1
ノートの上に文字が躍るのを、瑠璃はどこか冷静に見つめていた。
鉛筆が滑ると文字が生まれる。
文字は文章になり、やがて物語となる。
それは青い少女で、青い季節で、青い世界。
そして、青の惑星へ。
(おかあさん)
瑠璃は心の中でその名を呼ぶ。
薄暗い部屋の中で文字が一つの形になっていくごとに、瑠璃の心音が大きくなっていくようだ。
(お母さん、物語の続きを書いてるよ)
母の細い手がノートをめくる音が、聞こえた気がする。
真剣な目線も、母の感動する顔も、全て瑠璃の記憶の奥深くにある。
文字を刻むたびに、鎖をちぎるような指の痛みを覚えた。
(書いてるんだよ)
それは瑠璃を縛っていた鎖をちぎる、その作業に他ならない。
最後の一文字を刻んだ瞬間、瑠璃の指が震えた。
アパートの窓を開けると、どこからか別れの歌が聞こえてくる。
しかしそれは不思議とこれまでより美しい音色に聞こえた。膝に触れる猫のぬくもりもいつもより熱く感じる。
「あ……もう、昼に……なってる」
空はすっかり昼の日差しである。
瑠璃は呆然と、背後を見る。そこには広げたノート、書き損じた紙のくず、鉛筆と消しゴムがごろごろと転がり、空っぽになったコップがすっかり乾いて静かにそこにあった。
菊川が戻してくれた荷物は未だ段ボールの中なので、最低限のものだけを取り出して書き始めたのだ。
(たしか、始めたのは……夕方……昨日の?)
瑠璃はボロボロの室内を眺めて、やがてくしゃりと笑う。
「……おかしい」
一度笑うと自分でも驚くほど連鎖して、やがて腹を抱えてよじれるように笑ってしまう。
こんなに時間を忘れて夢中で書いたのは、子供の時以来だ。
家が揺れるほどに笑った瑠璃は大の字に寝転がり、息を整え茶色い天井を眺めた。
「書き終えたんだなあ……あ!」
気がつくと子猫たちが、文句を言うように瑠璃の膝に爪を立てる。
「ごめん、ご飯だ! おなかすいたよね」
瑠璃はふらつく足で慌ててて猫の餌を探し出し、子猫たちに与える。ついでに立ったまま水を飲むと、体の芯まで水が染み渡っていくのがわかった。
まだ頭がぼんやりとしている。腕はしびれ、指の感覚はない。
しかし振り返れば、確かにそこに書き上げた小説が……『青の惑星』が、そこにある。
震える手でそれを持ち上げ、瑠璃はノートを撫でた。
(誰かに応援されてるような……そんな気がしたんだ。これを書いてる時)
瑠璃が書いている間、すぐそばで、すぐ耳元で誰かが応援してくれていた……そんな気がする。
心が揺れる、暖かい。そんな声。
瑠璃はノートを抱きしめて、目を閉じる。
こんな感情は初めてだ。胸の奥が苦しく、息ができない。
悲しい、つらい、苦しい。それ以外で息が詰まるのは初めてのことだ。
(聞こえてきたのはお母さんの、声だった)
母の声はたしかに聞こえていた。
(……それと)
しかし同時に、蒼の声も聞こえていた……そんな気がするのだ。
「……」
ノブにまで伸びた蔦を剥がし、ずしりと重い扉を開けると、蒼の明るい顔が瑠璃を見る。
「あれ、また蔦が這ってました? 今朝剥がしたんだけどなあ」
今日も目を引く美しい青色の髪が、青色の照明の中で揺れていた。
「蒼く……正宗、くん」
「本名で呼ばれるとくすぐったいですね」
この男が瑠璃にあの手紙を書いた人物だ……と、知ったのは、さらわれた時のこと。
あの真摯な手紙の文字が、瑠璃を7年生かした。それは確かな事実だ。
真実を知ったとき、瑠璃は震えるばかりでお礼さえ言えなかった。
「でも、ちゃんとしたことを話す時は、やっぱり本名の方がいいのかな、って」
「なにか飲みますか?」
「いや。ちょっと待って。シラフのうちに、あの、ちゃんとしたこと……」
ぎこちなく椅子に座り、机に出された水を一口含む……顔を上げれば、蒼がカウンターの向こうで、いつもと同じ笑みを浮かべていた。
「ちゃんとしたこと、って?」
「あ……りがとうって、言えて無くて」
「瑠璃さんらしくないな。もっと胸を張って、こう、罵倒してこないと」
「わ、私はそんなことしてない! 勝手に人の性格をねつ造するな!」
思わず立ち上がって怒鳴ると、蒼が腹を押さえて笑う。ほら、そういうところ。と、言った彼の顔はこれまでと同じ物で、瑠璃はここ数日起きた事件を忘れそうになる。
……それでも蒼の額に残った小さな傷を見ると、瑠璃の腹の底がぞくりと震えた。
傷を見ていることに気づいたのか、蒼はさりげなく前髪で傷を隠し、瑠璃の座るカウンター席に滑り込む。
「でもほんと、本名にはあんまり愛着ないし、瑠璃さんに呼ばれるなら、やっぱり、蒼くん、がいいな。それに今はお礼とか良いですよ。そんなことより大事なことがあるんです」
「何……」
蒼は不自然に手を後ろに回したまま。何かを隠しているようだ。
瑠璃が覗き込もうとすると器用に身を反らし、隠す。
右を覗けば左に逃げて、左を覗けば右に逃げる。
むっと口を尖らせて、瑠璃は蒼の袖を掴んだ。
「蒼くん」
「瑠璃さんが追いかけてくれるの楽しくってつい夢中になっちゃいましたけど……そろそろネタバラシ」
と、彼は瑠璃の前に恭しく何かを掲げた。
蒼が隠し持っていたのは、小さな銀色の器だ。彼はそれを静かに瑠璃の前に置く。
「じゃーん」
瑠璃の前には、足の付いた銀の器。その上にゆるゆると鎮座するのは……。
「プリン!」
瑠璃は思わず声をあげていた。
それはまるで卵をそのまま流し込んだような、黄色のプリンだった。上にとろりとかかった褐色色のカラメルが波打つように揺れている。
「作るって約束したでしょ。これと、ビール」
蒼は満足そうに笑って、大きなグラスを隣に置いた。
注がれているのは黄金色ではない……黒い液体だ。
「これって、ビール?」
「黒ビールです」
炭のように真っ黒で、泡はあまりない。グラスに触れても、それほど冷たくはない。
「最近、長野で新しいビール工房が開いたんですって。ここにバーがあるって聞いて、わざわざサンプルを持ってきてくれたんです。黒ビールは高温で焙煎するから色が黒くなるんです。かわりに苦味は薄くなって、まるでカラメルみたいな味わいに」
「でも、プリンとビール……って」
「黒ビールとは相性抜群ですよ。試してみてください」
出会った日……あの日も瑠璃はこの席に座ったのだ……その日に、蒼は瑠璃に言ったはずだ。
プリンをごちそうしますよ、と。
「……美味しい」
プリンを一口食べて、瑠璃は呻く。思えばこの店に来てから呻いてばかりだった。
ハンバーグに呻かされ、ぶり大根に、おでんのうどんに驚かされた。
いろいろな物に呻いて感動して、食べることを、味を取り戻した。
食べることで、瑠璃の体は生きようとした。
プリンを飲み込んだあと、ビールを飲む。
「わ……あんまり、炭酸がないんだ、これ。それにほんとに、甘い……」
瑠璃は驚くように口を押さえた。
黒いビールはまるでカラメルのように甘く、香りが良い。プリンの味をさらに引き立てる。
「甘いものにあうビールっていうのもあるんですよ」
隣の席に座って、ニヤリと笑う蒼をみて、瑠璃は悔しさに唇を噛みしめる。
お酒と料理を合わせるのは、美味しくて楽しい。
それもこの店で、知った。全部全部、ここで知った。
「……悔しいけど。おいしい」
柔らかいプリンの中には、優しい味が閉じ込められている。口の中でつるりと溶けていくくせに、喉の奥にひりりと甘い痕跡を残す。まるで蒼のようだ、と瑠璃は思った。
プリンのような蒼は、くすぐったいほど優しい顔で瑠璃を見つめている。
「授賞式でね」
蒼の視線に絡められたまま、瑠璃はぽつりと呟いた。
ビールの淡いアルコールのせいで、記憶が急に鮮明になる。
酒を飲んだあとは記憶が曖昧になるくせに、飲んでいる最中は不思議と鮮明になるのだ。
思い出したのは、授賞式の風景。賞の関係者がびっしりと席を埋める中、瑠璃は久しぶりに人前に立った。
「とんでもなく緊張したんだ。いろんな視線に見つめられて、もう倒れそうだったし頭の中は真っ白になった」
瑠璃をまっすぐ見つめてくるその視線は優しい。期待に満ちたまなざしだ。
彼らは純粋に、賞を取った深山瑠璃の言葉を聞こうとしていた。しかしここにいるのはシアンであり、瑠璃はそのことを表明するつもりで立っていた。
この場所には蒼も菊川もいない。つまり、味方は誰もいない。
つい先程までカゲツに脅されていた瑠璃のコンディションは最悪だ。
きっと足は震え舌は喉の奥に張り付いて言葉は何も出ない。そう思っていた。
「……でも、声が聞こえた気がしたんだ」
それは母の声だった気がする。同時に蒼の、菊川の、町の人々の声だった気がする。
暖かく、瑠璃の背を押す声だった。いつの間に、こんなに暖かな声の中にいたのかと、瑠璃は驚いた。
きっと声は、ずっとそこにあったのだ。瑠璃が耳を塞いでいただけだ。
だから瑠璃はまっすぐにステージに立てた。不思議と震えは消えていた。
ステージの上から、光にあふれる群衆を見た。
最初に話す言葉は決めていた。
私はシアンだ。そう名乗ると決めていた。
「ずっと怖かったけど、なんてこと、なかったんだ」
「なんてこと、ないでしょう」
蒼が自分のグラスにビールを注ぐ。黒い泡が美しく光るのが見えた、
「難しいことなんて、そんなにないんですよ」
蒼の言葉が瑠璃の奥底に、静かに染みた。
窓の外が風で揺れている。カタカタと音がするのは準備中の看板が扉に当たっているせいだ。
先ほどビールの缶を外に取りに行くフリをして、蒼が外に看板を着けたのだろう。
それに気づいた瑠璃は思わず苦笑する。
「いつも私が来るとき、準備中にするんだな」
「だって邪魔されたくないですもん」
「蒼くん、割とこう……」
「嫉妬深い?」
「色んな知らなかった蒼くんの顔が見えて面白い」
初めて出会ったとき、瑠璃は蒼のことを軽薄な男だと思った。
二度三度、逢ううちに社交的で明るい男だと思った。
何度も話をして何度もこの店に通ううちに、不思議な男だと思うようになった。
瑠璃に見せない顔があったせいだろう。
「じゃあ、これからはもっと、素の姿を見せますね。実はこれでもずいぶん猫を被ってるんです……そうだなあ。もっと堂々と瑠璃さんを甘やかそうかな」
「甘やかすって」
「次は何食べたいですか?」
瑠璃の言葉も聞かず、蒼が手を伸ばす。瑠璃の顔に浮かんだクマを指でなぞり、苦笑する。
「もっと健康にいいものも、作らないといけないかな」
「ん……角煮と、それとおでんと……」
「そうですね、食べられなかったものも作りましょうね」
瑠璃の言葉に、蒼が優しく微笑む。年下のくせに、そんな顔をすると大人びて見えるのが悔しかった。
「それで来年は、一緒に離島までイチゴを採りに行きましょう。それでジャムを作る。素敵な計画でしょ。その頃には裁判も終わって、多分、全部気軽になってるから……そこで、何か新しい小説を書いてもいいじゃないですか」
瑠璃はじっと、プリンを噛みしめた。
「そっか……まだ、色々食べられるんだ」
これまでこの店に来るとき、瑠璃は覚悟を抱いていた。
もう二度とこれを食べられないかもしれない。この味は最後かもしれない、と。そんな切ない覚悟だ。
(この店に来られるのは最後かもしれない……でも、それくらいのことをしたんだ。仕方がない。なんて、ずっと、ずっと自分を追い詰めてたんだ)
逃げていく自分も、立ち向かえない自分も、正体を明かせない自分も、全て嫌いだった。
(楽しいことなんて、何もなかったはずなのに……今はこんなに、楽しい……)
プリンの柔らかい部分も、苦みのあるカラメルの部分も、喉を流れていくビールの感触も。
これは最後では無い。ただの始まりだ。そう思うと、瑠璃の体の奥に暖かな光が灯る気がした。
「ね、来年も、明日も、未来はいっぱい楽しい」
蒼の額に刻まれたのは細い傷。それは瑠璃のせいで付いた傷だ。しかしそれを彼は愛おしそうに撫でる。
「僕……俺のこれは名誉の負傷として、宝物にします」
取り繕うのを辞めたという彼は、瑠璃を見つめてそう言った。
プリンを食べて終わると、外はうっすらと赤い。
扉を開けると、夕日の赤い色が瑠璃の目を焼いた。
「今回も夕日に変わる瞬間、見られなかったですね」
「ずいぶん古いことを覚えてるんだな君は」
バー群青の外は、ただただ赤い。青色の空も赤い夕日も、全て脳の見せる錯覚だ……と、瑠璃は母から教えられた。
「古いっていっても、ほんの半年くらい前ですよ」
「あれ、そんなもんだったかな……もう、1年くらい経ったかと思った」
夕日の時刻、赤い光は美しい。世界がぼんやりと淡くなり、まるで境界線がなくなるようだ。
この錯覚を見て人は美しいと思う。感動する。
……それでいいのだ。と、瑠璃は初めてそう思った。
瑠璃は染まる夕日を見つめて、静かに息を吸い込んだ。
「そうだ、蒼くん」
「もう、書けたんですか!?」
「うん、もうほとんど書けていて……あとでまた書き足すだろうけど、とりあえずの初稿」
鞄からノートを取り出すと、蒼がカウンターの内側から飛び出してくる。
その大きく見開かれた目だとか、緩んだ口元をみて瑠璃はため息をつく。
「そんなに必死にならなくても、もう捨てたり破いたりしないよ」
「読んでも……いいですか!?」
「良いけど、感想は……」
ノートはすぐさま蒼の手元に奪われた。
そのノートには、青の世界の続きが描かれていた。不時着をした母と娘が新天地で旅に出て……そして幸せになる物語。
何度もノートをのぞき込む蒼の顔を見て、感想を言うな。という言葉を飲み込む。
「次逢うとき、かな。うん、厳しい意見でもいいし……もちろん嬉しい感想のほうが、いいけど」
「瑠璃さ……」
同時にノートを覗き込もうとしたせいで、二人の顔が至近距離に迫った。慌てて体を逸らそうとしたせいで、二人とも壁に頭をぶつける。
情けない顔の蒼と目があって、瑠璃は思わず吹き出した。
「もう行くぞ。今日は眠い。一日書いてたから」
外に足を踏み出せば、道の向こうに津島親子が見えた。漁から帰ってきたところなのだろう。ボロボロの軽トラの窓から手を出して、小左衛門が大声で叫んだ。
「祝賀会の2回目はいつするよ」
大きな声が細道ばかりのキンコツの町に響く。その声は、瑠璃の体に広がる骨と血管の一つ一つにも響いた気がする。
瑠璃が小左衛門に応え、花子が笑い、蒼がそんな瑠璃をまぶしそうに見つめる。
「瑠璃さん」
小左衛門たちの車が角を曲がったのを見送るなり、蒼の手が瑠璃の腕を掴んだ。
「右手はもう大丈夫ですか?」
「ああ、別に縫うまでもなかったし、綺麗なもんだよ。ちょっとちくちくするけど」
蒼が見ているのは瑠璃の右手だ。
あの時、咄嗟にカゲツのナイフを握りしめたせいで傷が残った。
しかし筋や神経には異常がなかったため、あとは治るのを待つばかりである。
「でも一晩中小説書いてても平気だったし、もうほとんど治って……」
しかし蒼は真剣な目で、瑠璃の手を見つめていた。
「ねえ瑠璃さん、一回だけ抱きしめても?」
「え?」
時刻は夕方、そのせいで辺りは一面の赤。
「なんて?」
「抱きしめていいですよね」
まるでその夕日の色が滲んだように、瑠璃の顔も今、真っ赤に違いない。
誰もいないか、思わず周囲を探ってしまう。
そんなことをしなくても、この時刻に外を歩く人はほとんどいない。
「……な、なんか、あの、蒼くん?」
蒼は答えも待たず、瑠璃の体を抱きしめた。瑠璃は思わず溺れた時のような奇妙な声をあげてしまう。
彼の腕が瑠璃の背中でクロスする。彼の顎が瑠璃の肩に乗せられ、柔らかい髪が瑠璃の頬を撫でた。
その感触に瑠璃の鼓動が早くなる。息が乱れ、体は硬直したまま。
人の体がこれほど温かいことを、瑠璃は久々に知った。
「蒼くん、ちょっと、急に……何……を」
押し返そうとした瑠璃だが、指先にふるえを感じて動きを止める。
「瑠璃さん、ありがとうございます」
蒼が震えている。泣くのを堪えるように、耐えるように、震えている。
「……生きていてくれて」
耳まで赤くして、彼は震えていた。
手のひらが熱いのも、頬が熱いのも、錯覚でもなんでもない。
(この気持ちは、多分、きっと)
瑠璃は一瞬だけ、蒼の体を抱きしめる。
「蒼くんも、ありがとう」
蒼が動揺した隙に、瑠璃は彼の体からそっと離れた。
「俺は、なにも」
「私の小説を、信じてくれて」
何かを言いたそうな蒼に背を向け、瑠璃は思い切り伸びをする。
全ての言葉をここで聞くのも言うのも少しもったいない。そんな気がするのだ。
「蒼くん、ごちそう様」
この町で育ち、離れ、そしてまたここに戻ってきた。
自分の知らないこの町で、瑠璃はまた生きていく。
この星と一緒に。
蒼と共に。
「……また、明日」
赤い夕日に照らされる青い蒼を見つめて、瑠璃はゆっくり微笑んだ。




