断片|筆者の覚書
【筆者の覚書より】
夜中に目が覚めたとき、手が勝手に動いて、ノートに書いていた。
これは私の言葉じゃない。男の人の声だった。
§ § §
グチャリ…グチャ…ベチャ……ボトトッ…
視界を覆うのは、べっとりとこびりついた赤。
生温かい飛沫が顔を打ち、甘ったるい鉄の匂いが鼻腔の奥深くまでこびりついて離れない。
俺は…何をして…いや、何を食って……
口の中に広がるのは、ひどく柔らかく、甘い肉の味。歯を立てるたびに、小さな骨が砕ける小気味良い音が頭蓋骨の裏側にまで響き渡る。
沙織が見える。俺の愛する妻だ。なぜ、そんなに絶望した顔で泣き叫んでいる?
俺はこんなに、圧倒的な幸福感に包まれているというのに。
クチャ…グチャ…ブチッ…
喉笛を引き裂き、柔らかな肉を啜る湿った音。
『眠りなさい』
――――ブツッ。
氷のように冷たい女の声を最後に、俺の意識はここで途絶えた。
いや、途絶えたのではない。俺という人間の輪郭が、境界線が、どろりとした温かく巨大な何かへと溶け落ちていく感覚だった。
深い深い、地の底。土と血と、発酵したような甘い匂いが充満する闇の中へ、俺の魂はゆっくりと沈んでいく。
そこは決して孤独ではなかった。
無数の声が響いている。男の声、女の声、老人の声、そして子供の声。それらがすべて一つの巨大な意志として束ねられ、波のように俺の意識を撫でては歓喜の歌を歌っている。
『ようこそ』『仲間じゃ』『これで一つになれたのう』
その声の奥底に、地脈のさらに深くで蠢く巨大な肉の塊を感じた。無数の目をぎょろぎょろと見開き、村全体を根のように抱え込む偉大なる神。
『にくゑ』。
俺はあの宴の夜、赤黒い酒を飲み干した時から、この肉の一部へと変貌を始めていたのだ。
赤い泥の海に沈みゆく中で、ふと、あの日の食卓の匂いが蘇った。
出汁の染みた里芋の煮物。豚肉とピーマンの味噌炒め。湯気を立てるつややかな白いご飯。
『やだ、苦いから』
ピーマンを端に除けようと顔をしかめる陽一を、俺は笑って抱き寄せた。
『俺だって子供のころは嫌いだったんだ』
あの時、陽一の小さな肩から伝わってきた温もり。沙織の呆れたような、けれど愛情に満ちた眼差し。あれこそが、俺が東京の灰色の生活から逃れ、この村で手に入れたかった本当の「幸福」だったはずだ。
それなのに、今俺の歯に挟まっているのは、あの時ピーマンを嫌がって笑っていた陽一の、柔らかい肉片だ。
――なぜ、こんなことになったのか。
赤い波に揺られながら、俺は沙織を抱いた夜の狂乱を思い出す。
あの夜、俺の体はすでに見えない糸で操られていた。異常な熱が全身を焼き焦がし、暗闇の中で沙織を見つめる俺の瞳孔は、獣のように縦に裂けていたに違いない。
『お前が欲しい』
恐怖に震える沙織を強引に押さえつけた時、汗に濡れた俺の胸板の下で、俺ではない別の何かが脈打っていた。それは夫としての優しさなど微塵もない、群れに引きずり込もうとする捕食者の飢えだった。
しかし、俺の脳を支配し始めていたにくゑの意思は、それを『極上の愛』だと錯覚させた。この圧倒的な多幸感、万能感を、妻にも注ぎ込んでやりたい。肉体を割り、一つになりたい。抗うことのできない興奮と暴力的な熱情が、俺の中から「佐藤俊夫」という人間の理性を焼き尽くしていったのだ。
そして、診療所で目を覚まし、扉の向こうから聞こえた声。
『お母さんね、赤ちゃんができたんだって! 弟か妹ができるんだよ!』
四人家族になる。俺の夢見た、完璧な幸せ。
だが、俺ではない俺の意志は、黒い歓喜に打ち震えた。
『ああ、愛おしい』『その幸福ごと、すべてを喰らい、我が内へと取り込もう』
気づいた時、すでに俺は、愛する我が子へと飛びかかっていた。
グチャリ。
息子を喰らいながら、俺の魂の奥底に残っていた「人間」の部分は狂乱し、絶叫していた。
やめろ!吐き出せ!それは俺が命に代えても守ると誓った陽一なんだ!
沙織の悲鳴が耳をつんざく。血にまみれた俺の腕の中で、息子の小さな手は力なく痙攣し、やがて床に落ちた。
狂わんばかりの罪悪感と絶望が、俺の心を粉々に打ち砕く……はずだった。
しかし――恐怖は、一瞬にしてかき消され、塗り替えられていく。
『美味いなあ』
『幸せじゃなあ』
絶望を塗り潰すように、腹の底からこみ上げてきたのは、甘美で暴力的なまでの「幸福感」だった。
息子を噛み砕くたびに、罪悪感が麻痺していく。悲しみが、歓喜へと反転していく。
あんなにも愛していた家族を壊しているのに、俺の心は至福に満たされていくのだ。涙を流したいと思っているのに、多幸感が脳髄を痺れさせ、口角がだらしなく吊り上がっていくのがわかる。
それが何よりも恐ろしかった。
狂気よりも恐ろしい、陽だまりのような安らぎ。
魂が泥に溶け、罪の意識すらも甘い蜜へと変わっていく。
俺の意識は、赤い泥の中へと完全に沈んでいく。
沙織……泣かないでくれ。
逃げてくれ。俺を置いて、あの狂った腹の中の子と一緒に、こんな地獄から逃げてくれ。
最後に残った人間としての切実な祈りすら、どろりとした幸福の波に飲み込まれ、ふつふつと泡を立てて消滅していく。
『これでお前も、永遠に俺たちの一部じゃ』
無数の目が、地の底で俺を歓迎している。
俺はもう、父親ではない。夫でもない。
……ああ、でも。
陽一の肉は、血は。
本当に、温かくて、甘かったんだ。
その思いを反芻した時、佐藤俊夫という男の存在は、家族を思う微かな残響を最後に、悲しいほどの『幸福感』の波に飲まれ、消失した。
§ § §
書き終えて、はじめて気づいた。
私の口の中が、甘かった。




