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にくゑ【ある世界が終焉を迎えるまでの道程。そして――】終焉の探偵  作者: カクナノゾム
第一部 にくゑ

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榊千鶴 森で倒れていた人

 千鶴は夫の体を覆う木を、素手で押しのけようとした。

 指が裂け、血が滲む。

 それでも、止まらなかった。


「千鶴……」


 掠れた声が聞こえた。


「……わしは……もう、いけんか……」

「そんなこと言わないで! お願い、死なないで!」


 千鶴の腕にも、脚にも、深い裂傷ができていた。

 けれど、痛みなど感じなかった。


 ――その時、吉川が駆けつけた。

 村に赴任して一年ほどの、若い医師。彼の応急処置で、宗次は一命を取り留めた。

 千鶴の傷も、吉川が縫ってくれた。

 夜明け前、目を開けた夫と目が合い、二人で涙を流した。


 けれど。

 宗次の回復は、異常だった。

 半年はかかるはずの重傷が、一ヶ月で治った。

 村人たちが、何かを飲ませていた。

 赤黒い液体。


「村に伝わる薬ですけぇ。榊の血でも、これだけは効きますわ」

 村長は千鶴にそう言った。

 そして――宗次は、変わり始めた。

 食欲が異常に増し、夜中に一人で外を歩くようになった。

 目の焦点が合わず、時折、何かに怯えるように震えた。


「千鶴……」


 ある夜、宗次は妻にこう言った。


「……わし、もう人間じゃないかもしれん」

「何を言ってるんですか」

「榊の血があるけぇ、今まで耐えられた。でも、あの薬を飲んだ後から……体の中に、何かおる。夜になると、"呼ばれる"んじゃ。井戸の方から、声が聞こえる」


 千鶴は夫を抱きしめた。


「大丈夫です。私が、ずっと一緒にいます」


 けれど、宗次の異変は止まらなかった。

 千鶴は、そのことを誰にも――先生にも言わなかった。


「……耐性があっても、直接体に入れられたら、もう無理なんかもしれん。わし、もう……」

 宗次の目に、涙が浮かんでいた。

「殺してくれ、千鶴。わしが完全に変わる前に」

「そんなこと、できません!」

「……わかっとる。じゃけぇ、わしが消える」


 ――そして、ある朝。

 宗次は、消えた。

 商店にも、家にもいない。

 布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。

 ただ、作業着だけが残されていた。

 村人たちに聞いても、誰も知らないと言った。


「山に入ったんかもしれんのぅ」

「そのうち帰ってくるじゃろ」


 千鶴は、夫を探して村中を歩いた。

 けれど、見つからなかった。


 ――それから、千鶴は待ち続けた。

 毎朝、夫の作業着にアイロンをかけた。

 朝食を二人分用意した。

 夫の席に、箸を置いた。

「おかえりなさい」と言える日を、信じて。


 吉川は、そんな千鶴を見守ってくれた。

 弁当を届けるたび、先生は何か言いかけて、口をつぐんだ。

 ――宗次は、もう戻らない。

 先生の目は、そう言っているように見えた。

 けれど、先生は何も言わなかった。

 千鶴が笑っているあいだは、決して。

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