第三十七話:誰が愚か者だろうか
「愚かな者ども」
静かにそこに響いたのはロサードの声だった。ヤンは二人が気になったが視線を外さずに睨み続ける。ローレンシアの傷は気になるが、決起がここでまた失敗に終わるのだけは避けたかった。この状況では、ローレンシアはともかくも決起が成功――つまり、ロサードを倒すことが出来なければ自分たちの命もないだろうことを感じていたせいもある。
「貴様が最も愚かだ」
動悸を堪えながらだと、随分と押し殺した声が出る。憎しみに満ちたともいえる声で、ヤンは続けた。
「濁った目でしか物が見えねえのか、てめえのことばっかり考えてンじゃねえぞ!」
悲痛なその叫びを、ヒューイは迷う思いで聞いていた。ローレンシアの傷は深く、早く医者に見せなければいけない状況だ。鍛えられている彼女だからこそもっているが、楽観は出来ない。
しかし現状でここをあとにして医者に向かうことをローレンシアがどう思うか、がヒューイにとって大切だった。彼女を守るために戦うと以前テリーに言ったことは事実だが、それは彼女の肉体も精神も、のつもりだった。身体を救うために例えばここをヤンに任せて撤退する選択もあるが、それは彼女の精神は救えない。ローレンシアを救うためには――決起を成功させることだ、とヒューイは手早く止血を終えて立ち上がる。
ヤンが目で彼女の容態を問うてくるのがわかって、ヒューイは真顔でじっとそのままヤンを見つめた。大丈夫だと頷くことも、駄目だと首を振ることもしなかった。その表情で、恐らくヤンは感じ取るだろうと信じていた。
「私がこの国の王だ。王が国のことを考えて何故悪い?」
ロサードの声は冷ややかだった。その視線はヤンと、それからゆっくりと立ち上がったヒューイに向けられる。至近距離でロサード王と初めて対峙したヒューイはその瞳を随分と空虚だ、と感じた。現在の自分にどこか満足しきれていない、そんな印象を僅かに受ける。
しかし考えている余裕はなかった。ローレンシアの傷は一刻を争う。ヒューイがするりと引き抜いた剣に、ロサードの視線がほんの少しだけ、移った。
「……愚か者たちだ」
その言葉が、ヤンとヒューイがロサード王の声を聞いた最後になった。構え直しもせずにロサードはタンと床を蹴ってヤンに向かう。その手の短剣がヤンの上着を切りつけ、肌にうっすらと傷をつける。そして軽やかに着地するとヤンの振る剣を避けてそのまま足のばねだけで今度はヒューイへと飛びかかる。攻めようとしていた剣を咄嗟に防御に回すも避けきれず、ヒューイの頬を掠めた。
まるで舞のようなその一連の行動に、ヤンもヒューイも思わず目を奪われる。早かったわけじゃなかった。なのに――何故か動けなかったのだ。ただただ、ロサードの手になる刃が自らを傷つけるさまを見守っていたような、そんな不思議な感覚。とろりと固まりかけた空気に包まれているような、そんな気分だった。ロサードだけが、その妙な抵抗に縛られずやすやすと動いてるような。
ヒューイより早く、ヤンの身体が動く。それでもロサードの動きにはかなわない。ヤンの大きな剣は空だけを切り、その勢いでバランスを崩した彼の背中――既に紅く染まっている――にロサードの剣が深く切りつけるのをヒューイは動かない身体をもどかしく思いながら見ていた。その後、彼の大きな身体が床に倒れこむことも。それは、ヤンが『アンシアン』を立ち上げてから初めてのことだった。
「――ヤン!」
その名前を呼ぶだけが、ヒューイにとっては最大限だった。ロサードの刃はそのままヒューイの喉元を狙ってくる。避けるにはあまりにも早い動きで、首に一文字の傷がつく。そこが切れたか切れていないかを確認する間もなく次の太刀がヒューイの左胸を狙う。やっとのことでヒューイの剣がキィンとロサードの剣を弾き、その軌跡をほんの少しだけ逸らす。
しかし切っ先は空を切ることはなく左胸から上へとずれ、左肩にぐさりと嫌な音がする。同時に鉄分の臭いがぷんと鼻を刺激した。痛みは、そのあとからだ。
ざくり、と剣が抜かれる音までもがご丁寧にヒューイの耳に届く。生温かい血の温度が左肩から胴へ向かって伝い落ちた。痛みというよりは気が遠くなるようなふわりとした感覚に包まれる。
「ヒュー、イ!」
搾り出すようなヤンの声が無かったら恐らくは、ヒューイはそのまま意識を手放していただろう。けれどヤンの声は彼の魂を揺さぶるかのようにヒューイを覚醒させた。甘い白い靄に包まれることを拒んだヒューイはその次の瞬間から鼓動と一緒に刻まれる痛みに耐えることになる。
ヤンが立ち上がれたのが奇跡のようなものだ。大きな背中は赤にしか見えず、大きく呼吸をしながらも恐らくはその上下によって生ずる痛みに耐えているのがわかる。それでもよろりとロサードに剣を向ける気概はさすがだった。ヒューイはそれをぼんやりと眺めつつ、自分がローレンシアを抱えて走ることが出来るかどうかを疑っていた。
ロサードは剣を空で軽く振り、その銀色を染めた血潮を振り捨てる。その表情はまったくなく、ただ緑の瞳がヤンたちを見据えているだけでそこには憎しみも悲しみも感じられない。そしてよろりと揺れる身体を起こそうとする二人に対してそれ以上剣を振るおうとはしなかった。
ヤンは、自分の身体が今どんな状態なのか良くわかっていた。次にこちらから仕掛ければ恐らく命は無いだろう。そして――ロサードの様子からすればどうやら奴さん、オレたちに止めを刺す気は無いようだ――そう考えて、次の行動をとる。
「ヒューイ、ロージーを連れて行け」
言うとヤンは剣をロサードへと向ける。さっき目の前で倒れて以来、ローレンシアは微動だにしていなかった。ヒューイもヤンの問いになんとも答えなかった、つまり危険な状態には変わりないということだ。チャリ、と柄の鳴る音にヤンは意識して剣を持ち上げる。格好だけにしか過ぎないが、それがヤンの思いだった。
ローレンシアを抱きかかえたヒューイは、彼女の蒼白な顔を見つめる。がくがくと震え始めてしまいそうな左腕に力を込めればどくりと肩から新しい血液が零れ落ち、ローレンシアの足までも紅く染める。
王座の間を出ると、あとからヤンが駆けて来る音が聞こえた。ヤン、貴方だってもうそんなに動けない筈じゃないか――とヒューイは薄れそうな意識を掴む傍ら、彼らを守って階段の近衛兵へ切りかかるヤンの血に染まった背中を見つめていた。