81.魔の手
「おい、ソフィア! おいって!」
近くで聞いた事のある声がして、肩を揺さぶられる。ソフィアはハッと目を覚まし、――一瞬、自分がどこにいるか分からずに混乱した。呆然としているソフィアに対し、声を掛けていた濃紺色の髪をした黒ずくめの衣装を着た青年も目を丸くして、彼女の肩に触れていた手を引っ込めた。
「大丈夫かよ」
「……シアン?」
「おうよ。……なんだ、寝惚けてんのか?」
物珍しそうに首を傾げる彼から目を逸らし、ソフィアは周囲を見回す。――窓の外から明るい日差しの差し込む春告鳥の翼亭の店内だ。いつの間にか眠り込んでいたらしい。
(うそ……あたし、どれほど寝たの――?!)
動揺を隠せないソフィアの様子を見て、シアンは彼女の目の前に置かれた、ミルクが半分ほど残ったカップを手に取り、軽く匂いを嗅いだ。突然の彼の行動に、ソフィアは思わず赤くなりつつ声を上げた。
「! ちょ、ちょっとなに……っ」
「酒が入ってるな」
「……え」
「酒。――果実酒か、蜂蜜酒か……」
「はぁあ?!」
仰天したソフィアは、次いでカウンターの方をキッと睨む。だが、そこに店長の姿は無かった。狼狽えている彼女の反応を見たシアンは、目を丸くした後盛大に噴出した。
「ぶっはーーー! なるほど、お前、店長に一服盛られたな!?」
「人聞きが悪い事言うなぁぁあ!! そ、そんなに酒に弱いとは知らなかったんだよ!!!」
ガバァっとカウンターの影からアフロが飛び出してきた。どうやらソフィアが起きたタイミングで隠れていたらしい。因みに、これがソフィアの初めての酒になる。
(ミルクと甘さで気付かなかったわ……どうりで変な香りがすると思った)
苦い顔でシアンの持つミルクのカップへ視線を向けてから、ハタとして窓の外を見る。
「今何時?! 外はどうなっているの?」
「ああ、それな。今は日が昇って少しだから――大体6時前後か。夜に町の西門と南門に妖魔が出たっつーんで、騒ぎになってる」
「西門、と……南門の、妖魔は引いたの?」
「いや。一旦、門の外にまでは押しやれたが、完全には引いてない。どうもまた日が傾いてから仕掛けてきそうだから、町の冒険者は引退した者も含めて中央広場に集まる様にって自警団から指示が来てる。んで、手分けして冒険者の店を回ってたところで、俺がお前を見つけたって訳だ」
肩を竦めると、シアンはチラリとアフロ店長を見やった。すると彼は苦笑して肩を竦めた。
「つまり、俺も今度は招集ってこった」
「え、店長も?」
驚いてソフィアが声を上げると、アフロ店長は前掛けを外してからカウンターから出てきた。
「ああ。シンから聞いた事あるだろ? 俺も元は冒険者だからな。――まぁ、このまま店を開けてても、客である奴らはみんな中央広場に集まってて来ないからな。はぁー……行くしかねぇな、こりゃ」
「行かないと恨んだ現役冒険者から宿泊拒否をくらいかねませんからねー?」
「そいつぁ困る」
店長が笑って軽口を返すと、シアンはニヤリと笑い「じゃ、他も回るんで!」と言い残すと去って行った。
「いやはや、すまんかったな、ソフィア。温めてしまえばある程度酒の成分は飛ぶし、残ってても良い安眠剤になるかと思ったんだが……」
むすっとした顔でチラリと見ると、店長はすまなそうな顔で頬を掻いた。その様子は本心から詫びている様で、悪気があった様には到底見えなかった。
「……分かったわよ。でも、勝手に混ぜるのは良くないと思う」
「わ、悪かったって! 次からは言う!」
ぱんっと両手を合わせて再び詫びる姿に、ソフィアは小さくため息を吐いた。
アフロ店長と共に春告鳥の翼亭の外に出ると、草木にはまだ朝露が残っていた。そのまま連れ立って歩いていると、早朝にも関わらず人が多い事に気付く。大部分は見るからに冒険者だが、そうではない人々も混じっている様だ。夜明け前に冒険者の宿の人々が、戸外に出ない様に町の人には言って回ったはずなのに、何故――疑問に思いながら見ていると、隣を歩いていたアフロ店長が小声でどうしたのか問うてきた。少し迷ってから、ソフィアは違和感を口にした。すると、彼は顎の無精ひげを太い指で擦りながら「うーん」と考え込んだ。
「多分、町の人々の中でも不安がって、強い者がいる場所に行きたがる連中がいるのかもしれないな。ほら、前にクナートの伯爵令嬢が拉致された時があっただろう? あの時も、近場の宿から冒険者の店に、狙われやすいと思われた女性客が避難していただろう。あれと似た様なもんさ」
エイクバの人身売買組織によって、伯爵令嬢を含む数人の女性が拐かされた際を思い出し、ソフィアは小さく頷いた。となると、中央広場には冒険者達の他に、一般の町の人々も多少集まる事になる。そこにもし妖魔がやってきたら――そう考えて、ソフィアは表情を曇らせた。
「まぁ、恐らく夕方までに冒険者の宿で集まった一般人を分けて連れ帰って保護する、って流れになるだろうな……やれやれ、久しぶりに大暴れ出来ると思ったら、結局宿に缶詰めになりそうだな」
「……さっきは、いやいや招集されてる風だったのに」
「そりゃな。俺は引退して大分経つし、現役時代の勘が働くとも思ってない。何より、身体が動かんと思う。しかしな、頭で思っている程度と、現実はまた違う。多分、俺自身が想像しているよりも、冒険者としての身体能力は落ちてるはずなんだ」
歩きながら、店長はアフロ頭を掻いた。
「んで、実際にどんだけ身体が動くのかってのは、ぶっつけ本番じゃないと分からないってのが良くない。――自分一人の問題じゃあないからな。だから、引退した連中は全員、建物の内側で迎え撃つ形――まぁ、所謂“最後の砦”になるのが得策だ――と、頭では思っている訳だ」
静かに語る彼の横顔は、確かに熟練冒険者の片鱗を感じるものだった。
* * * * * * * * * * * * * * *
中央広場につくと、あまりの人の多さにソフィアは眩暈を感じた。アフロ店長も呆然と「こりゃすげぇ」とこぼしている。
「まずはシアンを見付けるか。おいソフィア、離れるなよ! 手ぇ貸せ」
「え、嫌よ」
「はぐれちまうだろ」
「子どもじゃないし」
「子ども扱いって訳じゃ……あ、そうだ! エスコートだ、エスコート!」
「必要ないわ」
「迷うぞ」
「町中ならどうとでもなるから」
「いや、しかしだな」
埒のあかない、そしてかなりどうでもいい攻防が続く。――その時、雑踏の中、背後からソフィアの耳に馴染み深いテノールが飛び込んできた。
「ソフィア!」
その声に、ソフィアの鼓動が跳ねる。しかし、その理由が分からず、彼女は己の胸を見下ろして困惑した。
そうこうしている間に、こちらに近付いてくる気配を感じる。近くに立っていたアフロ店長が「おっ シン! お疲れさん!」と呑気に声を上げて手を振った。――もう気付かない振りは出来ない、と観念して、ソフィアは振り返った。
尻尾を振らんばかりに顔を輝かせて駆け寄って来るシン。そしてその後ろには、孤児院の面々――離れていくシンの後を心細そうに目で追うミアと、彼女を守る様に立ち、こちらに苦々しい顔を向けているシェラの姿もある。その光景を目にした途端、ソフィアの身体は動けなくなった。
ソフィアとアフロ店長の前までやって来たシンは「良かった、目が覚めて」と至極嬉しそうに笑顔になった。呆れ笑いを浮かべてから、アフロ店長はシンの後方を目線で示した。
「何だ、孤児院の連中も一緒だったのか?」
「あ、うん。孤児院に戻ったら、ちょうど避難するって話になって」
「避難……エルシオンはなかなかの手練れだろ……って、そうか、引退しててもヤツも冒険者だからか」
「うん。……エルシオン院長は今でもたまに戦神ケルノスの神殿で試合をしてるみたいだから、孤児院に残るって訳には行かなかったんだ。シェラは元々が孤児院の人員じゃないし、現役冒険者だからね」
「成程ねぇ」
店長は苦笑した後、ふと何かに気付いた様に「あ」と声を上げた。それから立ち竦んだままだったソフィアを横目で見てからシンに声を掛けた。
「ほんじゃ、後はもう、シンに任せるわ」
「……え?」
「うん。店長、ありがとう」
ポカンとしたまま間抜けな声を上げたソフィアに気にせず、シンはしっかりと笑顔で頷いた。その対照的な2人の様子に、店長は笑いをかみ殺しながら雑踏の中へと消えて行った。
店長を見送った後、シンはソフィアの肩に手を伸ばした。だが、反射的にソフィアは身を引いてその手を交わした。少し残念そうに手を泳がせた後、シンは小首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
「ソフィア、身体は平気? 具合は?」
「問題ない」
「西門で、怪我とかしてない?」
「してない」
「ちゃんと休んだ? あっ ご飯食べた?」
「……今、そんな話をしている場合じゃないと思う」
愛想なく答えつつ、ソフィアは離れた場所にいる孤児院の人々の方へ少しだけ視線を向けて、しばし人を捜している様子で視線を彷徨わせる。少ししてから、彼女はシンを見上げた。
「……アレク、いないみたいだけど……会った?」
「うん。西門からはキャロルさんと一緒に戻ったから。その後、少しアレクを休ませたいってキャロルさんが院長に申し出て、今、孤児院の部屋で2人とも休んでいるよ。起きたらこっちに来るって言ってた」
「え、でもアレクは……」
「うーん、キャロルさんも結構渋ったんだけどね」
苦笑して肩を竦めるシンの様子からすると、舌戦の末アレクがキャロルに押し勝った、といったところだろうか。何だかんだ言って、キャロルはアレクに弱いのだ。そう、と頷いてから、ソフィアは再び孤児院の人々の方へ目を向けた。大人が10人程度、子どもは――二十数人だろうか。孤児院で人々を取りまとめていた赤みがかった茶色に僅かに白髪の混じった頭髪の男性――恐らく彼が院長なのだろう――と、シェラ以外の大人達は、皆強弱はあるが不安そうにしている。特にミアは両手を胸の前で握りしめ、頼りなさげにこちらを――否、シンの方をチラチラと見ている。
自分から言って良いものなのか、少し迷ったが、結局ソフィアはシンを見上げた。
「あなたは孤児院の人達の傍についていてあげて。……あたし、一応冒険者だから、これから何か仕事をする事になると思うし」
「僕も冒険者だから、これから仕事を請ける事になるよ」
「でも、熟練度が全然違うでしょ。担当する場は違うはずよ」
敢えてそっけなく言い放つが、シンは全くめげずに「ああ、それなら」とにこりと笑った。
「ソフィアは初級冒険者だから、戦う事になったとしても必ず熟練冒険者と一緒に組む事になる。だから、最初から近くにいた方が組みやすいでしょ」
「……どうしてあなたと組む事になってるの?」
「え、どうして?」
「どうしてって、……いや、だからあたしがどうしてって聞いて……」
「ん?」
「……」
“堂々めぐり”という嫌な予感を感じて半目になって黙るソフィアを、シンは不思議そうに見つめてからふわりと微笑んだ。
「ふふ、でも、元気そうでよかった」
「え」
「……何か、あったのかと思って」
妙に勿体ぶって、シンは言った。それが何を指すのか、考えあぐねてソフィアは返答出来なかった。黙り込んで俯くソフィアの旋毛を、シンは嬉しそうに見つめた。そしてソフィアは、何となくだが、その温かな視線を感じて不思議な感覚に陥った。
(――シンとはそんなに離れていた訳じゃない……はず、なのに……“懐かしい”、なんて、おかしな話しだわ)
沈黙が訪れるが、それは嫌なものでは無かった。お互い手を触れてはいないのだが、お互いの存在がすぐ近くに感じられ、それが心地よいのだ。
「おい、シン!」
鋭いソプラノが間近で聞こえ、ソフィアはハッとして顔を上げた。シンは既に声の主の方を向いて「どうしたの? シェラ」と呑気に答えている。
「おぬし、孤児院に戻ってから碌にミアと話してないじゃろ。少しは傍にいてやれ」
「ん?」
「その小娘が心配なら、私がここに残る」
「いや、ソフィアを連れて行けば良いだけだよね? 行こう、ソフィア」
にっこりと微笑んで、シンは有無を言わせずにソフィアの手を取った。シェラが反論する前に、そのままスタスタと歩き出す。あまりの突然の展開に唖然としていたソフィアは、一拍置いた後、慌てて突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待って。あたし、行くとは言ってない」
「まぁまぁ、セアラちゃん……あと、レックスとオースも、かな。……子どもたちも心配してたから、ね?」
歩みを止めずにシンはにこやかに答えた。――何故か、少年たちの名を呼ぶ部分だけ声が低かった気がするが、気のせいかもしれない。困惑気味に握られた手を見る。――ソフィアの手よりも2回りは大きく、線が細い様に見えてごつごつと骨ばった指で、とても温かかった。それを振り払う事が出来ず、――そして、子ども達が心配しているという言葉を聞いてまで拒絶する事も出来ず、ソフィアは黙ってシンに従って孤児院の人々の所までやって来た。
「ソフィア!」
「ソフィアーっ 心配したんだよー!」
近くまで来て、孤児院の子ども――セアラ、レックス、オースの予想外の歓迎ぶりに、ソフィアは思わずたじろいでしまい、無意識にシンの手を握り締めた。一瞬、吃驚した様に目を瞠ったシンは、硬直したまま子ども達の歓迎を受けているソフィアの姿を見下ろして相好を崩した。その姿を見たエルシオン院長は「え、ホントに大丈夫なの?」とぶつぶつ謎の言葉を発している。その脇をすり抜けて、両手を胸の高さで握りしめたミアが「シンさん」と躊躇いがちに声を掛けてきた。振り返ったシンは、微笑んで小首を傾げた。
「あ、ミアちゃん。えっと、シェラから聞いたけど、何か話しがあるの?」
「え?」
「この馬鹿もーん!!」
シェラが飛んできてシンの後頭部をベチリと叩いた。
「そうじゃないじゃろ! この阿呆が! 鈍感めが!」
「いたっ え? 何で急に責められてるの、僕……」
「や、やだ、シェラさんったら」
顔を真っ赤にして狼狽えるミアを見て、シンは再び不思議そうに首を傾げる。――その様子を子ども達に囲まれながら目にしたソフィアは、何となく居たたまれない気分になり、自然と握っていた手を離した。
(……あたしがいると邪魔かもしれない)
シンの過保護ぶりは相変わらずの様子だし、どうやら体調を含めてソフィアの事をいつものごとくアレコレと心配もしている様だ。この調子では、ミアやシェラと落ち着いて話しが出来ない様に思えて、ソフィアは誰にも気付かれない様に気を配りつつ、彼らから数歩、距離を取った。
「ソフィア、どうしたんだ?」
近くで幼い少年の声がして振り返ると、短く切ったツンツン頭の少年が頬を紅潮させてまじまじとこちらを見ていた。隣で少女が「だから、見すぎ……」と顔を片手で覆ってため息を吐いている。どういう状況なのか分からず、ソフィアは曖昧に小首を傾げて言葉を探して視線を彷徨わせた。
「あ! も、もしかして、疲れたか? おれ、おぶろうか? こう見えて、力あるんだぜ!」
「いえ……」
断りかけて、ソフィアはふと目を丸くした。目の前には意気込んで背中を見せるレックスの姿がある。それが、いつかのテアレムへ向かう道で見せたシンの姿に重なり、ソフィアは自分でも気付かない内にほんの僅かに表情を綻ばせた。
「!」
「!!」
「うっ……わぁ」
子ども達が三者三様に顔を赤らめている事に気付き、ソフィアは訝し気に小首を傾げた。そこへ、いつの間にか近くへやって来たシンが良い笑顔で会話に割り込んできた。
「疲れたなら僕が」
「いえ、いらないわ」
被せるように冷たくキッパリと言い切ってチラリと彼の顔を見上げる。それから、小さく眉を顰めてシンの袖をつんつんと引いて屈む様に促した。シンはちょっと吃驚とした後、すぐに柔らかな笑顔になると素直に身を屈ませた。そこへ顔を寄せて、ソフィアは小声で文句を述べた。
「そういうの良いって何度も言ったわよね……ってそうじゃなくて、あたし、やっぱり席を外しているわ。あの……ミア、って人や、シェラ? も、話したい事がたくさんあるみたいだし。もし仕事で組むことを考えてなら、後でまた合流しましょう」
「駄目だよ。僕の見えない所に行っちゃ」
「子どもじゃないんだから大丈夫よ」
「子どもじゃないから言ってるんだよ。……いや、子どもでも駄目か。うん。駄目だ」
何やらブツブツと意味の分からない事を呟いてから、シンは口を尖らせた。訳が分からないソフィアは、こちらを煙に巻こうとしていると思い、むすっとした表情で更に苦言を呈そうと口を開いた。
「何を言って……」
「おい、シン」
再び苛立たし気な高い声がソフィアの言葉を遮った。声の方を見ると、いつの間にかシェラが近くまでやって来ており、そのままシンに噛みつき始めた。
「おぬしはじっとしておれんのか! すぐにちょこまかちょこまかと!」
「んー、別にそういうつもりじゃないんだけど」
明らかに不機嫌そうなシェラに対して、全く意に介さずにシンは微笑んで肩を竦めた。
「ソフィアの近くから離れたくないだけ」
「ちょ」
「ほほう」
(だからその誤解を生みかねない保護者発言やめてって何度言ったら……!!)
目に見えて冷ややかな表情を浮かべるシェラに、ソフィアはどう補足の言葉を口にすべきか迷った。しかし、隣で子どもたちが「やっぱりシン兄ちゃんが一番の騎士だ!」「かっこいい!」「守護騎士みたい!」と顔を輝かせてはしゃいでいる。
(……ナ、騎士??)
意味が分からないソフィアは、頭の上に疑問符を幾つも浮かべながら子ども達の方を振り返ってしまい、気がそれてしまった。
チラリとソフィアの姿を横目で見た後、シェラは鼻を鳴らしてシンの胸に人差し指を突き付けた。
「そんなにソフィアソフィア言うならばな、シン。まずはミアに感謝するのが先じゃろう」
「? ミアちゃんに?」
予想外の言葉に、シンはきょとんと目を丸くした。その反応に若干気を良くしたらしいシェラは「そうじゃ、そうじゃ」と鷹揚に頷いて続けた。
「西門から戻ったその小娘が、自分が助かったのが分かった途端にとっとと自分の宿に帰るとぬかしおったのを、ミアが説得して引き留めたんじゃ」
「え」
「おぬしが帰って来た時、心を砕いていた相手がいなかったら心配するだろう、と――あの大人しくて優しいミアが、お前の為に一生懸命にな!」
鼻息荒く話すシェラからシンは視線をミアの方へ動かした。それに気付いた彼女は、黒い瞳を潤ませながらはにかんで両手で頬を覆った。
「あの、私……シンさんが悲しんだらいけない、って、ただ必死で……」
「そうだったんだ……色々ありがとう、ミアちゃん。世話をかけちゃってごめんね」
「いえ、あの……出過ぎた真似をしてしまってないか不安だったんですけど、良かった」
シンが身体ごとミアの方へ向き直り丁寧に頭を下げると、彼女は恐縮した様に両手を己の胸の前で握り締め、ふるふると首と両手を横に振って「やだそんな、顔を上げて下さい」と慌てた様に口にした。彼が顔を上げると、今度は彼女が照れたように俯き、もじもじと髪を弄り始めた。
一方、傍らでそのやりとりの一部始終を耳にしていたソフィアは、ひどく居心地の悪さを感じた。
――確かに、シェラもミアも、間違った事は何一つ言っていない。その言葉通りだ。ならば、これで居心地が悪く感じるというのは、自分で自分が悪い事を改めて感じ、恥じているからなのだろうか。それとも、それを、シンに知られたくなかったという、バツの悪さからなのだろうか。いや、己の考えの足りなさを暴露され、惨めに感じているからだろうか。
(……分からない……)
自慢げにミアの所業を口にするシェラも、はにかみながら真っ直ぐにシンに寄り添うミアも、彼女たちの言葉を受け止めてソフィアの代わりの様に彼女たちに礼を述べ、ソフィアの代わりの様に詫びの言葉を口にするシンも……――そのどれもが、蛇行や迂回をしながらも、ソフィアの胸に小さな棘の様にチクリチクリと刺さり、まるで心に血が滲んでいくようだった。
(……息苦しい)
――シンの傍は居心地が良いと思っていたのに何故こんな急に。
唇を噛んで俯くと、間近で囁くような歌うような声が聞こえた。
「矛先を間違えてはいけないよ」
「!」
息を飲んで周囲を見まわすが、声の主はどこにもいなかった。戸惑ったように立ち竦んでいると、セアラがこちらへやって来た。
「ソフィア、本当に平気? 具合が悪いなら、院長先生に言って座る場所を探してくるよ」
「え? いえ、問題、ない……」
「本当?」
「え、ええ……」
黒髪を短く切り揃えた利発そうな少女は、そっか、と相好を崩した。
「あ、そうだ。あなた、眠ってたから知らないと思うけど、私はセアラ。孤児院でも一番の年長よ。困った事があったら何でも言ってね。私に何もできない場合でも、院長先生やシン兄ちゃん、ミア姉ちゃんがいるから、安心して」
「ぼ、僕はオース。よろしくね」
「あーっ 何勝手に自己紹介してんだよ! あ、おれ! おれはレックス! って、言ったっけ」
2人とソフィアの間に割り込んで興奮気味に名乗るレックスに、ソフィアは「ええ、西門で」とぎこちなく頷いた。すると、真っ赤になった彼は頭を抱えて悶えた。
「そうだったー! くっそダッセェー……って、何笑ってんだよオース! セアラ!」
「いやー、レックスらしいなって思って」
「ほーんと、アンタって相変わらず!」
ぱっと花が咲く様に笑う子どもたちを見て、ソフィアは戸惑いながらも冷えていた心がほぐれていく気がした。胸元に手を充てると、じくじくと痛んでいたそこは既にいつもの鼓動を刻んでいた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「クナートの冒険者諸君! そして、諸先輩方! お集まり頂き感謝する!!」
中央広場に朗々とした声が響き渡った。驚いて声の方角を見ると、立派な口ひげを蓄えたがっしりとした体躯の男性が、急ごしらえで作られた台の上に立っていた。
「カルロス団長だ!」
「レックス、知ってるの?」
「オース、知らないのかよ! 戦神神殿お抱えの神官戦士団のカルロス・ジアン団長だぜ! すっげぇ! あの腕見ろよ! でっけぇ!」
「ちょっと、レックス! 静かにしなきゃ駄目よ」
「セアラの方がうるさいじゃんか」
「何ですってぇ!?」
「2人とも、しーっ」
結果的にオースが2人を窘めると、彼らは納得いかないといった表情ながらも黙ってお互いそっぽを向いた。いつの間にか近くに戻って来たシンが3人を見て微笑まし気に表情を和ませると、そのまま驚くほど自然にソフィアの隣を陣取った。
「クナート伯 エルヴィン・フォン・ルック様のご指示により、我ら冒険者、そして自警団が妖魔討伐に当たる! 貴君らの活躍を大いに期待する!!」
その言葉に、僅かに不満げなどよめきが起こる。その理由が分からず、困惑して辺りを見回していると、ぴったりと傍に寄り添っていたシンがひょいと屈んでソフィアに耳打ちをした。
「クナートの戦力は大きく分けて3つ。1つは僕達冒険者。2つ目は自警団、そして、3つ目は至高神神殿の神官戦士を主に構成された騎士団」
その言葉に、西門でのやり取りを思い出す。門を守る守護騎士と自警団の団長は、確かに全くの別の組織であり、且つあまり仲が良いようには見えなかった。思案を巡らせるソフィアに微笑んで、シンは続けた。
「自警団は各神殿の神官戦士や冒険者で組織されているけど、騎士団は貴族階級の人と至高神神殿の神官戦士が上層部にいて、実働隊は貴族の若い世代や至高神神官戦士で構成されているんだ。貴族は騎士団を5年勤めあげれば勲章を貰えて、それを持っていると武芸を嗜んだ人物として人気が出るんだ」
「人気……?」
「夜会とかに勲章をつけていくと、女の子達の来る量が桁違いらしいよ」
「え……意味が分からない」
「あはは、僕もあんまり分からないけど、勲章持ってる=騎士団出身=強い=すごい! ってなるみたい」
「……何でそんなに詳しいの」
「ネアちゃんから聞いたんだよ」
笑いながら答えてから、シンは視線を壇上のカルロス団長へ移し、そのまま身を屈ませたまま話しを続けた。
「まぁ、つまりね。カルロス団長の話しでは、冒険者と自警団が町を襲う妖魔を手分けして迎え撃つって話しだったから」
「ええ」
「騎士団はどうしたんだ、って事」
「あ」
目を瞬かせて、ソフィアは周囲を見回した。
「恐らく、騎士団は貴族区――つまり、東区を重点的に守るつもりなんだろうね。あそこの門は西門よりも大きくて頑丈だし、高い塀もある。高台もあるから地形的に有利に戦う事も出来るから、一番安全かな」
「じゃあ、町の人達もそっちに避難をさせた方が良いわよね」
「いや、受け入れる屋敷は少ないと思うよ。領主の館は高台の至高神神殿の更に奥にあって限られた人物しか入れないし……一般の貴族階級の人達は、まぁ、階級はあっても、普通の人だから」
身も蓋も無い事を言ってシンは顎に手を充てて首を傾げた。
「騎士団でまともに戦える人は実働隊と上層部の一部の神官戦士だけだし、そう考えると東区を守るのもギリギリだと思うから……まぁ、仕方ないかな。逆に、僕達で西と南を守れば済むって事なら、範囲が限られているからこっちも助かるしね」
「……」
うーん、と呑気な声を上げながら語る内容は意外とドライで、ソフィアは微妙な顔をして黙った。それに気付いて、シンは眉を下げて更に声の音量を落とし、ソフィアの耳元で問うた。
「冷たいと思った?」
「ひゃっ え……え?」
あまりに近い位置からのウィスパーボイスに、むず痒くなってソフィアは飛びのいてから目を白黒とさせた。リアクションが面白かったのか、シンは思わずといった態で破顔した。揶揄われたと思ったソフィアは赤くなって眦を釣り上げた。
「ちょ、ちょっと! 笑わないでよ! 何なのよ!」
「ふふ、ごめん……でも、……駄目だ、やっぱりソフィアかわいい」
「はぁ?!」
更に目くじらを立てるソフィアに、慌てた様にシンは「しーっ」と自分と彼女の唇に、片手ずつ人差し指を当ててウィンクした。
「ごめん、揶揄ったんじゃなくてね……我ながら冷たい言い方だったかなぁ、と思って」
表情を改めて、シンは小声で釈明した。
「でも、西門での戦闘……自警団の団長さんもメンバーもいたし、一応門を守る守護騎士もいたし……勿論、僕も、加えてキャロルさんまでいてくれたから、そんなに苦戦するとは思ってなかったんだけど、実際はかなり危なかった」
「え」
シンの言葉に、ソフィアは顔色を失った。すぐに気付いて、彼は安心させる様に彼女の頬を優しく撫でた。驚いて固まっている為か、今回は逃げられる事無く、その白磁の頬を撫でる事が出来てシンは内心で安堵した。
「日が昇って自警団の応援も入った時に、一旦引いてくれて助かったよ。連戦で大分みんな疲れていたし、圧倒的に回復できる人が少なくてさ。……一応僕も神官ではあるんだけど、そう何人も回復できるほどの精神力が無いから、戦闘が長引くと不利なんだよね」
苦笑したまま、シンはソフィアの頬に片手を当てたまま顔を寄せた。
「……今回はその失敗も踏まえて体制を整えていく事になるから、そこまで苦戦はしないと思う。……それに、何があっても君は僕が守るから、安心して」
「あたしじゃなくて、あなたがまず守るのは孤児院の人達や町の人よ」
「ううん。……ソフィアを守れなければ、他の皆を守る事は僕には出来ない。だから、僕の傍を離れないでね」
鼻と鼻が触れ合いそうな距離で見つめてくる碧の瞳には、ソフィアの水色の瞳が映り込んでいた。不思議な既視感の中、ソフィアは強い意志を宿す瞳に気圧されて、ただ頷く事しか出来なかった。
――そうこうしている間に、港町クナートの中央広場に集まった冒険者達は、妖魔討伐の編成、準備を開始した。
しかし、町の外では静かに、だがゆっくりと、妖魔達が再び町の門へと近づき始めていたのだった――




