虚木 壱
霧がまた薄く動いた。清一は短く息を吐いた。
「……さて」
その言葉が落ちると、音はすべて揃って小さくなった。
「見たな。掟を外した者の末路じゃ。あれは、"なりそこない"――もうどうにもならん」
吉川は毅然と顔を上げ、声を張る。
「村長! 今のは何だったんだ!? この村は何なんだ! 貴方は何を知っているんだッ!」
「――先生、なんとまぁ記憶を取り戻されたか。あんたも聞くとええ。どうせ全て忘れてしまうじゃろうが」
「聞かせてくれるのなら、教えてくれ。私にはもう耐えられないッ! そもそも、にくゑとは何だッ!」
清一は火越しに三人の顔を順に見た。梓は目を上げている。清音は涙の跡を残したまま、唇をかたく結んでいた。
「今宵は、この梓を、弓子の娘を村に正式に迎え入れるためにしつらえた場じゃ、のぉ清音?」
「……ええ。私は梓に、ここに居て欲しい」
声は小さかったが、震えてはいなかった。清音はずっとそれだけを願ってきたのだと、梓は今更のように気づく。
「じゃから、この村のこと全てを話そうかのう。まぁ余計な客もおるが、それはええとして」
静けさが一度、井戸の底まで沈む。しばらくして、清一は再び口を開いた。
「にくゑ様についてじゃったな……昔、寛永の飢饉の折にな、村の者らは食うもんがのうて、山に籠った。ある日、その山に星が落ちたそうじゃ。村の娘が、声が聞こえるっちゅうてな? そこにいったんよ。で、見つけたんが"にくゑ"じゃ。村はずれにある洞の奥でのう」
霧の隙間から月光がさす。
「白う光る肉みたいなもんが蠢いとったそうじゃ。声が聞こえるっちゅうて、それを口にしたんが最初の巫女じゃ。その肉は食うた者の腹を満たした。けど、何人かの村の衆の身体が変わり始めた。皮膚の下で、光る筋が走り、目が開いた。……そいでも飢えは止んだ。村は助かったんじゃ」
月影が清一の頬を深く刻む。梓は喉の奥が渇くのを感じた。
「それからじゃ。わしらはその神を"にくゑ様"と呼ぶようになった。食うて命を繋ぐうちに、血に神が宿った。子を産むたび、そいつは濃うなっての、今じゃもう、わしらみんなの中におる」
吉川がわずかに息を呑んだ。誰も、しばらく言葉を継げなかった。
「けどな、あの方はよう喰う。星ひとつ呑むまで止まらん。巫女たちが、代々あの方と一つになって、中から押さえ続けとる。にくゑ様を押さえる為の儀式もあるけぇな」
「そのための、村の掟……か」
「そうじゃ。掟はにくゑ様を鎮める為に行う儀式よ。人は笑うて祈る。三度の笑顔は柏手と同じじゃけぇ。あれで"にくゑ様"を鎮めるんじゃ。村の外では遊びごとにしとるが、ここでは祈りの形よ」
梓は無意識に、自分の口元に触れていた。数え切れないほど繰り返してきた、あの三度の笑み。
「夜中に道の端を歩くなというのは?」
「道の端にはにくゑ様の筋が通っとるでな。弱いもんがそこを歩くと、身体んなかのにくゑ様が暴れ出すかも知れん」
「村人の身体には、にくゑがいる、と? では村人は――」
「やがてはにくゑ様と一つになる。失敗すると――さっき見たとおりじゃがな」
清一は井戸に目を向け、それ以上は語らなかった。ただ視線だけを底へ落とし、口を噤む。
「そう、わしらはこの世界を守る。その対価として死んだ後はにくゑ様の中で永遠の幸せを得ることができるんじゃ」
「……狂ってる」
吉川は思わず呟いた。
この村の住民は、皆、そんなことを信じているのか?
美穂や健太はそんなことの為に犠牲になったのか?
井戸の中に消えていった千鶴と宗次。
確かに超自然的な何かがあるのだろう。
しかし永遠の幸せ? そんなものが存在する訳がない。
狂っているのは、この男か、私か、それともこの世界そのものか。
「神は伝播なさる。全てを通じてな。わしらはそれを食い止める蓋なんじゃ」
役場で見つけた政府の書類。
暗黙のうちに国はこれを認めている?
国を守るために犠牲を出し続けている?
あの怪異は簡単に炎で燃やすことができた。なら対処は出来るはずだ。それなのに何故、誰もやろうとしない?
何かあるのか、できない理由が……。しかし、このままでは。吉川は拳を握りしめ、清一を睨めつけた。
梓は唇を結んだまま、清一を見ていた。井戸の底から、まだ微かな水音が聞こえている気がした。何か訊きたいことがある気がする。
――そう、例えば母のこと。
しかし、それは言葉にならなかった。
「祭りが近い。あれは、正式にこの村の一員になる儀式じゃ。梓、お前もじゃ」
「祭りで、何が――」
「それは、その日になればわかる」
清一は、ゆっくりと目を閉じた。
「わしらは罪の子じゃ。神の肉を喰うて生き延びた報いに、笑いと血で神を鎮め続けとる。梓、お前も、その理の内に入らにゃならん」
霧が月を遮り、世界が一度、静止したように見えた。
清音の目だけは真っ直ぐに梓を見ている。
ただ、ここにいてほしい、というように。




