虚木 弐
吉川が口を開きかけたその時、梓が一歩前に踏み出した。誰にも忘れさせてもらえなかった記憶が、彼女の中では今もまだ生々しく胸を締め付ける。
美穂ちゃんや健太くんのことも問いただしたい。しかしこれは、これだけは問わずにはいられなかった。
「佐藤さんたちのご家族に起こったことは? あんなの、酷すぎるっ!」
「外の血を混ぜるんは、形を保つためじゃ。祈りの型は古から決まっとるが、血は古るうなる。外を入れて、新しゅう澱を砕く」
「……あんな酷いことを……それだけ?」
絶句する梓をかばうように吉川が前に進み出た。
「佐藤家の人々は最初から生け贄だったと? 有り得ないっ! 沙織さんと俊夫さんは無事なのか!?」
「大切な新しい血じゃ。勿論無事じゃけぇ、心配いらん。最初から、と問われればそうじゃな」
「あなたは、人間をなんだと思っているんですかっ!」
「人間……? 村の衆のことか、それとも外の衆のことかのう」
「どちらも同じだ! 命だ!」
清一は火を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「そうじゃな。どちらも大切じゃ。じゃが――神を鎮めるためには、贄が要るんじゃ。長い歴史でわしらはそれを学んだ。血が淀みすぎると神は暴走を始める」
梓は息を呑んだ。その静かな口調は、怒号よりも残酷だった。
「……私たちは、蓋。にくゑ様から世界を守っているの。誰かがやらなければいけないことなの」
清音が小さく言葉を続ける。
「この此岸を守らなくてはいけない。そのためには、犠牲は必要」
梓は両手を組み合わせ、祈るように叫んだ。
「そんな! そんなの酷すぎるっ!」
清一はそこで初めて梓をまともに見た。
「じゃが必要なことじゃ。そうせんと村が、いやこの世界全てが滅ぶ」
清一が一歩、梓の前へ出た。
「梓。お前は弓子の娘じゃ。虚木の血筋じゃと聞いておる。お前なら、わしらの大きな力になれる。じゃから全てを明かした」
井戸の底で水音がひとつ落ちた。
「……先生は、もう全て忘れるがええ。あんたはこの村には必要な人じゃ。子供たちはまだ不完全じゃけぇのぉ」
「……忘れて」
清音の言葉と同時に、吉川の身体は崩れ落ちる。左腕がじくじくと疼き、胸には千鶴の最後の姿が映る。自分を支配しようとする別の意思に、吉川は抗い続ける。膝をつきながらも、意識だけは手放さなかった。
「――さて、語るべきことは語った」
清一は口を閉じた。霧が火の上で形を変える。誰も動かないまま、夜が少しだけ深くなった。
清一は清音へと目をやった。その頬は蒼白く、唇の端がわずかに震えている。
「清音はもう、そう長うない。にくゑ様と繋がり続けるいうんは、そういうことじゃ。じゃが、次の巫女はまだ、この村のどこにも生まれとらん」
「――待って」
清音の声が、初めて鋭く割り込んだ。
「そんなつもりで、梓にここへ居てほしいって言うたんじゃない! 私はただ、梓と、一緒におりたかっただけじゃ!」
「清音。お前の願いも、村の願いも、根は同じじゃ」
「違う! 梓を、私の代わりに差し出すために呼んだんじゃない!」
清音は父に向かって、初めて声を荒らげた。指先が震え、涙が頬を伝う。
「梓、逃げて。今すぐ、ここから――」
「清音」
清一の声は低く、静かだった。だが、それだけで清音の言葉を断ち切るのに十分だった。
「梓。……お前には外の血も混じっとるが、力がある。次が生まれるまでの繋ぎに、お前がなれる。ここに残るか、それとも外のまま消えるか。――どっちを選ぶ?」
風の音が止んだ。霧の白さだけが、世界の輪郭を残していた。
お父さん。
この歪んだエゴイストが、私の父親。
その言葉を、今ここで叫んだらどんな顔をするだろう。全部知っている、あなたの正体も、私が何なのかも――そう突きつけてやったら。
でも、ダメだ。
それを口にすれば、傷つくのは清音だ。実の姉妹で愛し合っているなんて、これ以上彼女に重荷を背負わせるわけにはいかない。
――言えない。今は、まだ。
梓は口を開けなかった。喉が焼けついた。清音は首を振り続けている。逃げて、逃げて――声にならない懇願が、その唇の動きだけで繰り返されていた。
この人を救うために来た。清音は今、梓を逃がそうとしている。それなのに。
――だからこそ、行けない。
「……残ります」
「梓……そんな……」
清音の言葉に梓は小さく微笑んだ。
「良いの。貴女のそばにいられるなら、それで」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「よう言うた。これで揃うた」
清音が梓の手を取った。その手は冷たく、震えていた。
「……ごめんね」
それだけを、絞り出すように言った。喜びではなく、詫びだった。
§ § §
梓は小さく笑った。涙が滲む。三度、笑え――そう教わったとおりに。最初の笑いは震え、二度目で声が漏れ、三度目で息が詰まった。
清一が祈りを掲げ、声を上げた。低い節が井戸の底へ沈む。清音もそれに続く。祈りが重なり、世界の形が変わっていくようだった。
「……これで、いいんだね」
その声が霧に溶ける瞬間だった。
背後で、石を踏む音がした。
軽い、けれど確かな音。
誰かが、近づいてくる。
梓が振り向いた瞬間、空気が裂けた。
「――え!?」
固く、冷たいもの。皮膚を裂き、肉をえぐる。腹の奥に刃が突き入る。
腰だめに包丁を構えたその人物は、凄惨な笑顔を浮かべていた。
息が詰まり、視界が白くなる。手を伸ばす。指先が血の匂いを掴んだ。
霧の中の人影。寝間着の裾、濡れた髪。その顔は――
あ……ゆみ……ちゃん?
唇が動いたが、声にはならなかった。
刃が抜ける音がした。
血が一筋、霧の白に溶けていく。
清一の祈りが止まる。清音が振り返る。何もかもがゆっくりと流れる中、梓は意識を手放した。
――ただ霧が、少しだけ赤く染まっていく。
月が雲に隠れた。




