虚木清音 前日
祭りの準備が始まる。
窓の外から太鼓の音や笛の音。村の人々が嬉しそうに働いている声も聞こえていた。
通過儀礼。十七歳の子供たちが大人になる祭り。
清音も、梓も、あゆみも、その対象だった。もういない二人も。
しかし、清音は、もうその儀式を受ける必要がないのかもしれない。
清一の見込みの通り、体の変化は進む一方で、もう人間とは呼べない状態になっていた。目の数は数え切れないほど増え、時々、にくゑの声が聞こえてくる。
『清音……もう十分でしょう』
『こちらにおいで』
『皆で一緒に暮らしましょう』
彼岸から聞こえてくる誘いの声。甘く、優しく、すべてを受け入れてくれる響き。
しかし清音は首を振った。
「私は……そこにはいきたくない……」
だって、そこには彼女がいない。だから、絶対に。
§ § §
祭りの前日。
それは最後の、訪問だった。
梓の足音が玄関に響く。いつものように清一が出て対応している。
「……まだ諦めんのか」
冷たい声だった。
「清音に会わせてください」
梓の声は震えていたが、決意は固かった。
「ならん。清音は明日の儀式に向けて身を清めとる。潔斎の最中に人を近づけるわけにはいかん。掟じゃ」
「でも……」
「帰れ。お前も明日の祭りに備えぇ!」
清一の声は有無を言わせない響きがあった。
しかし、その時、奥から清音の声が聞こえてきた。
「お父さん、ええんじゃ」
清一が振り返る。
「清音、お前……」
「もう隠す必要はないじゃろ? 明日で全て終わるんじゃけぇ」
清一はしばらく沈黙していたが、やがて舌打ちをして奥へ引っ込んだ。
扉越しに梓の声を聞くたび、体中の目はそちらを向いた。それでも、梓の声は少しも変わらなかった。梓には何も起こらない。にくゑは梓には届かない――梓は抗体なのだと、清音にはもう分かっていた。
清音は扉を開けた。
梓が立っていた。心配そうな顔で、でも変わらず美しく。
そして、清音の姿を見た瞬間、梓の表情が凍りついた。
全身に浮かんだ無数の目。瞬きを繰り返し、梓を見つめる小さな瞳たち。でも、清音の顔は変わらず美しかった。目が増えても、その本質的な美しさは失われていない。
「……清音」
梓の声は震えていたが、逃げ出すような様子はなかった。
むしろ、一歩前に出てきた。
「これが、今の私の姿」
清音は静かに言った。
「怖い?」
梓はしばらく清音を見つめていた。全身の目を、ひとつひとつ確認するように。
そして、首を横に振った。
「怖くない。あなたは清音だから」
清音の胸が熱くなった。
愛している。この人を、心から。
「明日はお祭り」
清音は言った。
「梓はどうしたいの?」
「清音を……自由にしたい」
梓の答えは迷いがなかった。
「そう」
清音は微笑んだ。全身の目も、一緒に微笑んでいるようだった。
「ありがとう。でも、私はもう自由よ」
「え?」
「今まで、巫女として、村のために生きてきた。でも今は違う。自分の意志で選べるの」
清音は梓の手を取った。目だらけの手で、梓の温かい手を。
「私は梓を愛してる。それが私の自由」
梓の目に涙が浮かんだ。
「私も愛してる」
「知ってる」
清音は微笑んだ。
「だから、最後にお願いがあるの」
「何?」
「明日の祭りで、私と一緒にいて。最後まで」
梓も微笑み返し、頷いた。
「もちろん」
二人はごく自然に抱き合う。
まるで、今しかその機会がないかのように。
清音の体中の目が、梓を包み込むように瞬いた。愛しさと、別れの予感と、そして静かな覚悟を込めて。
外では、祭りの準備の音が響いている。
明日、すべてが終わる。あるいは、始まる。
しかし今この瞬間だけは、二人だけの時間だった。




