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第1話:薔薇の庭園と、届かぬ光

 王都グランドールの春は、息をのむほどに美しい。

 白亜の城壁に囲まれた宮廷の広大な中庭には、色とりどりの薔薇が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って優雅に流れていた。かつては戦火に怯えたというこの国も、今や争いのない平和な時代を迎えている。

 そんな平和な王国の象徴とも言えるのが、王宮の治安維持を担う『王国騎士団』だ。

「よし、これで薔薇園の南側の見回りは完了、と……」

 十六歳の新米騎士、フェリックス・ローゼンバーグは、まだ体に馴染みきっていない銀色の軽装鎧の胸当てを軽く叩き、小さく息を吐いた。

 大剣を背負うにはまだ少し細い体躯だが、仕立ての良い青い外套マントだけは、一人前の騎士の証として誇らしげに揺れている。

 フェリックスの任務は、もっぱらこの美しい庭園の巡回と、王宮に赴く要人たちの道案内だった。血湧き肉躍るような魔獣との戦闘など、この平和な王都には存在しない。だが、彼にはそれ以上に心臓に悪い「脅威」が存在していた。

「――あら? そこにいるのは、騎士様かしら」

 鈴の音を転がしたような、透き通った声が静寂を破る。

 フェリックスの背筋が、文字通り鉄板を入れたかのように硬直した。ゆっくりと振り返ると、生い茂る薔薇のアーチの向こうから、一人の少女が姿を現したところだった。

 純白の法衣に身を包み、陽の光を浴びてきらめく金髪を揺らす少女。

 彼女こそが、この国で知らない者はいない『光の聖女』――フローラ・ベルシュタインだった。

 聖女とは、神殿に伝わる奇跡の力『聖なる癒やし』を扱い、人々の病や傷をその慈愛の手で取り除く特別な存在のことだ。そのあまりの神聖さから、普段は一般の騎士が気軽に言葉を交わせるような相手ではない。

「は、はっ! 王国騎士団、新米団員のフェリックス・ローゼンバーグにあります! 聖女様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……!」

 緊張のあまり、フェリックスは裏返りそうな声を張り上げ、完璧な角度の敬礼を捧げた。内心では、心臓が早鐘を打っている。

(どうしてここに聖女様が……!? だ、駄目だ、僕みたいな見習いに毛が生えたような新米が、こんな間近でお姿を拝見するだけでも恐れ多いのに……!)

 フェリックスは密かに、フローラに淡い恋心を抱いていた。

 しかし、相手は雲の上の聖女であり、自分はしがない下級騎士。声をかけるなど、滅相もない。いつもは遠くの礼拝堂へ向かう彼女の背中を、ただ見つめることしかできないのが日常だった。

「ふふ、そんなに硬くならなくても大丈夫ですよ、フェリックスさん」

 フローラは、ふわりと花が咲くような満面の笑顔を浮かべた。

 その温かく、すべてを包み込むような眼差しを向けられ、フェリックスは頭が真っ白になる。

「私のことは、どうか普通に『フローラ』と呼んでくださいな。いつも遠くから、一生懸命に私や神殿の人たちを見守ってくれているの、ちゃんと知っていますから」

「そ、そんな、滅相もありません! 僕などはただ、己の職務を全うしているだけで……!」

 フェリックスは慌てて首を横に振った。頬がカッと熱くなるのが自分でも分かる。

 その時、一陣の強い春風が、二人の間を吹き抜けた。

 ひらり、と。

 フローラが手に持っていた、繊細なレースの刺繍が施された白いハンカチが、風にさらわれて宙を舞う。それはひらひらと躍るようにして、フェリックスの足元の草むらへと落ちた。

「あ……」

 フローラが困ったように声をあげる。

「お、お任せください!」

 フェリックスは、ここぞとばかりに俊敏な動きで膝を突き、そのハンカチを丁寧に拾い上げた。土で汚れていないことを確認し、両手で恭しく差し出す。

「どうぞ、聖女様……あ、いや、フローラ様」

「ありがとうございます、騎士様」

 フローラがハンカチを受け取るため、小さな手を伸ばした。

 その瞬間、ほんの僅かに、彼女の指先がフェリックスの手の甲に触れた。

 ビクリ、とフェリックスの肩が跳ねる。

 フローラの指先は、春の陽だまりのように柔らかく、そして温かかった。

「……ふふ、あなたの手、とても温かいですね」

 フローラはハンカチを愛おしそうに胸に抱き寄せると、少しだけ恥ずかしそうに上目遣いでフェリックスを見つめた。その瞳には、神聖な聖女としての顔ではなく、一人の十五歳の少女としての、純粋なきらめきが宿っていた。

「あ、ありがとうございます……恐悦、至極に存じます……」

 フェリックスは、もう自分の声がどこから出ているのか分からなかった。心臓の音がうるさすぎて、耳の奥がカッカと熱い。

 身分が違う。立場が違う。

 そんなことは痛いほど分かっている。触れてはならない、届かぬ光。

 それでも、彼女の優しい笑顔と、肌に残った確かな温もりは、少年の未熟な胸の奥底に、消せない恋の火を灯すには十分すぎるものだった。

 白亜の王宮に流れる、じれったくも愛おしい恋模様。

 鉄壁を誇る王国騎士団の、長く甘い春の幕が、今静かに上がろうとしていた。



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