83.亡失
港町クナートは町の中央に正円形の広場があり、そこから十字に走る大通りはこの町を4つの地区に分けている。
北には港と灯台。戦神ケルノスの神殿、ケルノス信者の多い戦士や騎士の宿舎。
南は宿場、豊穣の女神エルテナの神殿、墓地や畑(主にエルテナ神殿が管理)、孤児院、更に南に進むと貧民区スラムがある。
西は大きな川を隔てて賢者の学院、及び智慧神ティラーダの神殿、賢者・学者の宿舎。
東は貴族区があり、高台の上には至高神アウラス神殿、及びクナートを治める領主エルヴィン・フォン・ルック伯爵の館がある。
町の中央には広場が、その中心には鐘楼と噴水がある。常であれば様々な露店が軒を連ね、吟遊詩人が詩を歌い、燥ぎ回る子ども達や楽しそうな笑い声、活気のある商人の声で彩られていた。
妖魔が町の南門と西門から侵入し始めている現在、戦う力を持たない一般市民は鐘楼の周りに集まり、その周囲を引退した冒険者達を中心に、初級冒険者や若手の自警団団員が護衛に当たっている。――そして、守られている側に孤児院の人々や子ども達、守る側に春告鳥の翼亭の店長や店員も加わっている。
キャロルの指示で南門へと続く道の入り口へやって来たソフィアは、周囲を警戒しつつも、何か武器になるものは無いか目を動かす。――すぐに建物と建物の間に外掃除用と思われる箒を見つけた。無断で借りる事に後ろめたさを感じたが、手ぶらよりは何か得物があった方が、万が一の時に時間稼ぎにはなると判断し、少し迷ってから手に取った。
それから、箒を柄と穂先、どちらを上にして構えるべきかもたもたしていると、どこからともなく剣戟の音が――次いで怒号や獣の咆哮が微かに聞こえ、表情を凍り付かせて顔を上げた。
ソフィアの耳は一般人よりは良いかもしれないが、それでも十人並みだ。その彼女の耳に聞こえるという事は、それなりに近い距離と思われる。
(どうしよう……キャロルさんかアレクに報告した方が良い?)
箒を握り締め、西門への道を守ると言っていたキャロルを捜そうと無意識に目を動かすと、不意に背後から声が掛かった。
「おいおいお嬢ちゃん、何やってんだ。早く鐘楼の周りに集まれ」
「あとは大人に任せな!」
ぎょっとしてソフィアが振り返ると、壮年の男性が2人、各々手に長剣を持って立っていた。年嵩から考えるに、引退した冒険者だろうか。
彼らの方は振り返ったソフィアの容貌を見て驚いて目を瞠った。――手に箒を握って妖魔が侵入するかもしれない道に立つなど、どこのお転婆で考えなしな子どもだろう、と考えていた彼らは、目を疑う程の可憐な少女の姿を前にして困惑して眉を下げた。
「あ、危ないから、下がりな」
「そうだぞ。ホラ、そんな箒なんか置いて。ここは俺たちが守るから」
先ほどとは異なり、宥める様な遠慮がちな声だ。彼らとしては、見るからに華奢で幼気な少女に何とか安全な場所に引いてほしいという気持ちを込めての言葉だったが、急変した彼らの声音をソフィアは“子ども扱いされた”と誤解してむっと小さな口をへの字に曲げた。――それから、自分は子どもじゃない、と反論しようとした時――更に大きな争いの音が耳に飛び込んできた。
(――さっきより近い!?)
ぎくりと表情を強張らせ、箒を握る手に力を込めて音の方向を探る。ソフィアに声を掛けてきた男2人も聞こえたらしく、表情に緊張を走らせて長剣を構えた。
「どっちからだ?!」
「多分左だ! お嬢ちゃん、他の奴に声を――」
「妖魔だ! 誰か、こっちの支援を頼む!!」
被さる様に別の場所で声が上がった。ぎょっとして声の方を見ると、西門へ続く道の入り口に向かって数人の男達が駆けて行くのが見えた。反射的に、脳裏にそこにいるはずの藤色のローブを纏った妖精の姿が浮かび、ソフィアは青褪めた。
(キャロルさんは――?!)
意識が西側に向いていると、すぐ傍に立つ男達が慌てた様に口々に声を上げた。
「うわっ こっちもヤバいぞ!!」
「嬢ちゃん、下がれ!!」
その言葉が聞こえるや否や、ぐいっと力任せに肩を引かれてソフィアはよろめいた。勢い余って尻餅をつきそうになるのを何とか踏みとどまって堪え、狼狽して振り返って南門へと続く大通りを見る。――そこには見た事も無い妖魔と、それに応戦しながらもこちら側へ後退してくる冒険者達の姿があった。
「誰か道をふさげ!!」
「広場まで侵入させるな! 踏みとどまれ!!」
「魔術師か精霊使いは壁を――」
妖魔の咆哮の合間に叫ぶような指示が飛び交う。反射的に、そして無意識に、ソフィアは戦う冒険者一団の中に焦げ茶色の頭髪を探す。――しかし、当然ながら見つける事など出来なかった。そうこうしている間に、広場の中央を守っていた人々も手に武器を持ちこちらへ向かって走って来る。
「ソフィア! お前は鐘楼周りの護衛に回れ!」
厳つい投げ斧を手にした春告鳥の翼亭の店長がすれ違いざま強い語調で言い、そのまま彼女の横を駆け抜けて妖魔と冒険者の混戦の渦中へ飛び込んでいった。目の端に映る鐘楼の周りには恐怖と不安で恐慌状態の人々が、周囲を護衛していた冒険者や自警団の者達に「行かないで!」「ここで私達を守って」と縋りついている様子が見えた。引き留められている方は一般人を力任せに振りほどくわけにもいかず、必死で手を離す様に宥めている。
突然の事に、ソフィアの足はその場に縫い留められたかのように動かせない。頭では何とかしなくては、邪魔にならない様に下がらなくては、と考えるのだが、思考も上手くまとまらず、彼女は顔を歪ませた。
「“地中に住むものよ、虚空へ手を伸ばし彼の者の行く手を阻め”!!」
周囲の喧騒を切り裂くように凛とした声が上がった。その言葉が言い終わるや否や、鐘楼近くの一角で土煙とチラチラと光る粒子が舞い踊り、真っ直ぐに西門へと繋がる道の入り口へ向かって流れ込んだ。直後、路地の入口をふさぐように地面が鈍い音を立てながら見る見るせり上がり、大人の背丈ほどの土壁が出来上がった。
壁が出来上がるのとほぼ同時に、先ほどの土煙の発生地点から軽やかな足取りで一人の女性が躍り出て、焦りを隠せない声を上げた。
「キャロル!!」
彼女は声高く良人の名を呼ぶと、そのまま真っ直ぐに土壁の方に駆けて行く。
(アレク……!)
声にならず、鐘楼に背を向け一目散に走っていく彼女に気を取られ呆然と固まっていると、すぐ脇から「どけ! 邪魔じゃ!!」と鋭い声が上がり、同時に鐘楼の方へ強い力でぐい、と押しのけられた。その勢いで前方に向かってたたらを踏む。漸く我に返って声の方を振り返ると、今までソフィアの立ち竦んでいた場所には、首を振って淡い金の長い髪を邪魔そうに背に流す妖精の女性が立っていた。矢が尽きたのか、弓を捨てて細剣を構え直している。
「足手纏いは引っ込んでおれ! 目ざわりじゃ!」
振り向かずに言い捨てると同時に、彼女は目に見える一番近くの妖魔へ素早い身のこなしで美しい髪を靡かせながら斬りかかって行った。
その姿を目で追い視線が行きついた先で、初めてソフィアは間近で妖魔と冒険者達が繰り広げている戦いの凄まじさを目の当たりにした。現役の熟練冒険者がメインで切り込み、凪ぎ払う。魔法を使える者は補助魔法で冒険者の攻撃や防御を助け、妖魔の動きを阻害する。または強力な魔法攻撃を放つ。人間や妖魔の入り乱れる戦いの中には、紅色の鎧や濃紺色の頭髪も見え隠れしている。
(――シンは?!)
卒然と脳裏に彼の顔が浮かび、立ち竦んだままソフィアは箒の柄を握りしめて目を凝らした。その時、背後から悲鳴が上がった。慌てて振り返ると、鐘楼の周りに固まる人々に翼を持った影――鳥にしてはやけに大きい――が上空から襲い掛かろうとしていた。恐怖に慄く人々の中に孤児院の子ども達の姿を見て、ソフィアは頭が真っ白になった。気が付くと手にした箒を穂先を上に構えて駆け出していた。
「やめて……っあっちにいって!!」
夢中で叫び、力任せに闇雲に箒を振り回す。ソフィアの剣幕に押された――とは到底思えないのだが、翼を持つ妖魔と思わしき影は、向かってくるソフィアに気付くと、箒を避けるように2度、3度と宙を舞い、そのままどこかへと飛んで行った。
(え、うそ、追い払えた……?)
肩で息をしつつ、ソフィアは箒を手に辺りを警戒した。すると、左から切羽詰まったような声が上がった。
「ソフィアさん! ご無事ですか?!」
顔を向けると、手に農作業用と思わしき鍬を構えへっぴり腰のアトリが、青い顔でソフィアの傍にやって来た。修道服のベールは既に脱げ、はしばみ色の頭髪が露になっている。修道服の肩口の白い布地は土で汚れており、彼女自身、肩で息をしているのを見るに、あちこち走り回っていたのだろう事が推測された。だが、それでも彼女は表情や声には疲労などおくびにも出さず、ソフィアの全身を怪我がないか素早く確認しながら労わりの言葉を口にした。
「大丈夫ですか?」
「へ、平気……」
「そうですか……良かった」
ほっと安堵し、アトリは表情を和らげると胸を撫で下ろした。それも束の間、すぐに別の場所から複数の悲鳴が上がり、2人はほぼ同時に声のした鐘楼の方を見た。そこでは怯えきった人々が肩を寄せ合い顔色を失って震えていた。彼らの視線の方角を辿ると、先ほどまでソフィアがいた南門に向かう大通りの入り口が、そしてそこで何とか妖魔を食い止めようと武器を振るう冒険者達が目に飛び込んできた。
「食い止めろ!!」
「援護頼む!!」
「壁を――」
妖魔と人々の戦いの合間に断片的に聞こえる声。西門入口の土壁前にいた一部の冒険者、自警団の者が気付いて走り出す。ソフィアも箒を握りしめて向かおうとするが、慌てた様にアトリがその細い肩を引き留めた。
「危険です! ソフィアさんはここで皆さんを――」
だが、その言葉を言い切る事は出来なかった。西門付近で断末魔に近い絶叫が上がったのだ。弾かれた様にアトリが駆け出す。まるで怪我人がどこにいるのか見えているかのように迷う事無くある一点に向かうと、彼女は祈りを捧げる様に胸元で両手の指を組み、その場に跪いた。
「――“豊穣の女神エルテナ様、御身の慈悲をどうか傷つきし者へお与えください”」
柔らかなアルトが言葉を紡ぐと同時に、彼女の身体が淡く白光を帯びる。直後、その光が一筋、地面に蹲る男性に向かって伸びた。それでは終わらず、次々と光の筋が彼女から伸び、そこかしこの冒険者達の身体を包み込み、あっという間に傷を癒した。圧倒的な回復の光に、冒険者達は一気に力を得た。
「行くぞ!! 我に続け!!」
戦神神殿神官戦士団のカルロス・ジアン団長の銅鑼の様な声がどこかから響く。直後、冒険者達、自警団の者達は鬨の声を上げて妖魔の群れに突撃を掛けた。一層高く上がる咆哮に耳を刺す剣戟の音、様々な気合の声、土と――妖魔と人間、どちらのものとも知れない血の臭い。間近で繰り広げられる熾烈な争いに、ソフィアは硬直したまま動けずにいた。
「ソフィアさん、下がりましょう。ここは危険です」
いつの間にか戻って来たアトリが、鐘楼の方へ下がろうとソフィアの手を引いた。大分無理をしたのか、彼女の顔には疲労が色濃く表れている。その顔を見たソフィアは何か言いかけて僅かに口を開くが、結局何も言わずに頷き、素直に従った。
鐘楼周りに戻ると、そこには地面に座るアレクと、その傍らに座り、彼女の肩を借りてぐったりと項垂れるキャロルがおり、ソフィアは目を瞠って絶句した。彼女が来た事に気付くと、アレクは顔を上げて苦笑した。
「あー、大丈夫大丈夫。怪我したんじゃなくて、ちっと力を使いすぎてグロッキーになってるだけ」
ったく、加減が利かないんだよこの馬鹿は、と呟く彼女が夫に向ける眼差しは、安堵と愛おしさの混ざった温かいものだった。
「それより、南門の方は大丈夫か? 随分やり合ってるみたいだけど」
キャロルの頭を肩に乗せたまま、アレクはソフィアを見上げて眉を顰めた。だが、ソフィアは戦況を全く把握していない。チラリと横に立つアトリに目を向けるが、彼女も申し訳なさそうに眉を下げて小さく首を横に振った。
「……分からない」
「そっか」
アッサリと頷くと、アレクは長い睫毛を伏せて何やら口の中で呟いた。ふわり、と彼女の栗色の猫っ毛がゆるやかな風に吹かれた様に柔らかく動く。その空気の流れはソフィア、アトリの間をすり抜け、南門方面へと向かう路地へ向かった。思わず目で追おうと視線を動かすが、当然ながらそこには何も見えない。
しばらく経つと、アレクは瞼を上げた。
「…………うん、大分片付いたみたいだ」
「ほ、本当ですかっ?」
食いつく様にアトリが前のめりになると、アレクは相好を崩した。
「ああ。怪我人は結構いるみたいだけど、みんな命に別状はないみたいだ」
「~~っ良かったぁぁ」
気が抜けたのか、へなへなとアトリがその場に座り込んだ。ソフィアも心の内側では安堵しつつ小さく息を吐き出した。
* * * * * * * * * * * * * * *
程なくして、南門方面の路地から冒険者、自警団の人々がぞろぞろと中央広場に戻って来た。シアン、ネア、春告鳥の翼亭の店長、シェラ――外にも見知った顔が続く。
(シンは?)
無意識に彼の姿を捜して、ソフィアは辺りを見回した。――しかし、目当ての彼の姿は一向に見当たらない。胸騒ぎを覚えてソフィアは顔を強張らせた。その時、少し離れた場所から彼の名を呼ぶ声が上がった。つい目を向けると、孤児院の女性――ミアが妖精の女性と話している様子が見えた。
「シンさんは? シェラ、シンさんはまだ戻ってないみたいだけど、大丈夫?」
「落ち着け、ミア。なぁに、ヤツは殿を務めているから遅れておるだけじゃ。妖魔も片付いたし、問題ない」
「本当?」
「もちろん本当じゃ。でなければ、みんなぞろぞろと帰ってなど来んじゃろ。あやつはカルロスやギルバートと共に残党がいないか最終確認しておるだけじゃ。――まぁ、隅々まで我らで確認したのだから、おるわけはないのだがな。念の為じゃ」
肩を竦め、敢えて軽い口調で説明するシェラに、ミアは安堵した様に微笑み、それからそわそわと西の方を見ると意を決した様に口を開いた。
「だったら私、迎えに行くわ」
「そんなに急がずとも、すぐに来る。ここで待っておれば良いじゃろ」
「でも、お疲れだと思うし、それに、シンさんの事だから、私達孤児院の皆を心配してるはずよ。だから、私達は大丈夫って、早く伝えてあげたいの」
言うや否や、ミアは覚束ない足取りで南門方面の路地へと駆け出した。
「全く……ミアはシンの為なら火の中水の中、じゃな」
彼女の背中を見守りながらそう呟いたシェラの表情が柔らかい様子からすると、南門から侵入した妖魔はもう冒険者や自警団の手によって殲滅済みと思われた。シェラの今までの動向から考えれば、少しでも危険が残る場所であればミアや孤児院の子ども達を近づけないはずだ。
――しかし、理由は分からないが、ソフィアの脳裏では危険を知らせる信号が激しく明滅していた。
(……なに?)
困惑したままソフィアは思考を動かした。
(どうしてこんなに嫌な予感がするの? 南門からの妖魔は倒したっていうし、西門は――)
目を向けると、相変わらずビクともしない土壁が聳え立っている。クナートの道は大通り同士を細い小路が結んでいる。則ち、西門へ続く大通りと南門へ続くそれは小路でつながっており、冒険者達が土壁で阻まれた事で進路を変えて進もうとする妖魔を放置するはずが無いのだ。
(だったら、他に――何が)
そこかしこで、お互いの無事を祝う声や安堵の声が上がる中、ソフィアは1人だけ取り残されたかのように思考の中に沈んだ。周囲の声はソフィアの耳に入ったとしても、まるでどこか別の世界の言語の様で、彼女の脳内では意味を成さない音として上滑りしていった。
(妖魔は全部倒したって、さっきあの妖精の女の人が……――全部?)
自問自答しつつ視線を動かすと、南門の近くに転がった箒が目に飛び込んできた。――途端、ソフィアは戦慄した。――鐘楼の上空から襲い掛かって来た、翼を持つ妖魔は倒されたのだろうか? 倒されていないなら……――
「――待って! 駄目!!」
考えるより早く、ソフィアは叫ぶと駆け出した。
――時間がゆっくりと流れているような、奇妙な感覚だった。
ソフィアの声に驚いたミアが振り返る。
背後から「小娘が邪魔をするな!」と声が聞こえたような気がするが、構わず振り切って走った。
立ち竦んだままのミア。
冒険者や自警団の者達は、妖魔を殲滅したと信じて疑う者はおらず、安堵してか大きな声で互いの健闘を褒め湛え、談笑しており、誰も彼女たちに気付かない。
ミアの周りには、今や戦闘能力のある者を含め、誰もいない。
もどかしい思いをしながらも、ソフィアは必死で転がる様に走った。
その時、不意にソフィアの周囲が薄暗くなった。それは、夕暮れの優しい茜色ではない。何かで日の光を遮られたかの様な――そこまで考えてから、ソフィアはハッとして上空を見上げた。そこには、巨大な鳥の様な妖魔丁度翼を広げ、鋭い鉤爪を振り上げながら、ソフィアの真上を横切る様な形で、状況が分かっていないポカンとしたミアに向かって滑空していた。
間に合わない、と思った瞬間、ソフィアの脳裏に一つの言葉が閃く。
――“囮”
「きゃあぁぁぁあああ!!!」
「こっちよ!!」
恐怖で身を竦ませたミアの悲鳴と、その彼女に駆け寄りながら叫ぶソフィアの声が重なった。――迷う事無く妖魔は翼を羽ばたかせて急旋回すると、ソフィアへ向かって一直線に降下した。
前方からは怯え引き攣るミアの悲鳴、
「いやぁぁ―――」
背中からは聞き慣れた人々が口々に何か叫ぶ声。
「ソフィア――!!」
「ソフィアさん!!」
「ミア! 逃げるんじゃ!!」
「“風精霊っ――……」
そんな中、上空から迫りくる鉤爪を目前にして、ソフィアは呆然と立ち竦んでいた。
爪の一本一本はソフィアの片腕ほどの太さを持ち、その先端は鋭く尖っている。そんな細かなところまでくっきりと見えているにも関わらず、ソフィアは指先1本動かせないでいた。
振り下ろされる妖魔の鉤爪に、反射的にソフィアはぎゅっと瞼を閉じた。
“駄目かもしれない”、と頭のどこかでもう一人の自分が冷静に呟いた。
そのまま、ソフィアは己の身体に鉤爪が突き刺さる痛みを覚悟した。
しかし、予想に反して次に訪れたのは、――温かく力強い何かが、ソフィアの身体全体を包み込む感触。
――――ソフィア!!
彼女の名を呼ぶ、声が聞こえた。
――奇妙な静けさが訪れた。それは、やけに長く感じたが、実際は数秒だったのかもしれない。
「……ソフィア」
間近に聞こえた柔らかなテノールに、ソフィアはハッとして固く閉じていた瞼を開く。――すると、すぐ目の前に緑碧玉の色の瞳が柔和な光を称え、嬉しそうに彼女を見つめて相好を崩した。
何が起こったのか分からず、ソフィアは目を見開いてその瞳を見つめ返した。
――シン?
――何故シンが?
――妖魔は?
呆然としているソフィアに、シンはもう一度、万感の思いを込めて彼女の名を呼んだ。
「ソフィア」
呼びながら、彼は彼女を抱く両腕に力を込めて抱き締め、彼女の耳元で優しく語り掛けた。
「ソフィア、怪我はない? 大丈夫?」
その言葉に、何故か唐突に、得も言われぬ恐怖に襲われたソフィアは、シンに抱き締められるがまま、彼の肩越しにその背を見た。――そこには、深々と妖魔の鉤爪で穿たれた痕があり、深緑の外套には赤黒く染みが広がっていた。その染みが、ソフィアの視界に焼き付き、彼女は細く息を吸い、大きく一つ身体を戦慄かせると、そのまま硬直した。
背中の苦痛を表情に出さない様に細心の注意を払いながらも、シンは全身を強張らせたままのソフィアの顔を覗き込み、心配そうにその名を呼んだ。
「ソフィア?」
「あ……――」
彼の声が聞こえていないのか、彼女の綺麗に澄んだ淡い水色の双眸は大きく見開かれ、その小さな身体はガタガタと震えだした。
「シンさん!!」
「いやぁあっ 誰か助けて――!!」
「おのれ雑魚が――!!!」
「誰か傷の回復を――」
離れた場所から様々な声が上がり、妖魔の鋭い声や金属のぶつかるような音が弾けるが、ソフィアの耳にはそれらは一切入って来なかった。
代わりに響き、耳の奥に木霊するのは、己の内側から湧き出す記憶から零れた単語ばかりだ。
――忌まわしい
消せ
迷惑を掛けるな
邪魔
擦り切れてしまう
悲しむ
駄目
シンさんが可哀想
頭の中で断片的な言葉がわんわんと鳴り響き、ソフィアは震える両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと両目を閉じた。
「ソフィア!! ソフィア?!」
本能で異変を察知したのか、シンは背中の怪我をものともせず、彼女の両肩を抱いて焦った様に必死で叫んだ。
「僕が傍にいる――ずっとソフィアの傍にいるから!」
――そんな事はしないで欲しい、幸せを享受して欲しい、その権利があなたにはある、お願いだから、自分の幸せにちゃんと手を伸ばして、あたしの事はもう放っておいて――
血の気が引いて真っ白な顔で、ソフィアは顔を歪ませた。言葉は心の中で渦巻くだけで喉から先に上手く出てこない。懸命に“違う”と首を横に振る。しかし、シンは必死で己の気持ちを彼女に伝えようと、心の内を吐露した。
「大丈夫。ソフィアの事は、僕が、必ず守る! ――絶対に!」
その言葉は、ソフィアの胸を貫いた。
そして、彼女の中である一つの言葉がくっきりと鮮明に蘇った。
――“矛先を間違えてはいけないよ”
そうだ
シンが
あたしを
忘れない限りは――……
その直後、ソフィアの中で何かが弾け飛んだ。
「――ッあああああああああああああああああ!!!」
感情の爆発――否、暴発ともとれる悲鳴が、クナートの中央広場に響き渡った。その瞬間、シンも、中央広場にいた人々も、見えない強大な圧力に身体が吹き飛ばされた様な衝撃を受けた。
――ソフィア――!!!
最後に誰かが彼女の名を叫んだのが、聞こえた――気がした。
* * * * * * * * * * * * * * *
「っいた――いたたたたっ」
「あんな雑魚に背を向けるなど、何をしておるんじゃ! この馬鹿者が!!」
「本当ですわ!! 全く!! 命に別条がないから良いものを!!」
「とどめは俺がちゃーんと刺しましたからね! シンさん後でなんか奢って下さいよ!」
「良かった……良かった……うぅ、シンさん……」
(……――?)
どこからか聞いた事のある人々の声がして、南門へと続く道の入り口近くで小さく蹲っていたソフィアはのろのろと顔を上げた。
「あはは、ごめんね心配かけて……ミアちゃん、大丈夫だから泣かないで?」
「油断しすぎ! “精霊よ、彼の者の生命を言祝……がなくて良いから、適当に傷を癒せ!”」
「えー」
ゆっくりと上体を起こす。つい先ほどまでソフィアを腕に抱いていたシンは、ソフィアの背後の離れた場所におり、その周囲を見慣れた面々が囲む様に集まっている様だった。中心に座るシンが己の肩を回し、ぱっと笑顔になった。
「わぁ、怪我はすっかり治ったみたい! アレク、ありがとう」
「どーいたしまして! けど、ほんっと、しっかりしろよなー?!」
「うん、ごめんね」
笑い合う彼らの気配を背に感じ――何が起こったのか分からず、ソフィアは顔を向ける事が出来ずに恐る恐る髪で顔を隠す様に肩越しに振り返った。――近くには鳥形の妖魔が横たわってピクリとも動かない――どうやら息は無い様だ。
先ほど、シンの傷をかなり適当に精霊にお願いをして癒したアレクを、まぁまぁ、と宥めながら、彼女の夫がシンに目を向けて微笑んだまま小首を傾げた。
「シンさんほどの実力のある方が珍しいですね、背に傷を受けるとは」
「あはは、鷲獅子に小さい子が襲われたのが見えて、つい――あ」
言いながら、シンは離れた場所に座り込むソフィアの小さな背中を見つけて相好を崩した。
「おーい、大丈夫ー? 怪我は無かったー?」
(――え?)
まるで見知らぬ子どもに話しかけるような彼の声に、ソフィアは凍り付いた。
「うん? ……なんじゃ、どこの子じゃ」
「うーん、分かんない。最初孤児院の子かと思ったんだけど、銀の髪の子はいなかったよね。まぁ、どちらにせよ無事みたいで良かった」
「ってか、あのチビっこ、固まってるみたいだけどホントに大丈夫かー?」
「では、わたくしが見てまいりますわ」
「え、ネアさん行ったら逆に怖がらせぃでででででででで」
「あら、どうかなさいまして? シアンさん?」
「骨が砕k」
「おほほほほ……――あっ あらっ? ちょっと、どこに行くの? 1人で大丈夫?」
気が付くと、ソフィアはその場から逃げるように駆け出していた。ネアが心配そうに背後から言葉を投げかけた事に気付いてはいたが、――振り返って足を止め、目の前に現実を突きつけられる事が、恐ろしくてたまらず、ソフィアは振り切る様に懸命に足を動かした。




