4 盗まれたもの
「睡蓮の絵だけ、俺の邸に残してある」
明日また来るという言葉通り、真夜中の来客は陽が昇ってしばらくしたころ、再びオリバーレス邸を訪れた。
男は二十代半ばほどだろうか。艶のある黒い髪を、綺麗に整えてある。瞳は湖を思わせるような碧色。
執事から、ミゼール子爵がいらっしゃいましたと報せがあった。堂々と正門からやってきたヒルベルト=ミゼールは、画廊に盗賊トゥルバが入ったことを見舞いたいといけしゃあしゃあと述べたのである。
流行の上着を羽織り、手には表通りの焼き菓子。
昨日、私は画廊を訪れて素晴らしい作品たちを拝見したのですが、それが被害にあわれたと聞いて急いでやって参りました。
丁寧で紳士的なその態度に、侍女たちからため息が零れる。オルガは思わず笑ってしまった。ヒルベルトも、そんなオルガににやりと口の端を上げる。そして、訝しげなミランダ夫人と三人のお茶の席が、侍女たちの手ですぐさま整えられた。
盗賊トゥルバに入られた画廊のことは、陽が昇ってすぐに王都中へと広がっている。
もぬけの殻となった画廊でゼネット卿が悲鳴を上げたのが始まりだ。毎朝、彼が邸にいるときはお気に入りの画廊へ顔を出すことが日課。機嫌よく画廊へ行ったら、一面剥き出しの壁。ナイフで突き刺さったトゥルバのカード。
すぐさま呼ばれた警備兵たちが、画廊の中と邸の敷地内を調査している。昼時になる今でも、まだ邸の中は騒然とした空気が漂っていた。
盗賊トゥルバ――ヒルベルトを通した客間は、あたたかな陽射しがやわらかく差し込み、外のざわめきはとても遠くにあるように感じる。画廊と似たような空気だ。
紅茶と、ヒルベルトの持ってきた焼き菓子をテーブルに並べると、オルガはミランダ夫人に一言、トゥルバさんですと紹介した。
それだけで十分だったようで、何もかもを心得た様子のミランダは大きなため息を零すと、困ったように微笑む。まるで、子供の悪戯を見つけたときの母親の顔だ。
いらっしゃるのが少し遅かったのではなくて? なんて、いつもの彼女らしいすまし顔で言われれば、さすがのヒルベルトも苦笑を浮かべて申し訳ございませんと潔く頭を下げた。オルガがおかしそうに声を上げて笑い、そうしてようやく茶を勧めるまでにいたった。
紅茶を一口味わったヒルベルトは、とさっそくとばかりにオルガの身の上話を所望してきた。
手短に話をして帰る、という雰囲気は微塵も感じられない。気が済むまで居座るつもりだろうと察し、オルガはミランダを窺ったが、夫人は興味なさそうに肩をすくめて焼き菓子に舌鼓を打っているだけ。手助けする気はないらしい。
相変わらずだなあと義母に苦笑し、そしてたぶんこれがヒルベルトにとって本題なんだろうなとぼんやりと思いながら、それでもオルガは順を追って話して聞かせたところだ。
「大丈夫。侍女たちがこちらの様子を気にしていますが、旦那様たちは近くにいらっしゃいません」
耳をそばだてるようにしたオルガは、ほっと息をついてそう笑った。
始めからずっと付近の様子は気にしていたので今さらではあったが、口に出さねばオルガ以外には伝わらない。
オルガの生い立ちを聞いたヒルベルトに、あえてそう口に出してから今度はオルガが画廊の絵の話題を挙げたわけだ。画商たちのことはすでにゼネット卿もおさえているはず。ヒルベルトはあの絵たちをどうしたのだろうか。
「他の絵は、国の画商は通さずにもう隣国まで送ってしまった。その方がいいだろう」
「そのことで、ミゼール子爵にご迷惑がかかることは……」
「ないだろうな。そのための義賊だ、市井に恩を売って困ることはない。今まで培った人脈は【悪い貴族】に素直に従わない、そういうことだ」
皮肉げに笑ったヒルベルトに、オルガはほっと胸を撫で下ろす。
今まで尻尾を出すことなく過ごしているのだから、それなりに彼にも方法があるだろうけれど、金銭とは違い盗品となると足がつきやすいので心配したのだ。
「睡蓮の絵は、オルガのお気に入りね」
唐突に、今まで黙ったままだったミランダが紅茶を傾けながらヒルベルトを見つめた。
唯一彼の自宅に残した絵画。
きょとんとしたオルガと、表情を載せないままのヒルベルトの視線が貴婦人へと向かう。何かまた企んでいるのだろうか。ミランダは自身がおもしろそうだと思ったことを、相手にふっかけることが多々ある。瞳を笑わせている夫人に、オルガは苦笑を浮かべて首をかしげた。
「そうです。ルノン作の、私が勝手に飾っていたやつ。それが、どうかしました?」
「ええ、でもねオルガ。どうかしたのは私ではなくて、ミゼール子爵よ。――有名なトゥルバさんたら、絵だけでは気がすまないなんて本当に欲張りですこと。そろそろ本題に入ったらいかが?」
当然のようにミランダがヒルベルトにそう話を振ると、ヒルベルトは降参とでもいうように手を上げて苦笑した。
「まったく、オリバーレス夫人はたいした慧眼をお持ちでいらっしゃる」
「まあ! お褒めのお言葉として受け取っておきましょう」
わざと驚いたような顔をして、くすくすとミランダは笑った。
オルガはそれに驚いて目を見開く。同じ時間、この場所にいるはずなのに、すっかり蚊帳の外に出てしまったらしい。
ミランダとヒルベルトの顔を交互に見たオルガに、ミランダが肩をすくめて紅茶のカップを置いた。
「あなたはまだわかっていないのね、オルガ。ミゼール子爵にとっては、あなたの生い立ちのお話なんて、ただの話題の一つにすぎないわ。賢いくせに、そういう点であなたは鈍いから困ったものです」
よけいにわからなくて、今度はヒルベルトに目を移すと、彼は苦笑してオルガに向き直った。碧色の瞳は昨晩の鋭いものではなく、にわかに、やわらかさを帯びている。
自然と背筋を伸ばしたオルガに、ヒルベルトは小さくため息を零した。
「夫人の言う通り、いや、その前に俺が言ったわけだが、あの睡蓮の絵は俺の住まいであるミゼール家の別邸に置いてある」
「はい」
「さすがに、あれだけをここへ戻すわけにもいかないからな。――あれは俺も気に入った。そして、それ以前にお前のものでもある。盗んだ手前妙な話だが、見たくなったらいつでも訪ねてくるといい」
「ありがとうございます」
思わぬ言葉に、オルガは嬉しくて頬を緩ませて微笑んだ。そんな気を遣ってくれるとは思わなかったのだ。
にっこりと頬を赤らめて笑ったオルガに、しかしヒルベルトは決まり悪げな表情で、前髪を後ろへ流して苦笑した。なにか、おかしいことを言ってしまったのだろうか。オルガはその顔を見てまた笑みを潜める。
ヒルベルトは言葉を捜す素振りを見せて、口を開こうとするのだけれど結局のところ噤んでしまった。
昨日から受けている彼の聡明な印象とは少し違って見えて、オルガは不安になり首をかしげる。もしかしたら、知らぬうちに気に障ることでもしてしまったのかもしれない。
黙っていたミランダが耐えかねたように笑った。
「さすがのミゼール子爵にも、むずかしいことがございますのね。私がずっとここにいるのも野暮ですもの、子爵様さえよろしければ、オルガ。あなた、今からそのお気に入りの絵でも拝見させていただいたらいかが?」
ミランダの助言は、オルガにはやはり真意を読み取るには難しいものだったが、ヒルベルトにはそうではなかったようだ。
彼はその言葉に背を押されたかのように、流れるような優雅な動作で立ち上がると、椅子に座って瞬いているオルガへ恭しく手を差し伸べた。
「お言葉に甘えまして。――よろしかったら、ご案内します」
真剣な眼差しがまっすぐと向けられる。
今までと打って変わった紳士の振る舞いに、オルガはやはり目を丸めた。
差し出された手と、碧色の瞳とを交互に見て、戸惑いつつもオルガはそっと手を重ねる。並んで立ったオルガの腕を取って、彼は扉へと促した。
「夕刻には、必ずお返しいたします」
「ええ、お願いしますわ。それでは、いっていらっしゃいオルガ」
「は、はい」
満足げに微笑んだミランダに、それでもきちんとうなずいてからオルガはヒルベルトについて部屋から出る。添えられた腕は優しかった。
オルガも盗賊から盗んでしまうなんてやるわねえ。
ぱたりと閉められた扉の向こうで、ミランダがそう微苦笑を零したことは、オルガでも気付くことはできなかった。