ライラ・マーの隠れ家レストラン
戦後と呼ばれる時期に建設された古いビルのなかにあるレストランは時空間が歪んでいて、そこだけが過去のある時間帯を繰り返している。
亡霊の記憶がそのレストランの時空間を形作っているのだ。
登場人物たちは、亡霊の記憶の時空間と過去に現実であった時空間とをつなげているレストランを、何かの目的をもって一緒に行き来しようとする。
それは歴史を変えてしまうかもしれない危険な行為だ。そう分かっているはずなのに。
隠れ家レストランへ誘い込もうとする者達と誘い込まれる者の出会いを、エピソードの初めにお伝えします。
===ライラ・マー===
スマゴト川の流れの横に聳え立つ見事な仏塔。
アスファルトが蒸気を吐いている。
スコールの後の街が赤土の匂いに蒸れている。
巨大な仏塔が大通りの向こうで白金色に光り、揺らめく。
街の喧騒とスコールと川の湿気で作る陽炎で揺れているのだ。
音や声が湿気と一緒に街の道路に溢れている。
タクシーが次々にエンジン音を響かせ、客をゆっくり運び去る。
サイカ―を呼ぶ声。
それに応える運転手。
見ると、三々五々とビルから出てくる勤め帰りの人々をサイカ―乗りがチョイとついばんでは、またチョイとついばむ。
ついばんでは次々とニョロッ、ニョロッと漕ぎ出して行く。
そのたびごとにサイカ―の自転車チェーンがガチャガチャ、ガチャガチャと軋しむ、
重いブレーキ音は、バスが大勢を乗せて止まろうとする悲鳴だ。再発車時には低い唸り声をドドドと吐き出す。
どこかから僧侶の読経。
歌声のように、呼びかけのように。
時々のクラクションは、プァンとどれも短く、まるで挨拶のようだ。危機感は感じない。
人や車やサイカ―が、懸命に声をあげ、音をたてる。地上に影が欲しいと。風が欲しいと。雨が欲しいと。
だが、その願いは、上空の雲をゆっくり削って消えていく。
やがて陽炎のなかで揺れ続ける巨大な仏塔が、陽炎で揺れたまま夕日を反射して、街も人もビルさえも赤く、黄色く染めて行く。
あと少し、もう少しで、ビルや木の葉の影が道を覆い始めるよ、と合図するように。
車やバスは、それからたまに通るトラックも、どれもこれも日本の中古車だ。しかもやたら古いのが多い。
「流石に最新型の車でそんなとこよう通らんわ。そりゃ新車やったら中は氷水のように涼しいやろと思うけどな」
雨季の終りとはいえ、ライラ・マーという国は日本のずっとずっと南西にあり温い(ぬくい)。
「いや暑っい」
「特に継ぎあてパッチワークのような道路はアスファルトが解ける灼熱の川や」
そんな道路を横切る人々がいる。だから熱帯河の流れはあちこちで詰まって音と匂いで満ちる。
たくさんの短いクラクション音、サイカ―の変速するガチャ音、出停車する車のエンジンと排気ガスの音と匂い、交じり合って暑苦しさを増す。
「いつものことや。せやけど事故は滅多に起きん。こう見えて、お互いの譲り合いと進路の読み合いは彼らの特技なんや」
店の軒下から車の通り道までの狭いスペースに組み立て前の屋台が点々、点々と置いてある。乱雑なスペースだ。そこを人がてんでんばらばらに行き交う。
だが、そこは間違いなく歩道として機能している。
その乱雑な歩道に、店の軒から飛び出して通りの向こうに渡ろうとしている大柄の男がいる。
大男が渡ろうとしている向こうの歩道に現地の女学生たちがいる。
数人の少女達が、きゃっきゃっと笑い声をあげながら話をしながら歩いている。
赤、黄、緑、青、それらの縞模様で歩道を覆うパラソルの下を、殺風景な大きなベージュのテントの下を、少女たちが陽気に通る。
パラソルもテントも、皆、強力な日の光を和らげようとしているのだ。
でももうすぐ日が沈む。横から照る黄色の光の中で、大勢の屋台のオーナーたちが自慢の店を出そうとして奮闘中だ。
もうちょっとすれば、食べ物の香ばしい湯気と匂いが、車とサイカ―の代わりに広がっていくだろう。
やがて黒い影を歩道に落とすビル。
ビルの前にでき始めた夜の食堂街。
組み立て前の屋台やその屋台を組み立てようとする人々を除けながら、さっきの少女たちが歩いて来た。
彼女らは何がおかしいのか相変わらず時々大きな声で笑う。
僧侶に出会うと静かに道を譲る。
が、また大きな動作をして大声で笑った。
彼女らが今通り過ぎようとしているビル.
そのビルがその男、大男の目的地だ。
スマゴトの街角にある古めかしいが立派なビル。
先ほどの大男が目的のビルに入って来た。
ガラス製のドアが自動で閉まろうとしている。
汗だくだ。
まだ締まりかけのドアのすぐ前を件の女学生たちが通り過ぎて行く。
===その男===
この男、八十島海人は自称僧侶。でかい自称僧侶だ。
自称と言うのは、師僧について僧侶のイロハを習ってはいて、そのまま得度しそこなっているからだ。
そしてでかいというのは百八十七センチの身長とラグビーと古武術で鍛えた躰を持っているからだ。
「 Who Dares, Wins(あえて立ち向かおうとする者が勝つ)」がモットーで英国でラグビーとリーダーシップを学んだと、これもいつも自称している。
幕末に英国に渡り英国人となった薩摩藩士の血を引くという英国人の祖父のコネで、十三歳から日本から英国に渡って教育を受け、ラグビーもそこで習った。
古武術は説明に必要なら「示現流の流れを引く」と称するが、特徴的なのは剣術というより、体術である瞬間制圧術と投擲術だ。これも英国陸軍の特殊偵察連隊を統率した英国人の祖父から直接学んだ。
かって、幹部警察官であった八十島が英国陸軍に出向し、二年も特殊偵察連隊の一小隊を指揮して現場に出ているのも、その縁だ。
おそらく英国人となったご先祖は薩摩藩の山潜と呼ばれる忍びの者だったのだろう。
偉丈夫、八十島海人は、先の大戦中に日本から何百里も離れた国々で散華なされた英霊達の遺骨をあちこちで収集し弔う旅をしてきていた。
もう、早くも二年になる。
山間部のあちこちに点在する集落に滞在し、地元協力者(村長)の家を基地にして行う作業だ。
日本兵をこれこれの場所に埋めたという土地の長老の証言があれば会いに行き、現場を確認する。
ご遺骨に関する資料を作成して日本戦没者遺骨収集推進協会に報告する。
資料とは、状況や所在が分かる記録や写真、埋葬場所等を示す地図、遺骨と共に発見された日本軍を示す遺留品の写真等のことだ。
そういう戦没者の残存遺骨情報を元に厚生労働省が調査団の派遣を予算化する。
それこそ一柱でも多くの日本人戦没者のご遺骨を本邦へ送還しようと関係者が懸命に努力している。
現実の遺骨収集を行う場所と言うのは、険しい山があり、高温多湿の森林があり、治安も悪い。
調査派遣団の安全確保も課題だ。
どうしても現地密着型の八十島海人のような人間が必要になる。
厄介なことに、ライラ・マーは日本に比べて平均寿命が短い。
世代交代が早くて、戦争当時を知っている現地古老が少なくなっている。
御遺骨の収集どころか、遺骨情報の取得すら難しくなっているのも現実だ。
===再び現代のスマゴト===
そんなライラ・マーの弔いの旅でよく八十島海人が訪れている場所がスマゴトだ。
何か相談事があると、ここにある帝都物産に出むく。
自動車を運転しての移動が多い中、珍しくスマゴトに鉄道で来たその日。
八十島は、スマゴトの駅舎を出ると「イナバ」という名称のビルがあると初めて気付いた。
「日本人の名前やろうか。
『イナバビルヂング』ゆうんか、
ホテルもやっとるらしいな」
「ライラ・マー」という国と「イナバ」を結びつける日本人に八十島はひとり心当たりがある。
だからだろう、なんとなく興味を惹かれ。心に留めておいた。
スマゴトの帝都物産とその駐在員は、その仕事を通じてライラ・マー全土の人や企業に様々なコネクションを持っている。
八十島が遺骨収集をするにあたって、地元政府や集落の有力者の協力を得たいときは決まって帝都物産を通して紹介してもらっている。
「さすがに一流商社の商売人や。
駐在しとる地元スマゴトの戦前戦後の歴史にも、とても詳しいもんや。
聞いてみたら『イナバビルヂング』も古くから帝都物産と関係しとって、その商売の範囲だけでも充分、情報がとれそうや」
地元の情報通である駐在員によると
イナバという名は「因幡」である。
戦時中にライラ・マーで軍向けの物資を扱ていた日本人が戦後に商売で成功して建てたビルに自分の名を付けた。
「ビルヂング」と称しているのはBuildingを日本語にする時、スペルにより忠実に訳そうとした時代の流行りでこの時代に建てられたビル名に多い。
ビルは地下1階地上3階。
宿屋と飲食店をやっているほか、日本人向けに事務所も貸す。今はそれがメインのビジネスになっている。
現在、ビルを経営しているのは、ビルと同じ姓を持つ若い姉妹。その姉妹はふたりとも美人という噂がある。
今のビルは戦後二十五年ほど経って建てられた。だから建てられてから半世紀以上経っている。
大体知りたいことは分かった。
「噂の因幡風氏(故人)は、そのイナバビルヂングの建立者か、せやなかったら関係者であるに違いあれへん」
「スマゴトちゅう名の町に竪琴と縁ある人が住むは不思議不思議やな」
八十島海人は韻を踏むように呟き、密かに次の宿は「イナバビルヂング」にしようと決めた。
「自称僧侶で耽美主義者、そんな僕にとっては人間の物語ほどおもろいものはあれへん、それで古典が大好物やねん」
笑い声がビルの中に響き、街の出す唸り声とひとつになって共鳴する。
その木魂のような喧騒が、ドアが閉まると同時に、ふっつ、と途絶えた。
===イナバビルヂング===
女学生の笑い声と道路の唸り声の木魂が消えたフロアーで、八十島海人はガラスのドアの向こうを見つめながら、暫く汗が引くのを待った。
今日、八十島は、いつまで続くか先の見えないライラ・マーにおける遺骨探索と収集の旅の一区切りを終え、鉄道でスマゴトに来た。
久しぶりに訪れる街だがウキウキしていた。
古いビルながらも「レセプション」と表示された受付ロビーは、遠く日本からの涼しい風が流れているのだろう。冷房が涼しく感じられる。
やっと因幡姉妹に会える期待からだが、きっとライラ・マーとは違う日本の秋の風が吹いていると。
入口の薄暗さで、受付係であろう人は黒い影のように見えた。
受付の向こうに壁一面のガラスを隔てて一坪ぐらいの小さな中庭がある。その坪庭から差し込む光が逆光になって、人形のシルエットを濃くしている。
八十島が受付に近づくと、その坪庭には六、七本の逞しい孟宗竹が生えていた。
竹は砂浜を模した白砂利から眩しく輝く空へと伸びていて、その光鮮やかな緑の葉を風が揺らしていた。
『日本を意識した日本風の作りやな』
さっきの人形の黒い影が八十島の方に向かって丁寧に頭を下げる。
そして頭を上げる。
黒い影の中で何かが一閃した。風が眩しく光った?
『何だ?風か?
爽籟?』
デスク上の盆栽の楓が揺れた。
姿勢の良い人がいる。
「いらっしゃいませ」
若い女性の声が「凛」とロビー全体に共鳴する
日本人の発する日本の言葉だ。
八十島は、そこにいかにもきびきびと動けそうなブレザーとズボンに身を包む背の高い日本の娘がいると知った。
『男装の麗人?
時代が時代やったら国色天香といったとこや
僕は美しいものと古典が好きや。笑顔にも自信がある』
「とりあえず、安い部屋でひと月ほど」
と単刀直入に要求した。
麗人は、楓盆栽の横で、すまし顔をふと綻ばした。
「ひと月、ですか」
楓の葉が揺れて光った。
『美人を見ると直ぐ恰好つけんのは僕の悪い癖や、今さらきついからしとうもあれへんけど、修行が足れへんと思うとんのや』
八十島には、フロントデスクのあっち側にいる光の麗人が、言葉を発する代わりにその高貴な笑みで
『どうして、説明をして』
と言いっているように感じたのだった。
『ライラ・マーは外国人が観光以外の目的で、長期に滞在すること好めへん国や、ちょとした説明が必要になるからな』
八十島はもったいぶって説明する。
「私はこの国の政府と日本政府に依頼された仕事でライラ・マーの各地を回っていて、今日スマゴトに着いたんや。私は先の大戦で亡くなった兵士の遺骨をこの二年ほどずっと訪ね歩いていてね。ひと段落着いたのはええんやが、次の仕事が両国政府の都合でいつになるか分からへんで、とりあえずひと月というわけなんや」
男装の麗人は、八十島にパスポートを出すように言い、八十島がパスポートを胸ポケットから出すのを一目見て思った。
『使えそうです、体格も申し分ありません』
八十島海人も思った。
『身長は百七十センチ超え、年は二十台前半、一目瞭然の別嬪さんや』
ちなみに八十島は和漢洋の古典好きマニアなのでついつい堅苦しい言葉が出る。お経の唱え過ぎではない。気障なのだ。
『目の前の別嬪さんはパスポートの名前と顔写真を確かめとる。稀に見るよなハンサムやろう。この僕は』
おまけに自信過剰である。
「それでは、本日から一月後の日付の朝にチェックアウトということで部屋を用意しましょう。お会計はクレジット情報をお預かりして一週間おきに引き落としさせていただきますが。それでよろしいでしょうか」
八十島はクレジットカードを人差し指と中指に挟んで渡しながら
「それで。これで」
と同意する。
一呼吸おいて
「実は、このビルの名前の元になった因幡風さんのことについても知りたいんや。戦後の外交上ややこしい時期に、この国にビルを真っ先に建てたと聞いています。現在もこのビルのオーナーが風さんの縁者に当たる人と伺うて、ぜひお会いしとうと思うてます。そのオーナーにお会いすることは可能ですか。ご相談できる方か部署をご紹介いただけるだけでも、とてもありがたいんやけど」
と、八十島はさっきと同じように単刀直入に話を持ち掛けた。
『胸の名札に『OKUYAMA』と記されているわ、やっとわかった。
アルファベットは漢字に比べて視認性が良うないな、得たい情報の読み取りに時間がかかる。
僕はさっきから別嬪さんの胸の名札を読み取ろとしとんねんけど、誤解されへんかったかな』
その別嬪さんが、八十島の視線に気付いた。
胸の名札に目をやって、それから八十島に微笑んだ
「わたしは奥山紅葉です。オーナーは気さくな方々でして、姉妹二人で共同でオーナーをしてます。もちろん日本の方です。多少なりとも因幡風さんにご縁のある方がお会いしたいと仰るなら、喜んでお会いするでしょう。・・・そうですね。それこそ、今晩にでもと。そう返事をもらえると思います」
奥山紅葉は、手元でクレジットカードを読み取り機にかざし、一呼吸置いてなんかの書類とカードとを一緒にして八十島海人に
「ご確認とご記帳をお願いします」
と渡した。
八十島は、書類が宿泊期間とクレジット決済情報が印刷されとるホテルの宿泊カードやなと確認して、それに必要事項を記入する。
その記入の間に
奥山紅葉が提案する。
「そうですね、オーナーは、本日、別件でわたしからの連絡を待っておりますので、連絡ついでにご要望をお伝えします。『日本政府のお手伝いをしている八十島海人様が、曽祖父さまの因幡かおる様についてお調べしていることがあって、お会いしたいとのことです』と伝えておきましょう。おそらく了承の返事がもらえるでしょう。『今夜にでも』と付け加えてそのまま会合を設定して差し障りはございませんか。八十島様のご都合のほうは。よろしいでしょうか」
奥山紅葉は部屋の鍵を楓の盆栽の載るデスクの上に置く。その葉がキラリとまた光る。
『思うとったより簡単に問題解決出来た』
と八十島は思った。
「いけますよ。時間も場所も当方で合わせるんで、手配をお任せします。当分の間は他に何の用事もあらへん身です。どうぞよろしくお願いします」
『僕、奥山紅葉の仕事ぶりがめっちゃ好きになった。
幸先は良し、上手いことオーナーとつながる人物と話ができ、
しかもそれが目立つほどの別嬪さんとは、この僕にも運が向いてきたな』
と思った八十島が、
「風と書いてかおると読むんやネ。ありがとう。恥をかかずに済んだよ。ありがとう」
と言う。
感謝は自己アピールも兼ねて爽やかに。それが縁を結ぶ。
八十島は常々そう思っている。
一期一会。相手が別嬪さんでなくてもだ。
「どういたしまして」
と別嬪さん、笑顔いっぱいの顔を事務的な顔に戻し
「かしこまりました。もし、今日の夕食のご予定が無ければ、この受付の裏の地下が、ちょっとした秘密の、というか、隠れ家レストランになっておりますので、そこで食事が出来ます。・・・そうですね、いつも通りなら、八時くらいにオーナー達もやってくることと思います」
『腕時計を見とる顔もええなー。威厳を感じる』
奥村紅葉が、その顔を上げて、八十島に
「ぜひぜひ、そうなさいなさいませ。彼女たちも日本人のお客様で、風さんの話ということであれば大変喜びます。喜ぶ理由があるんです」
と声かけた時には元の笑顔に戻っていた。
「ありがとう。そうさせてもらいます」
八十島は、奥村紅葉の目を見ながら部屋の鍵を受け取り
『思わず知らず目の前の美人から目を逸らしとうない、もうちょっと見つめていたい』
そんな本能を抑えて部屋にさっと向かうことにした。
『僕って、クールやろう。食事まで本でも読もう、爽やかさアピールが大事やからね、ねっとり感が顔に出とったらあかん。雑念放棄、合縁奇縁、たとえ逢うのが一度きりでも』
と八十島が心の中で自分に言い聞かせていた。
謎の自信は自意識過剰のせいである。
===隠れ家レストラン===
ビルの外は暗くなり、既に夕餉の屋台に向かう街の人々の生活が始まっていた。
受付の裏に回ると表の人々の気配は消え。地下に向かう階段は電球色のランプで灯されていた。夕暮れが似合うレストランを演出しているのだろうか。
ドアノブに手をかける。
と、後ろから風が吹いた。
吸い込まれた。
八十島海人にドアを開けた記憶はない。
吸引されたと思ったという。
丈夫そうな木製ドアがあったのにそのドアに吸い込まれた。
前に倒れそうになった。
倒れまいと片足を一歩踏み出した。
その片足が「砂」を蹴った
と気付いたら、そこにいた。
目の前に広がるのは夕映えの砂浜。
両足が砂を踏んでいる。
振り返ると入ってきたドアは遠い。
「ここ何処なんや」
「ここが隠れ家レストラン?」
隠れ家レストランは部屋なのに部屋ではなかった。
「半野外」だった。
天井が天空に溶け込み雲が浮く。
床と壁が砂浜や松林と一体化して、空と海が青く細い線で繋がっている。
まさに水天、髣髴として青一髪だ。
波の音も聞こえる。
その空は日没前の空
西の空に太陽と夕焼雲
夕焼雲の裂け目にポツリと宵の明星
正面の低い空に赤く染まる綿雲
天高く黄色に染まる鰯雲
東の空にぼんやり白い月
未だ真っ青な空に満月が見えている
八十島がきょろきょろと周囲を見回していると
「八十島様」
あの風、爽籟が八十島の背に当たった
後ろを見ると宙に浮かぶ黒霞から娘がキラッと光って現れた。
膝を隠したスカートの裾が
風で揺れる
『メイド服だ。
一瞬、別人や思うた』
「八十島様、こちらへ」
八十島は、その声で、あの黒い影から現れた光の麗人と同一人物で間違いないと分かった。
爽籟、秋風を纏う光の麗人、奥山紅葉。
八十島海人はメイド姿の奥山紅葉についていく。
周りの景色全体が
紅葉を中心にして
高速で移り変わっていく
いつの間にか紅葉の前方に
沈みかけの紅い太陽と眩しく輝く宵の明星
後ろに月
光の波が津波のように
前から寄せて来て、
全てを後ろに押し流して行く
前を歩む紅葉の後ろ姿は
真っ黒な影の輪郭となって
光の津波に立ちはだかる
その凛としたメイドの黒影が
光の海を鋭利に切り裂いて
進む
やがて円形のカウンター席の奥に僕を導くと、カウンターの一部を跳ね上げてその中に入った。
『不思議だ。飲食スペースには砂が一粒たりとも吹き込んでいない』
いつの間にか、景色が元通りになっていた。
カウンターの向こうには夕映えの浜が広がている、目の前にはテーブルを隔ててメイド姿の奥山紅葉がいる。
ちなみにメイド服はひざを隠すクラッシックなものだ。
『ミニのメイド姿も見てみたい』
だが、八十島は思わず考えてることと全く違うことを口に出していた。
「夜もここで働いとるの?」
八十島は思った。
「本当は
『ここは何処、さっきの入り口は何、ほんで、あんたはいったい何処から《出現》したの』
と質問すべきやったやろうか?
ちなみに、カウンター席までに歩いた際に見えたもんは全て幻影に違いないよなぁ。
そのほうがこの場合自然やし、正しい質問やったはずや。
でもなんでか出来へんかった。
絵のような絶景とモデルのような美人が同時に現れたからやな。
僕は昔から美しいもんに弱い。無中になってしまうんや。そのせいかもしれへんな。
せやけどこの違和感はなんやろう。
僕が昼寝の起き抜けで、寝ぼけてボーとして歩いとったから、
ここがどこやか、居場所が分かれへんなっただけや。自分を見失ったちゅうわけやない。
ウン、ウンそうや。幻影や」
と。
「いつもは夜に働いているのです。実は昼間働くのが稀です。勤務中なので、恐縮ですが、
私事に関するお尋ねはご遠慮下いませ。失礼いたします、再確認です。
お召しあがりになるお夕食ですが、先ほど係りの者が部屋の方にお電話でお伺いした夕食ですが、
ご注文は此方でよろしいでしょうか?お間違い、ご変更はございませんか?
お時間はいただきますが変更も可能です。ご要望御座いましたら、ご遠慮なく申し付け下さいませ。
お飲み物はいかがいたしましょうか。何か特別な希望はございますか」
とメイドの奥山紅葉がメニューを開いて八十島に差し出して見せる。
「取り敢えずビール。暑いときはビール。アサヒかキリン。アジアの田舎での一択。注文のメニューは、なんちゃらステーキ、それそれ、それで間違うあらへ・・ないです」
と言った八十島の目はうわの空。
奥山紅葉の躰の左横やら右横から、八十島は自分の上体を乗り出すようにして、遠く西のほうの海を見たり、東の松林を見たりして、その間隙で奥山紅葉のメイド姿も盗み見ていた。
『絶景と美女や』
他方の紅葉も両手で開いたメニューをよく見えるように、指させるようにとカウンターの上に身を乗り出して置こうとしていた。
「それ、それ、それで間違うあらへ・・ないです」
と指さす八十島海人の指はメニューの上を素通りして思いっきり紅葉の胸元に。
男女のスレ違いは、人生につきもので古来より、それはもう実に、様々な物語に数多く書かれて参りました。
心の琴線に触れて音色を出すスレ違いもあれば、そうでないスレ違いもある。
この場合は?
『僕の人差し指が柔らこうて弾力のある何かに触れた?むにょと突っ込んだ!
その時は何に触れとるのか分からんかった。
大きく目標を外れたんは確かや。
メニューの感触とは違うとったからな。
「おっ」と思ったときには
慌てて指をメニューの文字に叩き付けた』
でも次の瞬間に八十島海人の目と指は、メニューを離れ、天上の雲を指し、砂浜を指し、その向こうの夕焼け、ひときわ光りだした宵の明星を指し、海辺で赤くキラキラ光る波を指し、東の松林の上に白く浮かぶ月を指して、奥山紅葉に微笑んだ。
「綺麗な海と夕焼け空と宵の明星や
しかも満月や。
とってもきれいな満月や、有名画家が絵に描こうとしても『筆を折ってしまおうか』と思うぐらいの、
これ、いったいどうなっているの」
『ようやくの正しい質問や。
この時初めて、ようやく時(T)と場所(P)と機会(O)に相応しい疑問が口から出たんや。
決して胸に触れてもうて狼狽したんとちゃう。
ましてや狼狽を誤魔化そうとしたわけでもあれへん。
上手いこといったんは偶然と普段の行いの賜物言うとこか。
All's well that ends well.(終わり良ければ総て良し)とシェイクスピアも言うてはる』
「ここ、ジックゥが、ユガんデるの、です。ここに日本のカコが、クウカンが、シュツゲンしてる、のです」
と、奥山紅葉は先程と打って変わって、切れの悪い、ざっくり砕けた言葉の破片で、受け答えをしたと思ったら、その場にすっとしゃがみこんでしまった。
カウンターの下からフ―と息を吐くため息が聞こえる。
次に立ち上がって麗しいメイド姿が見えた時にはビール瓶と栓抜きを持っていた。
奥山紅葉がその栓を抜く。
「ポン」と懐かしい、思ったより大きな音がする。
そして中身を、これも懐かしーい感じのガラスのコップにトクトクと注ぐ。
「少々お待ちくださいませ、今お食事をお持ちいたします」
口調も元に戻っていた。
調理場があるのだろう、奥山紅葉は奥にいる誰かに料理名を告げながら入って行った。
やがてガチャガチャと音がして、しばらくすると紅葉が現れた。
左の頬の位置に掲げたトレイに、料理を乗せて来て八十島海人の横に来ると目の前に置いた。
肉がジューッと音を立てている。
なんちゃらステーキだ。
八十島はメニューの細かい所なんぞ覚えてはいない。
『ステーキなら素敵でOKや』
紅葉は、直ぐにさっきの調理場らしい部屋に戻って行く。
他方、八十島は右手の人差し指見て、手と首を振って煩悩と雑念を振り払う。
そして食事に集中することにする。
どっかレトロ感がある夕食のステーキをビールとともに流し込む。
せっかちにも十数分で食べ終わる。
『正直、流石の僕も、ちょっと動揺したかもしれんな、人差し指の感触が恋しい。
これ、アサヒビールや、瓶ラベルは真っ赤な旭日がデザインされとる、
最近見ないなとそう気付いたんは食後や。
煩悩と雑念を振るい落として、集中して食べとったんやな』
八十島はまた、不思議な空間にキョロキョロと落ち着かなくなって、周りを見回し始めていた。
『それにしてもジックゥーとか、ユとかが、デる、なーんて言っとたんかな、壁も天井も奇妙やけど、
そんなことより景色が普通でないわなー。
ほんまににきれいや。
どこかのレトロ写真集で見たような昔の日本の景色そっくりや。
空気が澄み切ってんねやろうな。
宵の明星があんなに輝いてるの見るの初めてや。
懐かしさを感じさすための手の込んだ仕掛け。そうに違いあれへん。
ライラ・マーにもそんな技術があったんやなー。
でも冷房は効いてるし実に気持ちのよい風や。
床は磨き込んでいて黒光りしとる。
なぜ、このレストラン、砂浜にあるように見えとるのに砂があまり吹き込まんのやろ。不思議やなー。
それとも、たまーに浜の砂が吹き込むんやけど、直ぐ掃除しているんやろか』
と八十島海人は観察を続けていた。
ビールの大瓶一本全てを飲み終わったころ、また紅葉がやって来たので、八十島は
『美しいとは彼女のことやなー』
とか思いながら、軽口をポンポン叩いていた。
『今考えたらのんきなこっちゃ』
「さっきなんて言っとたの『ジクウー』とか『湯が出るとか』『恰好がどうとか』言っとったように聞こえたんやけど」
と八十島。
「落ち着いていらっしゃいますのね。八十島様は。確かに、そうお伝えいたしました。この部屋は時空が歪んでいるのです」
と紅葉さん。
八十島は「じくう」といって息を吞む。
それを見た紅葉は静かに息を吸った。
その瞬間、空気がピンと音を立てて張りつめるとともに、彼女の雰囲気が変わった。
その瞳は遠い昔を見るような光を宿し、その声は秋風が松を揺らす音を聞いたように懐かしく響いた。
「いま、八十島様がおられるのは、
日本の昭和十七年九月二十五日、
神戸・須磨の浜辺でございます」
その時、夕焼けの光が、さっと紅葉の横顔を照らす。
紅葉が紅く染まる。
その姿は
紅葉の錦 神のまにまに
まるで古の歌に詠まれた情景をも超えると思えるのだった。
そう、天上で一番輝く星のように。
「それでは八十島様、あらためて、この部屋の説明を、この時空間の時間と場所とをご説明申し上げましょう」
=== 奥山紅葉===
わたしはもみじ、紅葉と書いてもみじ。
奥山紅葉。
年齢は見た目通り二十歳すぎ、ではないのです。
内緒だけど三十路前。なので、八十島海人様とあまり変わらないのです。
そして日本政府から給与をもらっている特殊な国家公務員です。
表向きはこの国ライラ・マーの大学院生。
この国で考古学を研究している英国系ライラ・マー人の女性教授から指導を受ける日本人大学院生です。
いま五十代の指導教授は優秀な考古学者であり、内緒ですが、実は現役バリバリの工学エンジニアで凄腕ハッカーでもあるのです。 そしてわたしのハンドラーを務めてます。
ハンドラーという言葉でわかってもらえたと思いますが、ボスは現地スパイ組織の元締めでわたしがハンドルされるスパイの一人というわけです。
スパイと言っても、自分たちで他国の秘密を盗みもしなければ、謀略活動もしない。
新聞やテレビで報道される公開情報を収集するのが主な仕事で、政治や経済や学術、あるいは情報のキーパーソンの周りで色々動き回るのが役目です。
少なくとも今までは。
今の説明で「どう動き回るの」と聞きたくなっただろうけど、これから起きる話を追っていけばそのうち分かると思います。
さて、八十島海人様。
彼は重要な役割をこれから負うことになります。
わたしが負わせます。
そうしろとハンドラーに命令されましたからね。
その八十島海人様は、わたし、奥山紅葉の方を見たかと思うと首を右に左に上にとキョロキョロを止めないのです。
落ち着きが無いのはしょうがありません。 この空間に初めて入った人は皆そうなるのです。
「さっきなんて言っとたの『ジクウー』とか『湯が出るとか』『恰好がどうとか』言っとったように聞こえたんやけど」
と八十島様。
「落ち着いていらっしゃいますのね。八十島様は」
とわたしはカウンターの中で八十島様が済ました食事の後片付けをしながら
「確かにそうお伝えいたしました。この部屋は時空が歪んでいるのです」
八十島様の息を吞む音が聞こえました。
わたしは深呼吸し八十島様の目を見ます。
奥の方まで、心まで見えるように。
「いま、八十島様がおられるのは、
日本の昭和十七年九月二十五日、
神戸・須磨の浜辺でございます」
八十島様が私の顔を凝視しています。西日が少し眩しいです。
「それでは八十島様、あらためて、この部屋の説明を、この時空間の時間と場所とをご説明申し上げましょう。今、ここは、続けて話すと、日本の昭和十七年九月二十五日の兵庫県神戸市、須磨海岸の浜辺です」
カウンターを拭き終り、八十島様の空になったコップにビールを注ぎます。
「いいですか、もう一度言います。ここは昭和十七年九月二十五日。神戸・須磨の浜辺です」
八十島様は声が出ないようです。
キョロキョロ見回していた八十島様の首と目の運動は止まりました。
わたくしをポカンと見ています。
焦点が合っていない目で、思いつめた表情で、口も少し開いています。
思ったよりショックだったようですね。
でも、すぐに立ち直れるでしょう。
そうでなければ任務に使えませんからね。
しばらくして、八十島様は目の前のコップに気が付いたようです。
手に取ると入っているビールをゴックンと音を出して一口飲み込みました。
立ち直る試みとしていい方法です。
流石です。
「僕、帰れんの」
あら、まだ明らかに立ち直りきっていませんね。
引き続き声をかけ続けましょう。
「もちろんです。わたくしのいう事を聞いてそれに従って頂けさえすれば」
「ひょっとして脅してんの」
おお、自分が客観視できるようです。
さすがは八十島様です。
「まさか脅してなんかいませんよ。お帰りになるには、あわてずに、ちょっとした注意が必要なだけでございます」
「・・・」
「要は出口をお間違えにならければ、いつでも、誰の許可も、命令も得ずに、お帰りになれますから」
===八十島海人===
夕映えに紅葉さんの横顔が染まっている。
僕はその顔をじっと見ている、目が離せないのだ。
僕は声が出なかった、どう苦情を言えばいいんや、どうしたら元の世界に戻してもらえるんや、歪んでいるのは「ジクー」でも「ジクウー」でもなくて、漢字で書くと「時」「空」。その「時空」が歪んでるらしい。
湯もYouも関係ないんや。
「昭和十七年」やって。
いったい何年前なんや。
西暦何年?
嘘だろう。あり得ない。
「神戸」「須磨」
一瞬でライラ・マーから飛んだんか?
目の前の女は魔女やろか?
タイムマシーンに乗った記憶はないぞ。
いやいやいやいや、嘘だろ、嘘に決まっているやろ。
騙されてるんか、狸か狐に誑かされてるんや、そのどっちかや、そうじゃなきゃ夢を見てるに違いあれへん。
「僕、帰れんの」
と思わず募った不安が口から出よった。
僕、異次元空間に入ってもうたで。
どないしょう。
恐ろしいと思ったとたん視野が狭まってると気が付いた。周りが墨で塗ったように真っ黒なってしもうたんや。
真っ暗になった視野にスリットが入って、そこだけ見てる感じや。闇から生まれた光の花ように眩しく輝いていた奥山紅葉が、遠くで妖しく青白い光を出して僕を見ているのが見える。
スレンダー美女に化けた魔女や。
待ってや、魔女でのうて狐か?綺麗な女狐やな。
このハンサムで逞しい僕が、いくら綺麗な見かけしとるといっても狐なんかに誑かされ、弱音を吐いてたまるか。
いったい全体、どんな冗談や、勘弁してくれや。
「SFか、それともファンタジーか」
と我知らず自分に突っ込みを入れる。
女狐め、なぜや、今、微笑んだぞ。なぜ笑うんや?
「もちろんです。帰れますよ。わたくしのいう事をよく聞いてそれに従って頂けさえすれば」
それは遠くから聞こえた声のように感じたんやが、すぐ目の前の女狐が微笑んどる。 氷の微笑や。
その頬もその血も凍るほど冷たいに違いあれへん、せやけど綺麗やな、女狐やけど。
ちょっと待て、待ってや。
なぜここで微笑むんや?
彼女の眼差しに優しさが戻って来よった。
いやいやいやいや、これは脅しや。
冷血で計算づくの脅迫やで。
「ひょっとして脅しとるの」
不安で息苦しくなり吐き気を催してきた。
女狐は「脅し」の一言で笑みを消し、一旦真顔に戻る。
スリットの奥の奥に女狐が引っ込んだ、そう思うた。
スリットの奥の女狐がすーと息を吸う。
次の一瞬、顔全体に笑顔をはじけさせた。
「まさか、脅してなんかいませんよ。お帰りになるには、あわてずに、ちょっとした注意が必要なだけでございますから。 要は出口をお間違えにならければ、いつでも、誰の許可も、命令も得ずに、お帰りになれますから」
僕を落ち着かせ、安心させるためやろう、一つ一つ区切りをつけて彼女は言うた。
僕は彼女の言葉を、心の中で、どこか遠くに持ち去られてしもうて自分のものと思われへんくなった心の中で「脅してない」「慌てずに」「注意が必要」と呟く。
殊更に悲観的観測を招こうと働く想像力やなしに、事実だけを選んで見聞きしようとする理性を信頼して、聞いたことだけを、二度、三度と。
聞いたこと
「脅してない」「慌てずに」「注意が必要」と強く自分に言い聞かせた。
少しづつ自分の心を取戻す。
見たものも
このメイドは可愛い、というか美しい。
闇に咲く光の姫君や
美しいものは正直や。そして優しい。
僕を脅してなんかいない。
そう心底願って反芻する。心の中で。
そして口に出す。口に出して差し支えない心の中の一部分だけを。
「出口を?」
なぜなんや
「間違えなければ?」
何や知らん。けどうまく単語を繋げないんようや
「許可なしで?」
すると目の前の彼女が女狐でもなく魔女でもなくなったんや。スリットの奥の方、遠くの方に見えとったのにいつのまにか近くに来とる。
気付くと闇に咲く、いや闇を一閃する光の姫君のメイド、紅葉さんがカウンターの向こうに戻って来とって、身を乗り出すようにして僕の目を覗き込んでいる。
「そうです。出口を間違えてはいけませんよ。帰り道はとっても狭くて見つけにくい出口で両手で広げるようにして全身を入れなくてはいけませんし、隣にはこちらにいらしたときに使った入口専用の裂け目があって紛らわしいですから、いきなり逃げ出したりなさらないで、わたしの説明を聞いてから、一緒に元の世界に戻りましょうね。大丈夫です。間違いなく戻れますからね」
「一度帰っていい?」
「もちろん。でも八十島様はオーナーにお会いしたい用事があるんですよね」
「うー、うー」
そうや、そうやと僕は頷いて答えた。
でも意味不明の唸り声になってしまったようや。
いやちょっと待て、もう一度。
「んっ、んんうん、またこんど・・今日でなくて・も・・」
その『こんど』の声はのどにつかえて上手く出なかったかもしれんが、紅葉さんには聞こえたはずや。
なのに無視かいな。
せやけど時計を見た紅葉さんには、妖しゅう可愛いメイドに相応しい優しさが戻っとった。
「もうじきですよ、もう八時になりますので、あと少しで、待ち人がお見えになりますよ」
と美女はにこりと、これで十何度目かになろうかという微笑みを浮かべて、続けた。
恐ろしゅうて美しい女や。
僕、マゾの気があるかも知れないと生まれて初めて思た。
「そのまえに、このお部屋の説明を聞いていただきましょう。まず、出入りの方法ですね。ご安心とご納得いただくために、そのことからお伝えいたしましょう」
また声が出ず僕はうんうんと頷いた。
その下向きの僕の目線に奥山紅葉の優しそうな視線がまっすぐに重なった。
とても叶わんなあと思って観念したわけじゃない。
素直に元の世界に帰る方法を聞いておいて損はないから、ここは戦略として折れることにしたんや。
取り敢えず、そう思い込むことにした。
どんな窮地でも男のプライドは大事や。
それにしたかて、食事を全て胃に流し込んだ後で話しを聞いたのは良かった。
話を先にしとったら、食事がのどを通らへん所やった。
それにビールちゃうくて、もう少し強い酒にしとけばもっと良かった、思ったんはだいぶ後のこっちゃ。
そう、紅葉の話を聞いたからって直ぐに飲み込める事態やなかったから、気ぃ静められる訳が無かった。
恐怖心と好奇心が入り混じってまい、興奮がわりかし冷めるまで、かなり時間が必要やったからや。
そう思う。
下書きを誤ってアップしたようですので、本日(2026/07/23)に急遽書き直しをしました。ストーリー自体は変えていません。小説の視点を明確にしました。




