アラタン州
昭和の戦後と呼ばれる時代に建設された古いビルのなかにあるレストランは時空間が歪んでいて、そこだけが過去のある時間帯を繰り返している。亡霊の記憶がそのレストランの時空間を形作っているのだ。
登場人物たちは、亡霊の記憶の時空間と過去に現実であった時空間とをつなげているレストランを、何かの目的をもって一緒に行き来しようとする。
それは歴史を変えてしまうかもしれない危険な行為だ。そう分かっているはずなのに。
八十島と紅葉の象の旅はもうすぐ終わりです。戦火はジャングルの奥地の村にも思わぬ傷跡を残します。
アラタン州の村が何者かに襲われます。因幡風の失踪の謎を追う手掛かりはまだまだ遠いようです。
===アラタン州の村===
まる一晩中、谷沿いの道を象に揺られて、岩田が言う
「あと二時間ほどです、夜が明けるころには村に着きます。そこで午前中いっぱい休みましょう。象もつかれています」
北村が付け加える
「案内人が育った村です」
誰もが、最難関の峠越えを終えて先行きを楽観視していた。
ジャングルも緊張を強いられるが、人里には人里なりの危険がある。
だが、夜が明けて村の近くまでくると、休憩を与えたかった肝心の象が村に入ろうとしない。
象がいきなり立ち止まり、前に後ろに足を動かすが、同じ場所から動こうとしない。
鼻を伸ばし、前方の空気を探る。三頭の象が耳を大きく広げ、足踏みや後ずさりをして村に入ろうとしないのだ。
危険を探知したのであろう。象が安心できる距離をとって、偵察しようという事になった。
象を降りて話をする。
岩田が言う
「F少佐から、山口所長不在時に不測の事態が生じたら八十島局長に従えと言われております。命令をお願いします」
八十島は、かって、幹部警察官になりたての頃に英国陸軍に出向し、二年も英国特殊偵察連隊(SRR)の一小隊を指揮してアイルランドの現場に出ている。
「F少佐?」
紅葉が伝える
「元中佐のことです」
「・・・」
伝えてもらってないことが多すぎると思ったが、八十島は動揺を見せずに決定事項だけを短く言う。
「偵察を行う。象はこの場所で問題ないか」
英語とライラ・マー語で象使いたちにも意思を伝える。
「彼らは簡単な命令なら日本語でもわかります」
と北村。
「でも英語で伝えれば間違いないでしょう」
と紅葉。
続けて八十島が言う、英語だ。
「象を降りて待機。念のため武器を持て」
象使い達も一緒になって象を降りて最後尾の象の荷物から武器を取り出す。
「マスター、私の村です。偵察に行かせてください」
案内人が英語でいう。
朝日の下で見ると、思ったより若く二十歳ぐらいにしか見えない青年だとわかった。皆がシュマと呼んでいる。
「従兄の家に行ってみます。そうすれば何があったかわかるでしょう」
この村の出だというシュマが象を降りてから、心配そうにずっと村の方角を見ている。
「見つからずに行けそうか」
「自分の村です。お任せください」
「よし、行ってこい。戻る時も慎重に、時間が罹っても無理はするな」
青年は自分の銃を象使い仲間に預けると、草むらに身を沈めるようにして村へ向かう。
残った者たちは象の横で銃をもって息を潜め、じっと待った。
八十島や岩田、北村、それに象使いたちが持つのはリー・エンフィールド小銃。
紅葉が持っているのはトンプソンM1928。禁酒法時代のアメリカンマフィアやFBIが使っていたマシンガンとして映画やテレビドラマでもおなじみの銃だ。
いずれも英軍からの鹵獲品で山口が帝都物産スマゴト駐在事務所から分解して持ってきて、象に乗る前に組み立てて置いたものだ。
急に静かになったのを感じた。森の音が遠のいたと気付く、風が止んだのだろう。
やがて日が昇り、森を抜ける朝日が皮膚を刺すように感じられる。
村はもう起き出す時間だが不自然なほど静かだ。
時間にすれば三十分ほどだろうが、長く感じた。
やがて青年が草むらを分けて帰って来た。
顔色が悪く肩で息をしている。
「中国兵です。村に中国兵が入って来たと言っています、しかし、家の誰も姿を見ておらず、人数は分かりません」
「中国兵?規模不明?」
やっかいだ。村に入らず先に進むべきだろうか、とにかく日本側の工事を悟らせるのはまずい。
「本当に中国兵なのか」
英国の長距離浸透ゲリラ作戦が始まる頃だし、英国軍に武器を持たされた原住民のゲリラや、山賊等は予期していたが、中国兵とは意外だ。
「分かりません、皆怯えていて」
最北部の中国国境付近で何らかの作戦が行われて、戦闘が起きている可能性はある。
重慶政府の対日作戦本部「昆明参謀団」がライラ・マー北部に隠密裏に軍を送り込んでいる可能性すら否定できない。いずれにせよ現状把握が問題解決のカギだ。
「よし、もう一度一緒に見に行こう」
八十島は案内人の青年シュマに銃を持たせて一緒に草むらの池に身を沈める。紅葉がトンプソンを持って付いて来る。
「海人さんを護衛します」
大きな池のような草むらから、小さな棚田をよじ登り小石交じりの畑か道か分からぬところを通り集落に入る。
竹と葉で出来た家がある。いくつかの家の横を通り過ぎる。
左手の奥から、叫び声と、物が倒れるような音が突然聞こえる。
叫びと音に驚いて、家に入ろうとするシュマ青年を紅葉が止める。
そして、八十島が二人がこっちを向くのを待って、音のした方向を指さし
「用意はいいか、いくぞ」
二人が頷くのを確認すると、
八十島が、騒ぎが起こっていると思われる方向に、ゆっくりと走り出し、二人が続く。
三十メートルぐらい進むと、部落の中央にある高床式の倉庫の周りに村人とは明らかに違う男たちがいるのが見えた。
八十島らは竹で出来た家と小屋の間の隙間から、しばらく彼らの様子をうかがう。
倉庫の上に乗った男二人が、下にいる男たち六、七人に米俵を渡そうとしている。いずれも痩せこけた男たちだ。
元は軍服であったろう着ている服はぼろぼろで、軍服であることを示そうと破れた袖を裸の腕に巻きつけているだけの、ほぼ上半身裸体の者さえいる。
武器を持っている者などいない。
遠くから見ても、顔は汗と乾いた土埃にまみれているのがわかる。
歩くだけでも精一杯なのだろう、上にいる男が下にいる男の肩に米俵を乗せようとするが、足腰が弱った男は肩で米俵を支えきれず、そのまま仰向けに体勢を崩し、米俵とともに大きな音(さっきの音もそれか?)をたてて、地面に倒れ込む。俵から少なからず米が地面に散乱する。
米俵を倉庫から直接地面に投げ落としたのでは、音もするし米俵も裂けてしまう。なんとかそっと地面にそっと置こうと悪戦苦闘しているようだが、うまくいかない様子だ。
いずれの男たちもふらふらで、腰が安定していない。足を上げて降ろすという歩行さえおぼつかなそうだ。
ただ目だけが飢えでぎらついて、食い物を手に入れて生きたいという執着で動いている。
八十島がつぶやく
「北の少数民族やな。戦火に巻き込まれて難民となって逃げて来たのやろう」
シュマ青年が、ため息をもらすように
「目的は食料だったんですね」
「ほんま、気の毒やが、追っ払うぞ。全て取られたんではこの村が干上がってしまうやろう。脅かすだけで逃げてくれることを願う」
八十島、シュマと紅葉が銃を構えて前に出る。
紅葉がトンプソンM1928軽機関銃をダッダッダッと短く倉庫の上空向かって撃つ。
重そうな(5キロはある)軽機関銃だが、女性ながら170センチを超える上背がある紅葉が操ると様になる。反動も全く苦にならないようだ。
難民たちは腰を抜かした。
一旦、動きを止めて一斉にこっちに目を向けると、何かわめきながら散り散りに逃げていく。
八十島とシュマは数歩前進して一発づつ上空に撃った。
十名に満たない賊の殆どは米俵を置き去りにして逃げたが、それでも何人かは何度も転びながらも、米俵を必死に抱えたまま、のろのろ這うように逃げて行った。
その無防備な背中は、兵隊やゲリラのそれではなく、ただ生き延びたいと願う人のものだった。
三人は、念のために、銃を持ったまま、ゆっくり、ゆっくり慎重に歩いて村の外まで後を追う。
銃声を聞いた岩田と北村が牛らからやって来て途中で合流する。象使い達は象のそばを離れないで、待機しているようだ。
村の外で、紅葉がトンプソンをやや上方に向けて撃って。機銃音を十二分に響かせる。
「これでええやろ、武装してなければ当分やってこないはずや」
「少しは米を持って行けたようですから、直ぐに飢え死にはしないでしょう」
八十島は、シュマを村の長老の家に賊は飢えた難民だった、もう心配はないと説明しに遣り、八十島と紅葉、岩田と北村のふたり一組になり、賊の逃げた方向や村の周辺部に賊の見張りや隠れている兵はいないかどうかを確認する。
深入りは出来ない。それは地理に明るいシュマの村に任せるしかない。
小一時間ほどの確認を終わると、家から三々五々男たちが出てきて、村長らしき長老に話を聞く者や倉庫に行って被害を確かめつつ騒ぎで撒き散らされた米を片付ける者があらわれた。
もう大丈夫そうだと安心できたのだろう、子供たちや女性も外に出て来た。
村長に話を聞いた者たちは、日本軍の服装をした八十島たちに合掌する。
「戦争は、田舎にも否応なしやな」
八十島たちが、象のところに戻ると、象は銃声と硝煙の匂いに驚いたのか、元いたところより百メートル以上も後ろに下がっていた。
シュマ青年から象使い達に事の次第を説明する。
岩田と北村にも何が起きていたかの補足説明が必要だったので、それを紅葉から説明させた。
まず、象をなだめなければならない。
全ては象の安心と安全の確保からだ。
象が落ち着いて、村に入ったところで、シュマ青年には、村の一番大きな家にすむ村長と村長の家に集まった村の長老たちへの挨拶に同行してもらう。
シュマが村長の言葉を通訳する
「……村は、盗賊を追い払って頂けて感謝してます。この上の追撃は要らないと。あの人たちも、戦いから逃げてきただけだと」
「そうやろうな。だが、村の食料が尽きれば、次は村が困るんや。我々は追撃はできんが、村は警備を強化せにゃならんやろな」
村長に、村の出入り口に見張り小屋を作って警備することを教え、リー・エンフィールド小銃一丁、三八式小銃一丁,それに壊れたルイスガン(軽機関銃)と小銃用の弾薬、軍属用の服三着を渡し、今後はこれを役立てて欲しいとお願いした。
壊れたルイスガンは威嚇用だ。修理は可能なので修理して使ってもらっても良い。
機関銃で武装した村という噂があれば、山賊の類は襲撃しにくいだろう。
今朝の機関銃音も周りに聞こえたはずだ。
今朝の難民は武装していなかったが、武装難民が来た時に自衛できなくては、今度はこの村の人々が難民化する。
あの難民は明日のこの村の姿かもしれないのだ。
八十島は念を入れる。
「米も全てを倉庫に入れるのではなく、賊による盗難やこれからやって来る日本軍の徴発に備えて今のうちに隠せるだけ隠しておけ」
と、シュマに、こっそり村長に伝えるよう耳打ちをした。
銃の扱いはシュマとシュマの従兄が心得ている。
村で午前中だけ休む予定だったが、象の緊張を取るため出発をその日の深夜に伸ばし、象使い達はシュマの従兄の家に、日本人五人は村長の家で休息をとることにした。
===ダンの谷===
三日後、明けの明星が、アラタン山脈の山の端を照らす。
象隊は、後ろから追って来た動物隊の四頭と、山口、測量兵二名、護衛の兵士(工兵)三名、象使い四名が一昨日に加わり七頭と十四名になっていた。
冷え切った夜の行軍は、いよいよ最後の下り坂に差し掛かる。
霧はまだ濃く、光は青白く滲んでいる。
谷底から冷たく吹き上げる風が、象の背の毛に付いた露をプルプルと震わせている。
象使いが小さくチョチョ、チョチョと舌を鳴らし、象はゆっくりと歩幅を広げる。
やがて、霧がふっと浮き、視界が開ける、眼下に平地が広がった。
ダンの盆地だ。
山脈の険しさが過去の幻のようだ。
そこには草地が広く横たわり、その中央に、白く浮かび上がる「まっすぐな帯」がある。
英軍が残した古い滑走路跡だ。
後ろにいる測量兵の興奮が伝わる。
皆が思わず息を呑んだ。
「……ここが、飛行場になる場所や」
象は、まるで知っていたかのように、
その草地へ向かって静かに歩みを進めていく。
着いたその日からダンの盆地では飛行場の整備が開始された。
杭打ち作業が測量兵によって進められる。
数日後には道路づくりの工兵たちが続々とダンの盆地に入ってくる。彼らの後ろに道路が出来るのだ。数週間で日本軍のトラックが行き来を始めるだろう。
八十島達の本来任務はここを発ってダンガットからだ。ダンガットに早く向かいたい。
因幡風を探し出さねばならない。年内という期限を考えると、あとひと月以内に因幡風氏を見つけ出しアングンに戻らねばならない。
サウンガウ奏者という繋がりから、岩田に因幡風と言う人物を知っているかと聞いてみたが、知らないという。岩田の出身地は福岡だという。




