断章Ⅳ サビア
今から十六年前――まだリオが生まれる前のこと。
三十年前に始まった人と魔の戦争は、いまだ終わりの気配を見せていなかった。
季節は、秋。
小さな村では、収穫の手は常に足りていない。
男爵であるラスもまた、例外ではなかった。
本来であれば人を使う立場にありながら、自ら畑に立つことを選んでいる。
「そっちはもういい。こっちは終わらせておく」
土にまみれた手で、ラスは鎌を振るう。
薄茶色の短髪。
日に焼けた肌。
農作業で鍛えられたというには、どこか違う。
その背にあるのは――武人としての貫禄だった。
ふぅ、と一息ついたころ。
畦道の向こうから、サビアが小さな籠を抱えて歩いてくるのが見えた。
「おつかれさま」
やわらかな声とともに差し出されたのは、簡素だが温かな弁当だった。
「ああ、すまない……身重だというのに」
ラスは苦笑し、手の土を払う。
「これくらい、平気です。それに――あなたが無理をする方が心配です」
サビアは少しだけ目を細めて、畑を見渡した。
秋の匂いと、刈り取られた穂の気配。
穏やかな時間が、そこにはあった。
二人は並んで腰を下ろす。
言葉は多くない。
けれど、それで十分だった。
――戦は、遠い。
そう思いたくなるほどに。
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その後、二人はいつものように一日を終えた。
「それじゃ、また夕方に」
「ああ」
短い言葉を交わし、それぞれの持ち場へと戻っていく。
変わらない、穏やかな一日。
それが、この村の日常だった。
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――数日後。
収穫を終えた村に、行商人が訪れた。
乾いた車輪の音が、静かな村に響く。
「おーい、荷を運ぶの手伝ってくれんか!」
気さくな声に、何人かの村人が応じる。
ラスもまた、手を貸していた。
その最中――
「ラス様、こちらを。道すがら侯爵領に立ち寄った折、お渡しするよう仰せつかりまして」
行商人が差し出したのは、一通の封書だった。
封蝋に刻まれた紋章を見て、ラスの手が止まる。
見慣れたそれは――ローデン侯家の印。
「……侯からか」
ラスは封書を受け取り、軽く礼を返す。
中身には触れず、そのまま懐に収めた。
乾いた風が、畑を渡っていく。
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屋敷へ戻ると、ラスはすぐに書斎へ向かった。
村で一番大きいとはいえ、華美とは無縁の造り。
それでも、男爵の家としての体裁は整っている。
扉を開ける。
「あら、あなた。今日は早いのね」
振り返ったサビアが、穏やかに微笑んだ。
「ああ。侯からの手紙を受け取ってな。先に目を通しておこうと思って」
机の上に封書を置く。
サビアの視線が、その封蝋へと向けられた。
「……侯爵から、ですか」
「ああ」
短い応答。
書斎の空気が、わずかに張り詰める。
ラスは椅子に腰を下ろし、封書に手をかけた。
――この平和なフェルメリアでは、戦を知る者などほとんどいない。
私を含め、何人が帰ってこられるだろうか。
王国騎士団での経験が、生かせればあるいは――
封を切る。
紙の擦れる音が、静かに落ちていく。
やがて――
読み終えたラスは、わずかに息を吐いた。
視線を上げ、天を仰ぐ。
「……いまか」
あの鉄の匂いを、思い出す。
血と、土と、焼けた空気。
――あの場所へ、また戻るのか。
短く、誰にともなく呟く。
その声には、覚悟と、わずかな諦念が滲んでいた。
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ラスは書状をサビアへと差し出した。
「読んでおけ」
サビアは受け取り、静かに頷く。
目を落とす。
――出陣。来年の春。
その一文だけで、十分だった。
「……出陣……来年の、春……」
かすかな声が零れる。
「ああ」
次の瞬間。
サビアの指から力が抜けた。
はらり、と。
書状が床へと落ちる。
静かな音が、やけに大きく響いた。
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翌日。
屋敷の使いが村を回り、広場へ集まるよう触れを出した。
ざわめきが広がる。
人々は次々と集まっていく。
中央に立ったラスは、いつもの穏やかな顔ではなかった。
「――侯よりの命だ」
書状を読み上げる。
空気が沈んでいく。
「……出陣? あの前線へ、ですか……?」
震える声。
「うわあああっ……!」
崩れ落ち、泣き出す者。
家族が袖を掴む。
それでも、離れていく。
「年齢と体力を見て選ぶ。――無理はさせん」
低く、迷いのない声だった。
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その日から、村の音は変わった。
鍛冶屋の槌音。
刃を研ぐ音。
火の粉が夜に舞う。
訓練が始まる。
倒れても、立ち上がる。
誰もが知っていた。
生き残るためだと。
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冬を越え、春が近づく。
出立前夜。
宴が開かれた。
笑い声。
杯の音。
その中に――
泣き声が混じる。
幼い子供が、父親の脚にしがみついていた。
「行かないで」
男は笑う。
「すぐ戻る」
その手は、わずかに震えていた。
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宴の喧騒から少し離れた場所。
夜風の中。
ラスとサビアは並んでいた。
サビアの腹は、大きく膨らんでいる。
新しい命が、そこにあった。
「……せめて、生まれるまではと思っていたんだが」
「仕方ないですよ。命令、ですもの」
サビアは静かに微笑む。
そして――
「……お手紙、待っています」
ラスは目を細める。
「ああ。――必ず」
その瞳から、涙がこぼれた。
何も言わず、サビアを抱き寄せる。
小さな肩が震えている。
離すことなどできないように。
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そして朝。
兵たちが並ぶ。
もはや農民ではない。
覚悟を宿した兵だ。
ラスは一歩前へ出る。
そして――振り返る。
村を。
サビアを。
すべてを胸に刻むように。
サビアは腹に手を当てていた。
まだ見ぬ命が、そこにある。
――見ていて。
声にはならなかった。
「……行くぞ」
「――必ず、帰る」
「おお――ッ!!」
声が重なる。
涙声が、風に乗る。
それでも列は止まらない。
足音が遠ざかる。
やがて――消えた。
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