第91話 影は海峡を越えて
夜の港は、まだ燃えていた。
焼け落ちた梁が赤黒い火をはらみ、崩れた石壁の隙間から煤の匂いが潮風に混じる。
折れた桟橋が波に軋む音だけが、静かに響いていた。
海は黒い。
ただ夜の色を映しているのではない。
もっと重く、もっと濁った色だった。
沖合では、何かが水面を裂いた。
月明かりを受けて、鱗のようなものが一瞬だけ光る。
次の瞬間には、それはまた黒い波の下へ沈んでいった。
ガルド率いる魔王軍の襲撃によって、港は半ば機能を失っている。
表に立つ者たちが見れば、ここは敗北の爪痕だっただろう。
だが、影に生きる者たちにとっては違う。
瓦礫も、炎も、崩れた壁も、月明かりの届かぬ死角も。
すべて、身を隠すための道具だった。
崩れた建物の奥に、四つの人影が集まっていた。
クロキリ。
赤鬼。
青鬼。
黄狐。
フェルメリア王国の影。
王国が表で掲げる旗の裏側で、音もなく動く者たちである。
黄狐が、崩れた壁の隙間から海を覗いた。
細い目が、波の奥を探る。
「海は魔物だらけで、普通には渡れないわ」
沖合の黒い水面が、またわずかに盛り上がった。
大きい。
魚などではない。
赤鬼が舌打ちした。
「泳いで渡る気はねぇぞ。俺は魚じゃねぇ」
「魚なら、もう少し静かにしているでしょうね」
「おい黄狐。今、俺を魚以下って言ったか」
「言ってないわ。そう聞こえたなら、心当たりがあるんじゃない?」
赤鬼が眉間に皺を寄せる。
だが怒鳴りはしない。
この場で声を荒げるほど、彼も愚かではなかった。
クロキリは、二人のやり取りに反応しなかった。
懐から一つの巻物を取り出す。
黒い紙だった。
紙というより、夜を薄く剥いで巻いたような色。
そこに描かれている紋様は、墨よりもなお濃い。
「術を使う」
赤鬼が露骨に嫌な顔をした。
「出たよ、それ」
クロキリは巻物を指先で叩く。
「闇遁・影道。見渡せる範囲にある影と影をつなぐ術だ」
「影の道だ。便利だろう」
「便利なのは認めるがな」
赤鬼は肩をすくめる。
「なんつーか、ぬめぬめしてるわけでもねぇのに、気持ち悪いんだよ、これ」
黄狐が海へ視線を戻したまま言う。
「落ちて海の魔物に食べられるよりはましでしょう?」
「比較対象が最悪なんだよ」
青鬼は何も言わなかった。
ただ、海峡の向こうを見ている。
その沈黙は、同意でも否定でもない。
任務に不要な言葉を削ぎ落とした者の静けさだった。
クロキリは巻物を開いた。
足元の影が、静かに広がる。
瓦礫の下、崩れた建物の脇、月明かりに刻まれた海面。
見渡せる範囲にある影が、音もなく一本につながっていく。
クロキリは低く告げる。
「――闇遁・影道」
黒い道が、海峡へ伸びた。
夜そのものを細く引き延ばしたように揺らぎながら、それは向こう岸へと続いていく。
「行くぞ」
クロキリが先に足を踏み出した。
その足は、海へ落ちなかった。
黒い道の上に沈み込むように乗り、音もなく前へ進む。
続いて青鬼。
黄狐。
最後に赤鬼が、心底嫌そうな顔で影へ足を乗せた。
「……毎回思うんだがよ」
赤鬼が声を潜める。
「歩いてる感じがしねぇんだよ」
影道の上は、地面でも海でもなかった。
足元に感触はある。
だが、その下に何があるのか分からない。
底がない。
深さすら感じられない。
波の音が遠くなる。
風の感触も鈍くなる。
身体だけが、世界の裏側へ滑り込んだようだった。
歩いているはずなのに、浮いている。
沈んでいるようで、落ちてはいない。
そんな不気味な浮遊感が、足裏からじわじわと這い上がってくる。
海面の上では、巨大な魔物の影が泳いでいる。
背鰭のようなものが一瞬だけ水を割り、すぐに沈む。
だが、それらは影道の中を進む四人に気づかない。
黄狐が言った。
「足元を見ない方がいいわ。見たら余計に気持ち悪いから」
「そういうこと先に言え」
「言ったじゃない、今」
「遅ぇんだよ」
クロキリが前を向いたまま短く言った。
「声を落とせ。影が乱れる」
赤鬼の顔が引きつる。
「乱れるって何だよ。道が消えるとか言うなよ」
「消えたら海の中ね」
黄狐がさらりと言う。
「お前、楽しんでるだろ」
「少しだけ」
赤鬼が舌打ちする。
だが、その軽口の裏で、四人の足取りは乱れなかった。
彼らは海を渡る。
波の上を歩くのではない。
波の下に落ちるのでもない。
夜と夜の隙間を、音もなく進む。
やがて、影道の先に砂浜が見えた。
敵勢力圏側の海岸。
月明かりを浴びた砂は白くなかった。
ところどころに、黒い筋が走っている。
瘴気が染み込んだ跡だった。
四人は黒い道から抜け出すように、砂浜へ降り立つ。
赤鬼が肩を回した。
「……ああ、地面って最高だな」
「任務中だ」
「分かってるよ」
クロキリは周囲を見渡した。
砂浜の先には、乾いた礫混じりの斜面が続いている。
そのさらに奥には、茶褐色の丘陵が幾重にも重なっていた。
岩肌は月明かりを受けて白く乾き、ところどころに棘のある低木が黒い影を落としている。
丘の間には、川に削られた谷筋が暗く沈んでいた。
遠くで、水の音がかすかに聞こえる。
この一帯は、ただの荒地ではない。
川と丘に囲まれた、天然の迷路だった。
その丘陵の裾に、半ば崩れた古い入口が口を開けていた。
かつて密輸路だったのか。
古い水路だったのか。
あるいは崩れた監視施設の残骸か。
入口は崩れかけているが、外からは岩陰と砂に隠れて見えにくい。
内部は思ったよりも広かった。
クロキリは短く言った。
「ここを拠点にする」
赤鬼が中を覗き込み、鼻を鳴らす。
「辛気臭ぇ穴蔵だな」
「見つかりにくい。文句を言うには贅沢な場所よ」
青鬼は入口付近へしゃがみ込み、床と壁に指を這わせた。
罠の有無を確認している。
しばらくして、無言で頷いた。
問題なし。
クロキリは内部へ入り、乾いた床に手をついた。
「――木遁・芽吹万象」
床の隙間から、細い根が走った。
乾いた土がわずかに盛り上がり、木が軋む音が地下に響く。
枝が絡み、幹が曲がり、瞬く間に形を変えていく。
簡素な机。
粗削りな椅子。
荷を置くための木台。
ほんの数息の間に、そこは作戦用の空間へ変わった。
黄狐が感心したように目を細める。
「便利ねぇ、それ」
「壊すな」
クロキリが淡々と言う。
赤鬼が口元を歪めた。
「今度は火か」
彼は軽く息を吐いた。
口元から小さな炎が漏れ、壁際に立てかけられていた古い松明へ移る。
ぼっ、と暖色の明かりが灯った。
地下に四人の影が伸びる。
「火付け係まで俺かよ」
「料理担当もじゃない?」
「殺すぞ」
黄狐はわざとらしく肩をすくめ、クロキリの方へ視線を投げた。
「赤鬼がいじめる~、クロキリ」
クロキリは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
黄狐が小さく笑う。
クロキリは無言のまま、懐から地図を取り出した。
羊皮紙に似た古い地図。
描かれているのは、港、海峡、乾いた丘陵地帯、いくつかの川筋、アルマリクの城壁、そして敵の推定進軍路だった。
机の上に地図を広げると、黄狐がいくつかの小石を置き始める。
「まず確認するべきは四つね」
黄狐は小石を、海岸から内陸へ動かした。
「敵の拠点がどこにあるか」
次に、城壁へ向かう道筋へ置く。
「どの進路でアルマリクへ迫っているか」
さらに、地図に細く描かれた川筋へ指を滑らせる。
「川がどこを流れ、どこで敵と接しているか」
最後に、丘陵の谷間へ小石を置いた。
「そして、兵と物資がどこから来ているか」
赤鬼が地図を覗き込む。
「結局、見に行けって話だろ」
「そういうこと。地図だけじゃ、敵の腹の中までは分からないわ」
クロキリは、海岸から少し内陸へ入った丘陵地帯を指した。
乾いた谷筋と岩棚が入り組む場所。
川に挟まれた丘陵の内側にあたり、外からは地形に隠れて見えにくい。
窪地には兵を溜められる。
丘の背に沿えば、城壁方面へも動きやすい。
そして敵が黒い橋を架ければ、そこがアルマリク側への進軍路になる。
「本拠地があるとすれば、この辺りだ」
黄狐が頷く。
「丘の稜線で姿を隠せる。川が天然の堀にもなる。谷筋を使えば城壁への進軍にも都合がいい。ただし、確証はない」
青鬼が無言で、地図の北東側を指した。
そこには、古い川筋が細く描かれている。
「……水の線」
「川ね。上流と下流、それから敵拠点との位置関係を確認した方がいいわ」
赤鬼が鼻を鳴らした。
「俺は燃やせそうなものを探せばいいんだな」
「まだ燃やすな」
「分かってるよ。探すだけだろ」
クロキリは地図全体を見下ろした。
現時点で分かっていることは少ない。
だからこそ、ここから先は目で確かめる必要がある。
「四散する。一時間後、ここに戻れ」
青鬼へ視線を向ける。
「北東。地形、水路、退路を見ろ」
青鬼が頷く。
黄狐へ。
「北西。進軍中の魔王軍と丘裏の動きを監視」
「了解」
赤鬼へ。
「北北西。鍛冶場、攻城兵器群、物資集積地点を確認」
赤鬼が口元を吊り上げた。
「じゃあ、薪になりそうなものも探しておくか」
「火を入れるな」
「分かってるよ。今は探すだけだろ」
「必要なら、後で使う」
最後に、クロキリは地図の中央から南寄りの場所を指した。
「私は瘴気門を探る」
黄狐が問う。
「敵に見られたら?」
「戻ることを優先しろ。情報が目的だ」
青鬼が無言で立ち上がる。
松明の火が、四つの影を壁に伸ばした。
次の瞬間、影たちはそれぞれ別の闇へ溶けた。
*
クロキリは、影から影へ移動していた。
礫の斜面に落ちた岩影。
枯れた低木の下。
壊れた荷車の下。
月が作る影を踏み、瘴気が濃くなる丘陵の奥へ近づく。
やがて、見えた。
赤黒い瘴気が、地面から立ち上っている。
空間が歪み、黒い輪郭が脈打っていた。
まるで、世界そのものに開いた傷口のようだった。
瘴気門。
それも、一つではない。
三つの門が、完全に開放されていた。
赤黒い輪郭が脈打つたび、門の奥で闇が渦を巻く。
兵も、物資も、あの向こうから直接送り込まれている。
周囲には魔族兵。
護衛の魔物。
そして、術式らしき杭と鎖が地面に打ち込まれている。
クロキリは息を殺した。
そのとき、門のそばに立つ者の姿が見えた。
奇術師めいた立ち姿。
軽薄にも見える身のこなし。
だが、その周囲だけ空気が違う。
「……やつがいたか」
ラズール。
魔王軍側の工作員。
ゼイン配下と目される者の一人。
そして――クロキリが初任務で遭遇した男でもあった。
あの夜、共に任務についた者たちは、クロキリを残して全員、音もなく消えた。
その中心で、ラズールだけが笑っていた。
ラズールは瘴気門のそばで、術式を確認していた。
指先で空をなぞるたび、赤黒い紋様が一瞬だけ浮かぶ。
その動きが、ふと止まった。
ラズールが顔を上げる。
月明かりの下。
目が合った。
そう思った瞬間、クロキリの足元の影がわずかに乱れた。
心臓が、一瞬だけ跳ねる。
喉の奥が熱くなった。
怒りか。
恐怖か。
それとも、ただの古傷か。
黒い水面に石を落としたように、波紋が走る。
ラズールの指が、軽く鳴った。
ぱちん。
音は小さい。
だが、その瞬間、クロキリの背筋に冷たいものが走る。
瘴気門の周囲に浮かんでいた赤黒い紋様が、こちらへ向きかけた。
クロキリは考えるより先に、影へ沈んだ。
気のせいではない。
見られた。
だが、任務は討伐ではない。
情報を持ち帰ることが優先だった。
黒に沈む直前。
ラズールの口元が、はっきりと笑った。
*
青鬼は北東へ向かっていた。
岩場の陰を縫い、敵拠点に近い低地へ入る。
そこに、水音があった。
川だった。
細流ではない。
かといって大河でもない。
人が数歩で渡れる場所もあれば、両岸が削られて深くなっている場所もある。
ごく普通の川に見える。
だが、この地形では意味が違った。
川は丘陵を削りながら曲がり、敵拠点の脇を囲むように流れている。
その先は、城壁方面へ向かう谷筋へ落ちていた。
川そのものが、敵拠点を守る堀になっている。
そして、その堀を越えるために、敵は黒い橋を架けていた。
青鬼は川岸にしゃがむ。
指先で水をすくった。
冷たい。
濁りもない。
上流側に瘴気の気配はない。
だが、この流れは敵拠点のすぐ脇を通る。
下流へ行けば、瘴気の影響を受ける可能性が高い。
そして、もし上流で流れを変えれば――。
水は谷へ落ちる。
低地へ溜まる。
敵が兵と兵器を置いている窪地へ、逃げ場なく流れ込む。
「……水路になる」
短く呟く。
潜入路。
汚染経路。
水攻めの起点。
水は刃にもなる。
ときには、城壁より厄介な罠にもなる。
青鬼は周辺の地形を確認し、川の流れ、深さ、堤の弱い箇所、谷底の傾き、土の湿り具合を記憶した。
そして、無言で拠点へ戻る。
*
黄狐は北西側へ潜っていた。
乾いた丘の稜線に身を伏せ、魔王軍の部隊が川に囲まれた谷筋を抜けて進軍していく様子を見下ろす。
黒盾列に続く歩兵。
オークの一団。
ゴブリンの運搬部隊。
井闌を押すトロール。
彼らは、海岸から長い補給線を引いているわけではなかった。
丘陵の奥、川に守られた窪地から湧き出すように現れ、谷間で列を整え、魔王軍が架けた黒い橋へ向かっている。
そして橋の先――アルマリク側には、橋頭堡として築かれた野営地の存在も確認できた。
黄狐は目を細めた。
「なるほど。線じゃなくて、穴なのね」
補給線ではない。
出入口がある。
敵は、瘴気門から兵を吐き出している。
黄狐は進軍速度、部隊規模、兵種の並びを頭に叩き込んだ。
「正面の黒盾だけじゃない。後続もかなりいるわね」
初日で終わる戦ではない。
これは、押し寄せる波だ。
止めなければ、何度でも来る。
*
赤鬼は北北西へ回っていた。
火の匂いがした。
鉄の焼ける匂い。
油と瘴気が混じった嫌な煙。
川沿いの低地、岩場の陰に、簡易の鍛冶場があった。
ゴブリンたちが忙しなく動いている。
ふいごを踏む者。
鉄板を運ぶ者。
黒盾の縁金を打ち直す者。
投石器の金具を調整する者。
粗末だ。
だが、数が多い。
戦場で壊れた装備を、その場で直している。
置き場としては都合がいい。
水は近く、岩場が風を遮り、丘が外からの視線を隠す。
だが、低い。
流れを変えられれば、真っ先に沈む場所でもあった。
赤鬼は口元を歪めた。
「へぇ……鍛冶場まで持ち込んでやがる」
燃やしたくなるものが、山ほどあった。
木材。
油。
布。
火薬めいた臭いを放つ壺。
火を入れれば、よく燃えるだろう。
「……火を入れるなら、今が一番うまい」
だが、手は出さない。
クロキリの命令は守る。
ここで燃やせば、敵は警戒する。
赤鬼は鍛冶場の位置、規模、逃走経路、風向きを記憶した。
「後で潰す候補、ひとつ追加だな」
*
一時間後。
四つの影は、再び地下拠点へ戻った。
木遁で作られた机の上へ、各自が見た情報が積み上がっていく。
松明の火が揺れていた。
クロキリは短く言う。
「報告」
最初に口を開いたのは、クロキリ自身だった。
「瘴気門を確認した」
赤鬼の目が細くなる。
「やっぱりか」
「そして――やつがいた」
黄狐の表情が変わる。
「誰?」
「ラズール」
赤鬼が、わずかに身を乗り出した。
「……もしかして、例のラズールか?」
クロキリは短く頷く。
「おそらくな。一瞬だった」
黄狐の声が低くなる。
「ということは……」
「魔王軍のゼイン配下がいる」
地下拠点の空気が、少し沈んだ。
ゼイン。
道化の仮面をかぶった、掴みどころのない斥候。
狂気と諧謔を混ぜたような存在。
前回の戦で、確かに撃退はした。
だが。
クロキリは静かに言う。
「前回、ゼインは退いた」
短い沈黙。
「だが、本気ではなかっただろう」
黄狐が目を伏せる。
「遊ばれていた可能性もあるわね」
赤鬼が吐き捨てる。
「胸糞悪ぃ話だ」
「四人で踏み込めば、ただの犬死だ」
クロキリの言葉に、誰も反論しなかった。
次に黄狐が報告する。
「丘裏から兵が湧いてる。補給線じゃない。瘴気門で直接送り込んでるわね」
地図に小石を置きながら続ける。
「黒盾の後ろにも後続部隊がかなりいる。初日だけで終わる数じゃない」
赤鬼が続いた。
「北北西に鍛冶場。ゴブリンどもが黒盾と攻城兵器を修理してやがる」
赤鬼は地図の一点を指で叩いた。
「……正直、見てるだけってのが一番きつかったぜ。火の気がして、指が疼いた」
その指先に、小さな火花が一瞬だけ散る。
「ぶっ壊すなら、あそこが一番効く」
「今はまだだ」
「分かってるよ」
最後に、青鬼が地図の北東を指した。
「川」
一同の視線が集まる。
青鬼は敵拠点のすぐ脇に、小さな線を引いた。
「拠点を囲む」
さらに、その線の上に、短い黒線を重ねる。
「黒い橋。敵が架けた」
その線は、アルマリク側へ向かっていた。
黄狐が顎に手を当てた。
「……水が使えるなら、やりようはある」
赤鬼が言う。
「飲み水に毒でも入れるか?」
「そんな効率の悪いことはしないわ」
黄狐は川筋に指を滑らせながら、わずかに笑みを浮かべた。
「水攻め」
赤鬼が眉を上げる。
「は?」
「鍛冶場、攻城兵器、黒盾の修理場。全部、低い場所に寄せてる」
黄狐の指が地図上を滑る。
「上流を塞いで、流れを谷へ落とす。そうすれば、あの窪地は水を逃がせない」
青鬼が短く言う。
「流路を変える」
「ええ。鍛冶場は止まる。車輪は沈む。黒盾の修復も遅れる。兵が立つ足場も泥になる」
赤鬼の口元が吊り上がった。
「水攻めってやつか。嫌いじゃねぇ」
クロキリは黙って地図を見下ろしていた。
川。
谷。
鍛冶場。
黒い橋。
敵の配置。
瘴気門。
ラズール。
敵の仕組みが、少しずつ見えている。
だが、真正面から潰すには戦力が足りない。
ならば、仕組みを壊す。
「青鬼、黄狐」
二人が顔を上げる。
「水攻めは任せる」
クロキリは淡々と告げる。
「時間をかけていい。確実にやれ」
青鬼が頷く。
「了解」
黄狐が薄く笑った。
「こういうの、嫌いじゃないわ」
次に、クロキリは赤鬼を見た。
「赤鬼」
「おう」
「黒い橋を落とせ」
赤鬼の目が、楽しげに細くなる。
「補給と退路を切るってわけか」
「違う」
クロキリは地図上の黒い線を指す。
「敵が自ら架けた進軍路だ。あれを落とせば、敵は川を越えてアルマリク側へ進めない」
赤鬼の表情から、わずかに笑みが消えた。
それがただの補給線ではなく、攻勢そのものを支える橋だと理解したのだ。
「だが、あそこには海軍大将ガルドがいる」
地下の空気が、わずかに重くなる。
ガルド。
海を支配する巨躯のリザードマン。
真正面からぶつかれば、影が四人束になっても勝ち目は薄い。
クロキリは赤鬼を見た。
「やつが出陣するまで辛抱しろ」
赤鬼が指先に小さな火を灯す。
「そっちは任せろ。派手にやってやる」
黄狐が呆れたように言う。
「派手にしすぎないでよ」
「黒い橋を落とすのに地味も派手もあるかよ」
クロキリは最後に、自分の位置を地図の上へ置いた。
「私は潜る」
赤鬼が眉を寄せる。
「また単独かよ」
「潜伏しながら見る」
少しだけ間を置く。
「間引けそうなのは、間引く」
黄狐が静かに言った。
「無理はしないでよ?」
「犬死はしない」
赤鬼が鼻で笑う。
「その言葉だけは信用してる」
クロキリは地図を畳んだ。
地下空間に、短い静寂が落ちる。
誰も迷っていなかった。
やることは決まった。
黄狐は川筋へ視線を落とす。
青鬼は無言のまま立ち上がる。
赤鬼は指先の火を消し、にやりと笑った。
「ようやく仕事か」
クロキリは、四人を見渡した。
「それでは、早速取りかかる」
一拍。
「何かあれば連絡しろ」
そして――。
「散」
次の瞬間。
四人は、それぞれ別の闇へ溶けるように姿を消した。
松明の火だけが、地下に静かに揺れている。
その頃――。
アルマリクの城壁では、まだ誰も知らない。
翌朝、始まる表の戦いの裏で。
すでに、もう一つの戦いが静かに始まっていたことを。
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