おかわり」
沙織は無言でよそいながら、その食べっぷりを数えていた。もう三杯目だ。昨日までなら考えられない量だった。
「陽一、学校頑張ってこいよ」
「うん!」
息子の頭を乱暴に撫でると、俊夫は箸を置いて立ち上がった。見送る沙織の胸に、言葉にならない違和感が積み重なっていく。
俊夫はけろりとした顔で畑に出て行った。昨夜の獣じみた熱と、今の元気な夫。どちらが本当か、わからなくなる。
力が強すぎる。岩混じりの畝を軽々と掘り返す姿は、疲れを知らないかのようだった。昼の食卓では白米が三度も空になる。
「俊夫さん……そんなに食べて大丈夫?」
「なんだ、心配性だな。体が元気になった証拠だろ」
笑いながら口を大きく開き、肉を押し込む。汁が口の端から垂れても気にせず、豪快に咀嚼する音が畳に響いた。
「でも、朝からずっと畑仕事して……」
「全然疲れないんだ。むしろもっと働きたいくらいだ」
人間らしい疲労を感じない――その事実に、沙織は言いようのない寒気を覚えた。
陽一が学校から帰ってくると、俊夫は息子を膝に抱き上げた。
「陽一、お父さんと一緒に畑を見に行こうか」
「わーい!」
二人の笑い声が重なる。その光景は確かに微笑ましいはずなのに、沙織には何か得体の知れない不安が胸を締めつけた。
日が傾き、買い物の帰り道で清一とお福、庄司に出会う。三人が三度、同じ笑顔で口を揃える。
「旦那さん、もう元気になられたそうじゃな」
「薬がよう効いたけぇ、安心せえ」
「あの……あの薬、本当は何なんですか」
勇気を振り絞って問うと、清一は穏やかな口調で返す。
「古うからの薬じゃけぇ。外の医者にはわからんもんじゃ。心配いらん」
「でも――」
「心配はいらん」
重ねられた言葉に遮られ、沙織はそれ以上声を出せなかった。
気づけば、周囲の畑でも人々が同じ動きで鍬を振るい、同じ調子で笑っていた。視線が自分に集まっているわけではないのに、監視されているような錯覚に包まれる。
家に戻ると、俊夫はまだ畑で汗を流していた。太陽が傾き始めても、その勢いは衰えることがない。
「俊夫さん、もうそろそろ休んだら?」
沙織が声をかけると、俊夫は振り返った。その目に、一瞬ぎらりと赤い光が宿ったように見えた。
「まだ大丈夫だ。もう少しやる」
そう言って再び鍬を振るう。その動作は人間を超えた何かに突き動かされているように見えた。
そろそろ日も暮れる時間になったが、沙織は診療所へ行こうと決意した。せめて吉川先生に小瓶を見せて、中身を確かめてもらわなければ。
だが玄関を出るたび、誰かが声をかけてくる。
「先生は忙しかろうけん、行かんほうがええ」
「病気ならもう治っとるじゃろう」
「旦那さんが元気なら、それでええんよ」
柔らかい言葉、親切そうな調子。けれどその繰り返しが胸を締めつける。まさか……監視されてる?
少し怖くなって沙織は家に戻る。結局家から出ることはなく、夜を迎えた。台所で小瓶の外側を拭いながら、手が震えた。光に透かせば、赤黒い色がまだ底に薄く残っている。
俊夫と陽一の笑い声が奥の部屋から響く。それは確かに温かいはずなのに、沙織には「逃げ場のない檻」の音に聞こえた。




