第三十八話:託された任務
ヤンが退路に選んだのは西階段だった。まだフォローメンバーがいるのを知っていたこともあり、それはあとから考えれば非常に冷静な判断だったと言えるだろう。事実、ヤンたちの壮絶な姿を目にした男たちは何かを言われるまでもなく撤退のルートを取り始めた。
「ヤン、頼みがある」
ヒューイが低い声で言ったのは、予備メンバーが兵をバラけさせてくれていたおかげで安々と城敷地を出ることは出来たが、追っ手に追われているときだった。
「あとにしろ」
「ヤン」
ヒューイの声はいつもどおりで、ヤンはそれが嫌な予感だと感じていた。ローレンシアとヒューイはある意味似たもの同士だ。きっと彼女が今ここで意識があったなら、やはり彼と同じようにいつもどおりの声で言うだろう――『別行動を取らないか』と。
「別行動を取ろうと思う」
ヤンの予想と寸分変わらない言葉がヒューイから発せられる。聞きたくない、と眉を顰めるがヒューイは淡々と続けた。
「私たちが追っ手を引きつける。だから貴方は」
「っざけるな!」
たまらず、ヤンは叫んだ。その行為は傷を疼かせたが、それよりも何よりもその先を聞きたくなかった。
「オレにまた裏切れってか?! オマエたちを囮にして、オレが生き延びろってか!」
聞きたくなかった言葉、そしてそれが本当に意味することを自ら口にすることで、相手に言われるよりもまだ、良かった。強く拳を握って、ヤンは激情に耐える。
「その、通りだ。――すまない」
ヒューイの声は憎らしいほど冷静だ。もしも自分が奴を殴ってやる体力が残っていたらここでブチのめしてやるのに、とヤンは奥歯をぎりりと噛み締める。
「貴方もわかっているだろう」
何をだ? 何をわかれって言うんだ? ――ヤンはその言葉の真実を知りながらも、心では受け入れきれるはすも無かった。わかるわけがねえ、オマエたちがもう保たねえだなんて、オレは絶対に信じねえ。二度と裏切るような真似なんざ――
「貴方には生きてもらわないと困るんだ」
「オマエらだって同じだっつーの!」
「貴方に頼みたいんだ。あの子のことを」
ヤンは一層歯軋りをする。視界が滲むのは血が目に入ったからか、と思ったがそうではないようだった。悔しさがヤンを支配して、握り締められた拳が白くなるほどだった。
「てめえのガキならてめえで面倒見ろ」
「貴方と――テリーには感謝しても仕切れない。私に、最後まで彼女を守らせてくれ」
ヒューイの言葉は温かかった。この期に及んでも悲壮感はなく、ただいつもの彼のままだった。何かを覚悟しているというよりは、ただ今日別れるだけのようなそんな軽さを含んでいる。それがヤンにとっては酷くローレンシアに似て、見えた。
そうだ、オマエが愛した男だものな、ローレンシア。
幼き頃より、まるで妹のように一緒に育ってきた彼女を、ヤンは最も愛していた。女性として、戦士として、仲間として、そして家族として。
ちらりと振り向くがヒューイに抱かれたその横顔は蒼白で、いつもの意志の強さを象徴する黒い瞳は見ることが出来ない。輝くような金に近い茶色の長い髪が紅く汚れて揺れていた。
恐らく、その瞳が意志を持っていたらきっと今のヒューイと同じことを言うだろう、とヤンは思った。そしてヒューイも彼女を守るために――それは主に彼女の意思を、だ――それに同意するだろう。その二人の意志に自分が打ち勝てるかを考えれば、答えはすぐに出る。
「……わかった」
「ありがとう」
ヒューイはそこまで、温かい声音で告げるとするりと事務的に変わる。
「この少し先、右手に廃屋がある。私たちはそこへ逃げ込む」
「……オーケイ」
ヒューイの考えていることがなんとなくわかったが、ヤンは意識的にそれを考えないようにした。これはある意味『任務』だ。オレに課せられた、ローレンシアとヒューイからの『任務』。――随分と厳しい指示だけどな、とヤンはこみ上げそうになる思いを堪えて駆け続けた。背中の傷など、今となってはどうということもない。
右手前方にそれらしい廃屋が見える。ヤンはルートを左側へと変えながらひとつだけ心に誓っていた。後方の気配が徐々に右へとずれ、追っ手を引き付けるためにがさがさと必要以上に音を立て始める。その物音がそろそろ届かなくなるころだと思ったとき、ヒューイの声がヤンの耳に、届いた。
否、その声はローレンシアのもののようにも聞こえたが、ヤンは振り返るまいとの誓いを破らなかった。
「あの子に伝えてくれ、愛していると――ハロルドに」




