森谷健太 美穂の疑念
美穂の視線が、ノートの端から離れない。隠したはずの鉛筆の跡が、光の加減で浮き上がっている。あ・ゆ・み。消しゴムで何度も薄くした痕が、かえって透けて見えたのだった。美穂の表情が、一瞬だけ影を落とす。
「……違うとよ、これは、その、練習で」
「うん、練習でも、いいけぇな」
美穂は笑って言った。笑い方が、授業中とは違っていた。誰かに合わせる調子ではなく、ほんの少し息が抜けるような笑い方。けれど、その奥に小さな痛みが混じっているのを、健太は気づかない。
「渡したら、きっと喜ぶとよ。あゆみ、ああ見えて、そういうのうれしい子じゃと思う」
自分の気持ちを押し殺して、美穂は健太の恋を応援する。声が少しだけかすれそうになったが、すぐに笑顔で覆い隠した。
「そう、かな」
「うん」
二人だけの約束のように、その一言が机の上に置かれた。美穂は文庫本を胸に抱え、背伸びをして肩を回す。髪が少し揺れて、汗の匂いがした。健太の前から立ち去るのが、いつもより辛い。
「じゃ、また明日な。――がんばってな」
美穂はノートを指先でとんと叩く仕草をした。健太の恋を応援しながら、自分の想いは胸の奥にしまい込んで。扉を開く。美穂は扉のガラス越しに健太を振り返りたい衝動を、ぐっと堪えた。
健太は再びノートに目をおとす。あゆみ、ともう一度書いた。今度は紙が破れなかった。文字の線が少しだけ、まっすぐだ。指でなぞると、ちゃんとそこにある感じがした。健太は息を吐き、ページの端を折り、封筒の代わりにノートの表紙で包む。
窓の外では、山の陰影が濃くなりはじめている。図書室の時計の針が一つ進んだ。廊下の向こうから、誰かの笑い声が三度、等間隔で響く。健太は耳を澄ますのをやめ、机に視線を戻した。
(渡そう。明日)
そう思ってはいるが、きっと自分はこの手紙は渡せないと健太は知っていた。
もう一度鉛筆を持ち、「あ」の字から書き始めようとした時だった。不意に文字が歪んだ。
健太は目を凝らす。もう一度書こうとするが、紙の上で文字が黒い線にしかならない。
「どうして……」
声を詰まらせ、鉛筆を握りしめたまま机に突っ伏す。本を開いても、活字が黒い染みに変わる。大切な母の本の文字も、もう読めない。ページを抱え込み、健太は嗚咽した。
ドアの外から覗いていた美穂は、健太の様子を見て慌てて駆け寄った。
「健太、どうしたと?」
美穂の声に、健太は顔を上げる。涙で頬が濡れていた。
「文字が……文字が読めんのじゃ」
「え?」
「昨日まで読めよったのに、今日は全然……本も手紙も、全部黒い線にしか見えん」
健太の震える声を聞いて、美穂の表情が青ざめる。昨日の教室での出来事が脳裏によみがえった。掟破り。清音の警告。
「吉川先生のところに行こう。きっと何か分かるけぇ」
「でも、こんなこと……」
「大丈夫。私も一緒に行くけぇ」
美穂は健太の手を取った。その手は冷たく震えていた。二人は夕闇の中、診療所へと向かった。




