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第4章

 改めて後朝の文というやつを、昨日まで親友と称していた女人に送った朝はなんとも奇妙な気分になった。二十一歳でこの世を去った俺の父は、情熱的な後朝の文を残している。

――君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

 俺もこれに負けないくらいの歌を少納言に贈ろうとしたが、無駄な足掻きであった。歌人の家系の女に下手な歌を贈っても、心に響かないどころか、少納言のことだから添削して突き返してくることもあり得ないことではない。

 しかし、意外にも少納言は俺の歌を素直に喜んでくれたようだった。山吹色の薄紙にはおまけに、「今朝為悦己者容」と書き付けてあった。

「さっきから顔がにやけてるぞ。朴念仁の頭弁が気持ち悪い。少納言の顔でも拝めたのか」

「天変地異の前触れだな、きっと。陰陽寮にでも行ってきたらどうだ」

 右衛門督と宰相中将にからかわれて初めて俺は口元が弛んでいたことに気づいた。愛する女から、今朝はあなたのために化粧をしているなどと言われて気を悪くする男はいない。しかし、俺は慌てて取り繕い、「それなら陰陽寮に行ってきます」と言って、先輩たちから離れた。

 俺はそれから二晩続けて少納言の局に通った。三日目の翌朝、少納言は俺の妻になった。まだ誰にも――もちろん冬子にも――告げていない密かな関係だが、年が明けたら御出産の慶事と共に主上に報告し、少納言のための屋敷を用意するつもりだ。少納言には、今は皇后宮の御出産の準備に集中してほしかった。

「時々は文をくださいね」

「もちろん」

 少納言への私的な文は、業務上のやりとりのついでにということになり、毎日とはいかないが、それでも音信不通になるよりましだ。俺はこのときばかりは、蔵人頭という役職に感謝した。

 予想はしていたことだが、皇后宮が再び生昌殿の屋敷に出御される日、左府は中宮彰子様の元で和歌会を開催された。当然俺も呼び出され、皇后宮の様子を確認することはできなかった。皇后宮が去ってから間もなく、九月八日に里下がりをしていた中宮が参内した。

 九月十日、俺は外出をした。白川寺に滞在している叔父と従弟の少将成房を見舞うためだ。皇后宮の女房たちと親しい権中将成信も同行している。成房と成信は俺より若かったが、心のうちを話し合える良き友人なのだ。

 少納言はよく成信は容貌が美しく心映えもすばらしいと手放しで褒めていた。確かに、地味で愛想のない俺と違って、成信は若い女房たちからも照る中将などと言われて人気なのだ。

「少将の具合、思ったよりひどくなくて良かったな」

「はい。入道殿のお話も心に染みました。やはり仏道こそが救われる唯一の方法ですよ」

 車が陽明門大路を通っていた時、突然、伏せろ、危ないという声が聞こえた。外で何者かが喚いている。うわっという驚きの声と共に人が倒れる音もした。

「頭弁様、盗賊です! 左衛門少尉らが賊を防ぎましたが、雑色と小舎人童が矢に射られて負傷しました」

「すぐ手当てさせろ。馬は用意できるか? 早く主上に報告申し上げねば」

 盗賊は何本か矢を放ってきたようだが、車の中にいた俺たちは武官や舎人の働きのおかげで負傷を免れた。しかし、大内裏に直接通じる大路に盗賊が出没するなど、見逃してはおけない。検非違使別当の公任殿にも重い腰を上げてもらいたいものだ。

 翌日は終日自宅にいた。帰宅すると、冬子はご無事で何よりです、日頃の信心が御仏のご加護を与えてくださったのですねと俺の手を握りしめた。それから次々と見舞いの人々が訪れて、一日が暮れた。就寝前に昼間届いていた文に目を通していくと、少納言からのものがあった。

――あなたの身に何かあれば、私は生きてはおれません。今も一心にあなたをお守りくださるよう仏に念じているのです。

 彼女らしからぬ文面に驚いたが、本気でそう考えているわけではないだろう。なにせ説経の講師は美丈夫なのが良いだの、醜い顔の講師では上の空になるだの、普段からけしからぬことを言う人なのだ。

 俺は「あなたがそれほど熱心に祈ってくださるということは、さぞ顔の良い説経師をつかまえたのでしょうね。俺のことをお忘れなく」と返した。

 こんな冗談のやりとりは逢坂の関を越えるずっと前からしていたけれど、今はそのどれもが違った文字に見えた。しかも、一切の冗談抜きで本当にそう思ってくれているかもしれない、と考えても、俺は沸き上がる幸福感に浸ることができたのだ。

 ――先日、なぞなぞ合せをしました。左方の一番手を務めたのだけど、左方が負けてしまったわ。本当に悔しい。

 ――今日は宮様の母君の御法事でした。きっと宮様は母君のすばらしいところを全て受けついでおられるのでしょうね。

 ――正四位下にご昇進されたとのこと。お慶び申し上げます。

 ――皆と一緒に作った産着を頭弁様にもお見せしたい。かわいらしくて和むの。萩式部は何度注意しても裏と表を間違えて縫ってしまいます。

 少納言は内裏から使いが行く度に、俺に文を出してくれた。

 ――雪月花時最憶君。四季の折々を見る時にあなたを一番思い出す、という白楽天の一文を噛みしめています。もう十二月になってしまいました。宮様もあなたも暖かく過ごしてください。

 そんな文を書いた後、主上からお召しがあり参上すると、新しい調度品が並べられていた。

「これを皇后宮の元へ。今月中には生まれるということだから。健やかであると聞いている」

「はい、宮様におかれましてはご健勝で何よりです。すぐに運ばせます」

 俺は急いで蔵人所に行き、部下の一人である菅原孝標に調度品を持って参上するように指示を出した。

「孝標、悪いがこの文を清少納言に渡してほしい。全て終わってからでいいから」

「了解です」

 もう五年ほど少納言と俺の濃い交流は続いていたし、俺が皇后宮への取り次ぎをほとんど彼女に頼っていたせいで、都合の良いことに、俺が少納言への文を誰かに託してもそれが恋文の類であるとは考えられていなかった。少納言はすぐに返事を送ってきた。

――すばらしい調度品に感激していました。こうした主上の御心遣いを見ると、私達女房もとても嬉しいのです。宮様もご機嫌がよろしくて、たくさんお食事もお召し上がりよ。早くあなたにお目にかかりたいけれど、まずは御子様とご対面申し上げる方が先ですわね。頭弁様もご自愛ください。

 俺はいつも通り、生き生きとしている少納言の文を読んで満足した。少しでも皇后宮や女房達が安心し、華やかな気分になってくれたらいいと思う。

 俺は正月が楽しみでしかたがなかった。行事や酒宴が重なり、多忙になることはわかっているが、皇后宮の御子の誕生という慶事と、晴れて少納言を妻として迎えることができるという幸福を一度に味わうことが叶うのだから。


 しかし、それから八日後の十二月十五日は、何もかもが忘れることのできない日となった。

 その日は物忌であったので、俺は自宅で静かに冬子や子供たちと過ごしていた。ところが、夜になり、女院の東三条院の御在所から出火し、焼失してしまうという事案が発生した。おそらく放火であろうが、女院はしばらく別の屋敷で暮らしておられたため、大事にはいたらなかった。

 院の元へお見舞いに伺う際、同行した者がどこからか仕入れた噂を俺に告げた。

「朝の話ですが、白雲が東西の山にわたって、月を二筋の雲が挟んだとか。不祥雲らしいですよ」

「そうなのか」

「ええ、月は后の象徴と言うそうで、ちょっと嫌ですね。それで皇太后宮の御屋敷から火災が起きたのでしょうか」

 しかし、その不祥雲が后を表す月を隠したことは、火災を発生させるに留まらなかった。再び内裏に向かう準備をしていた時、下人が息を切らして俺に駆け寄り、こう言ったのだ。

「皇后宮の御産は今、途中ですが、非常とのことです!」

「非常とは、一体どういうことだ!?」

 俺は下人を怒鳴りつけた。皇后宮に何があったのだ。

 雲が月を隠す…… 俺は最悪の事態を想定した。別の者に確認を取らせると、最悪の事態が杞憂どころか事実であると判明した。

 皇后宮が女児を御出産後、そのまま亡くなられた。

 どういうことかわからなかった。つい先日、少納言はご健康でよく召し上がり、機嫌が良いと書いていたではないか。俺は東三条院の焼亡のことなど、すっかり忘れて、今しがた直面した信じられない事実に打ちのめされていた。俺は主上のことを考えた。唯一心から愛する女人が赤ん坊と引き換えに、その命を落としたという悪夢を、果たしてどのように受け止めなさればいいというのか。

 あり得ない、あり得ない。そんなことがあっていいものか!

 俺は真っ先に内裏に参上しようとした。主上をお支えする蔵人頭として、今こそお傍に参らなければ。

 しかし、俺は参内することができなかった。車が急に止まり、従者が声を掛ける。

「旦那様、左府様の御随人からの言付けで、今すぐに土御門第へ来るようにとのことです」

 俺はこの時ばかりは左府を恨めしく思った。皇后宮崩御の知らせを聞いていなかったと思われるが、それにしても間が悪かった。

「このまま、左府の元へ行ってくれ」

 車はまた走り出した。

 結局、俺が主上に拝謁したのは朝日が昇り切った頃の時刻であった。主上は母君の御所の焼亡による心痛の後、それを凌ぐ訃報に接して、表情は硬く、宙を浮遊しているような御様子だった。

「皇后宮が既に息を引き取ったということだ。甚だ悲痛である。左大臣にすぐに参るよう」

 主上は一切、涙をお見せにならなかった。最愛の妻が亡くなったというのに、主上は世の夫のようにすぐに亡骸に寄り添い、その死を悼むことは許されない。俺は蔵人の永光を使者に指名した。それと入れ違いに済政が参上し、驚くべきことを奏上した。

「院が急に御病にかかり、その御容態は極めて重く…… とにかく、異常なことが起きたということです」

 次から次に、一体何がこの主上を追い詰め苦しみを与えるのだろう。

しばらくすると、左府がやって来られた。主上に、院の御病気は大事には至らなかったと申し上げた後、殿上の間に移り、俺にこう言った。

「頭弁、俺は恐ろしい目に遭った。院が臥しておられる間、近侍していたのだが、突然、女房達が叫び声を上げて何事かと見ると、藤典侍とうのすけが取り憑かれた様子で、何かを叫びながら俺に掴みかかってきたんだ」

 にわかには信じられない話だが、左府は恐怖に満ちた顔を俺に見せたのだ。しかも、藤典侍の叫び声は皇后宮の父君である関白道隆様のものにも聞こえたという。どういう理由なのかはわからないが、俺は安倍晴明を呼んで諸事を指示した。

 喪失感という言葉しか思いつかないほど、皇后宮を失った俺たちは漂流していた。この世を明るく照らす光が突然消えてしまったように思えた。皇后宮に絶対的な忠心を抱いてお仕えしていた少納言は、己を喪失したに等しい衝撃を受けたに違いない。俺は少納言に大丈夫かという趣旨の文をすぐに送った。しかし、少納言から音沙汰はなかった。敬愛する御方の死に苦しんでいるであろう俺の愛する女人を、真っ先に慰撫できないことで俺は自分を責め続けた。誰のせいではないにしろ、俺は政治的なしがらみとは無縁の世間の男を心底羨ましいと思った。

 暮れが迫る中、宮中は皇后宮の葬儀の段どり一色となった。少納言と連絡が取れない状況で、俺は誰かに苦しい胸のうちを聞いてほしくて、一首を少将成房に送った。

――世の中を如何にせましと思ひつつ起き臥すほどに明けくらすかな

 この世をどのように生きたら良いものか、そう考えては日々が過ぎていく。何事につけても悲嘆を催さざるを得ないのだ。折り返し、成房からの返歌が届いた。

――世の中をはかなきものと知りながら如何にせましと何か嘆かん

 その歌からはどことなく世の中に対する諦めのようなものが滲み出ていた。どうにもならない気持ちを直接語り合おうと、俺が成房を訪ねると、彼はかねてから漏らしていた願望を口にした。

「頭弁殿、私は出家をしようと思うのです。ただ、ずっと父の許可が得られなくて未だに俗世に生きていますが」

「君が出家したいということは、京中の噂になってるよ。叔父上の心情はもっともだけれど、このまま俗世に留まれば皆の嘲笑を買うだろうし、後生に至っては地獄に落ちてしまうかもしれないね。とにかく、俺にはとやかく言う筋合いはないよ。本当に、世の中は泡のごとく、当てになるものは何一つないものだね」

「心中、お察しいたします。私は自分の身を恥じ入るばかりです。頭弁殿のように主上をお支えすることもできず……」

 俺だってそんなに立派な男ではない。主上の側近であることはもちろんだが、俺はどうしても少納言のことを考えてしまうのだ。生昌殿の邸宅では着々と葬儀の準備が行われており、当然、少納言が筆頭になって取り仕切っているはずだ。俺は使いを出して指示をする側で、未だに彼女に声を掛けてやることさえできていない。

 その晩、内裏に参った俺に、主上は心情を長々と吐露された。これは帝というよりも、一人の男の愛情と嘆きであったと思う。まだ十代の始めから主上と皇后宮は夫婦として共にあった。姉のように慕っていた女人がそのうち最愛の妻となり、幾多の困難をも乗り越えられてきた。その皇后宮の崩御は青天の霹靂であった。忍び難いことであるので、その御言葉は俺の胸のうちにしまっておく。

 皇后宮の葬送は暮れも暮れ、十二月二十七日のことだった。野辺には雪が降り積もっていたと思う。俺は葬送にも、この前に行われた六波羅蜜寺での葬儀にも行っていない。始終、死の穢れに触れることができない主上と共に内裏にあったからだ。おそらく少納言は一の女房として列席したのだろうが、俺がその場にいたとしてもどうすることもできなかっただろう。

――よもすがら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき

――知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな

――煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ

 これは皇后宮が死を悟って御詠みになった辞世の句とのことだ。俺は皇后宮からの最後の想いを声に出して読まれている主上に、初めて涙を見つけた。

――野辺までに心ばかりは通えどもわが行幸とも知らずやあるらん

 葬送に参列することができない主上は一人静かに詠まれた。主上はどこまでも愛する定子様に心を寄り添わせて、片時も離そうとはされなかった。それは死しても同じなのだ。


 粉雪がちらついている。少納言の肌は雪のように白く、そして瞳は儚げだった。局の内側から御簾越しに見る月は粉雪がかかって泣いているように見えた。

「お久しぶりですわね」

 故皇后宮の三十七日法事が過ぎた後、宮の身辺整理などで内裏に戻ってきていた少納言と俺は再会した。

「……ようやくあなたの顔を見ることができた。傍にいることができず、苦しかったよ」

「いいえ、あなたはお上にこそ必要とされている人。でも、今日こうしてお会いできて嬉しいですわ」

 憔悴しきっているはずなのに、少納言はいつになく美しく妖艶だった。俺とこの人とを結びつけた皇后宮亡き今、本当の意味で俺は少納言と二人だけで向き合っている。俺は迷うことなく少納言を抱き締めた。局は薄ら寒く、こうして抱き合っていなければ凍えてしまう。

「もう四十日が過ぎたのね。信じられない…… 今頃、宮様は暖かい御所で御子様をお抱きになって、主上に微笑まれていたはずなのに」

「ああ、そうだね」

 少納言は俺の首筋に両腕を回し、嗚咽を漏らした。

「私…… 今、初めて、泣いたわ」

「彩子、好きなだけ泣けよ。俺の前では清少納言である必要はないから」

 どれくらい少納言が泣きついていたかはわからないが、俺はずっと彼女の背中を撫でていた。

「ここの女房たちは遅かれ早かれ、去るのでしょう? 皇后宮のこと、区切りがついたら、俺の元に来てください。あなたはもう皇后宮の女房ではなくなるのだから。どうか俺の妻に」

 少納言は微笑もうとしたが、すぐに泣きはらした顔を恥ずかしがって袖で隠してしまった。

「今日はこれで失礼します。正月は多忙で、またいつ来られるかわかりませんが、時間があれば必ず来ます」

「ええ。お待ちしていますわ」

 少納言は御簾を掲げて、俺を見送った。

 そして、故皇后宮の六十七日法事が終わり、一月末日を迎えた。俺は人事案件などの全ての仕事を済ませると、その足で少納言の局を訪れた。だいぶ遺品の整理や自身の身の周りの片付けが進んでいるようだった。

「少納言、入りますよ」

 俺は少し不思議に思った。いつもなら、俺が前もって行くと伝えると御簾を上げて待っていてくれるのに、今日は御簾を完全に下している。

「頭弁様、お許しください。お入りにならないで」

「一体どうしたんですか。不都合なら、出直します」

「いいえ……」

 どうしたものかと俺が外で立ち尽くしていると、少納言が両手をついて頭を下げたのが御簾越しにわかった。

「今日を限りに、お別れしたいと思います」

「……え」

 一瞬何を言われたのか全くわからなかった。別れという言葉が聞こえた気がする。なぜ俺たちが別れなければならないのだ。

「どういうことですか、少納言」

 俺は片膝をついて少納言に問いかけた。

「私は今日で内裏を去ります」

「そんな急に! なぜ俺に何も言ってくれなかったんですか!? それなら色々と手伝いの人を寄越したりしたのに。何も今日を限りで別れなんて、大袈裟な言い方まで……」

「いいえ、本当にお別れを言わなくてはなりません。私は、やはりあなたの妻にはなれないのです」

 やはり……? それでは初めから俺の妻になることを躊躇っていたということか。逢坂の関の文を交わしたことも、書を共に作ったことも、朝まで過ごしたことも、全部嘘だったというのか。俺は混乱して、少納言にそう言い募った。

「俺を弄んでいたのですね」

「違います! 私は真実、あなたをお慕い申し上げていました。今でも、心を分かち合えるのは頭弁様を他においておりませんわ。けれど、明日からは摂津守の妻として生きていかねばならないのです」

「摂津守だって!?」

 ますます俺は何を言われているのかがわからなくなった。少納言は…… 彩子は俺の妻になると約束した。そして、俺は密かにその準備をしてきた。それが、なぜ急に別の男の妻として生きるなどと言いだすのだ。だいたい、摂津守藤原棟世は俺よりも二十五歳ほど年上の、父親のような男ではないか。しかも、こう言ってはなんだが、摂津守は俺よりも官位が低い。あの歳なのだから先は短く、受領の地位で終わってしまう、わざわざそんな男に嫁ぐなどどうかしている。

「……もう以前からそういう話だったのですか? 俺と約束をしておきながら、別の男にも良い返事をしていたなんて信じられない」

「まさか。宮様がお隠れになる少し前に、先方から。お断りいたしました。私は宮仕えを辞めるつもりはありませんでしたし、何よりもあなたという方がいましたから。でも、宮様亡き後、私は考えたのです。このまま表舞台を去ってしまった方が良いのではないかと。あなたはこの先、左府様の覚えめでたく、どんどん出世されるでしょう。そんな立派な方に、私のような過去の女人が影のようについていたら恥です。私のような受領の娘は、受領の妻になるのが相応しい……」

「そんなことは関係ないでしょう!? 俺はあなたを愛している。一生幸せにすると誓ったじゃないですか! 遠江の浜柳は嘘だったのですか。あなたは俺のために化粧をし、俺はあなたのために命を懸ける、そう思っていたのは俺だけだったのですか!?」

 俺は御簾の下に手を入れ、少納言の手首を掴んだ。冷たいひんやりとした肌に、俺は驚いた。

「私のために命を懸けるなどと、おっしゃらないで。どうか親王様のことを頼みます。……定めは変わったのよ、行成様」

 ふいに少納言の手が俺の手から離れた。俺は耐えきれずに、御簾を上げて局に滑り込んだ。

 そこには誰もいなかった。調度品も衣も、少納言の存在を示す一切のものが局から消えていた。そして、ただ彩子の愛用していた残り香だけが、呆然と立ち尽くす俺を捉えた。


 早くも梅の蕾がほころび始めている。

 二月四日、俺はもう何度目かの蔵人頭の辞表を提出した。しかし、左府から「引き続きよろしく頼む」と、返却されてしまった。思うままにならない世の中を嘆かずにはいられない。

 出世していくあなたの影にはなりたくないと、少納言は言った。仮に俺が、出世とは無縁の男だったら彼女は俺についてきてくれたくれただろうかと考えて、俺はそれを否定した。くすぶっているような男なんかもっと見向きもしないだろう。だからこそ、俺は辞表を出した。少納言の考える以上に早く参議に昇格しなければならない、と俺は思った。きっと彼女はそれを喜ぶはずだ。

 けれども辞意は受け入れられず、俺はまだ当分の間、蔵人頭と右大弁を兼務し宮中を東奔西走しなければならない。そしてこの日、親しくしていた権中将成信らが突然、出家をした。世を厭う心がついに勝ったのだった。


 庭先に淡い色の小さな鳥が飛来した。満開の桜の枝に止まると、後からもう一羽が追ってきた。仲良く毛づくろいをし始めた鳥を見て、冬子は「かわいらしいわね」と長女に話しかけた。

「いやいや、かわいらしいのは娘御の方ですよ」

 源宰相俊賢殿が微笑んだ。今日は自宅でささやかな花見をすることになり、俊賢殿を招いたのだ。

「よくしゃべりますよ、この娘は。生意気なことも。それでも今がかわいい盛りでしょうね」

 俺が言うと、冬子は笑って俺をからかった。

「あっという間に年頃の娘に成長して、父様よりも素敵な殿方にもらわれてしまうわね」

「素敵な殿方になってくれるかわかりませんが、娘御を是非、私の嫡男の妻にいただきたい。と言っても、まだよちよち歩きですが」

 俊賢殿の嫡男は去年誕生したばかりだった。冬子は喜んで「よいご縁談ですわね」と返すと、ちょっと騒ぎ始めた子供たちを連れて奥へ下がった。

 俺は俊賢殿に向き直り、酒を注いだ。

「親王家別当の件は本当に良かった。君しか適任者はいないだろうね。兼務の職がたくさんあって厳しいと思うが、主上も他の人間には任せたくないと思われたに違いないよ」

「もったいない話ですが、俺も親王様のことは全力で御世話したいと思っていましたから」

 主上と皇后宮の間の三人の御子様達が健やかに成長されることが、今の俺にとっての慰めと励みになっていた。そんな中、俺は一昨年お生まれになった親王様の家政機関の責任者に任命されたのだった。そして、皇后宮が命と引き換えにこの世に送り出した女二宮も、無事に百日儀ももかのぎを終えられた。

 突然、庭から大きな笑い声が聞こえた。子供たちが走り回って、乳母に叱られている。どうやら三男が桜の枝を折ってしまったらしい。

「頭弁、少しは飲んだらどうです?」

 俊賢殿に勧められて、俺は申し訳程度に酒を頂いた。

「ところでね、清少納言は摂津国でも達者でいるそうだよ。もともと受領の娘だから、勝手知ったるといったところかな。私の妻がこの前、文をもらったと言っていた」

「ああ、宰相の北の方は皇后宮の上臈女房でしたね。皆、散り散りになってしまって残念なことです」

 俺は彼女を失った日から、心の穴を埋めようともがいてきた。力ずくでもいいから奪ってしまえれば、どんなに楽だったことだろう。もうあの笑い声、生意気な口ぶり、ふと見せる優しい微笑み、俺にすがる瞳と官能的なくちびる、その全てがもう二度と手に入らない。

 彼女のいない季節が永遠と巡り、俺はいつしか年を取っていく。若き日々のことは記憶から薄れていくかもしれない。

 また子供たちが笑いながら庭を通り抜けた。そして、一際強い風が空から吹きつけ、桜の花びらを波しぶきのように舞い上がらせた。吹き抜ける風は静かに掛かる御簾をも揺らし、一片の花びらが盃にその身を横たえた。

 いや、俺はこの景色を見るたびに思い出すだろう。見るもの聴くもの全てに息吹を与え、心を彩った人のことを。


――春は曙。

 彼女の物語はいつもここから始まる。

最後まで読んでいただきどうもありがとうございました。

突発的にこの二人の物語を書きたくなって、初めて恋愛中心のお話を試みました。作者としては結構気に入っています。

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