第7話:小牧・長久手——冷淡なる正論
『届かない思い、分かり合えない悲しみ。二人の致命的な『すれ違い』の幕が、いま上がる――。』
賤ヶ岳の嶺を叩いたあのアブラムシの羽音のような静寂と、続く勝鬨の歓声から、ふたつの巡りが流れていた。
三千石の恩賞を賜り、福島市松(正則)の名は羽柴軍の最前線に燦然と轟いていた。
あれから天下の形勢は、恐ろしいほどの速さで流転を始めていた。
織田の威光を継ぐ羽柴の旗下にて、市松は朱に染まる戦場を縦横無尽に駆け巡り、佐吉(三成)は持ち前の鋭利な頭脳と算術を武器に、各地の兵糧備蓄、城普請、そして苛烈を極める検地を次々と成し遂げていく。
市松が灼熱の炎となって敵陣を叩き割り、佐吉がその背後を隙のない兵站にて固める。
文字通り、二人の「武」と「知」は羽柴家の両輪となり、天下を駆け上がる最も輝かしき黄金期を迎えていた。
(お前が盤面を整え、俺が槍にて道を切り開く。——天下など、俺たち二人がおれば容易いことよ!)
陣中にて顔を合わせれば、言葉はなくとも「よく励んでおるな」「お前こそな」と不敵な笑みを交わすだけで通じ合えた。あの日の誓いが現実となり、世界が己らの手で塗り替えられていくような、胸を焦がす熱狂の日々。
だが——その疾走は、天正十二年(一五八四年)、徳川家康との全面対決である「小牧・長久手の戦い」において、最初の致命的な軋みを生むこととなる。
◇
小牧の陣中。湿り気を帯びた尾張の風が吹き抜け、重苦しい殺気が羽柴の本陣を支配していた。
天を覆う雲は鈍い鉛色に沈み、長久手の地における手痛い敗北をあざ笑うかのようであった。森武蔵守や池田勝入といった重鎮が相次いで討たれ、戦場の「戦術」においては紛れもなく家康の勝利であった。
だが、市松を苛んでいたのは単なる敗北そのものではない。肝心の戦場において、己はただの一度も敵陣を突き崩すような大働きを成せぬまま、無為に日々を過ごしているという、どうしようもない歯痒さと無力感であった。
(くそっ……! 賤ヶ岳のあの眩い一番槍から、俺は何一つ進んでおらぬというのか。この膠着した陣中では、槍を振るう機会すらない……!)
胸の奥で、煤けた焦香の残り火のような熱い感情が、出口を失って不気味に燻っていた。
血気にはやる武者どもが焦燥を募らせる中、秀吉様というお方はまさに怪物であられた。
戦場にて重臣を失う凄絶な敗北を喫しながら、秀吉様の顔には焦燥どころか、薄笑いすら浮かんでいたのだ。
秀吉様は家康と直に刃を交えるを避け、即座に総大将たる織田信雄へ怒濤の外交工作を仕掛けられた。裏の手を回して信雄を単独講和へと引きずり込み、家康が掲げていた「織田家を助ける」という不承不承の大義名分そのものを、一瞬にして霧散させてみせたのである。
戦場で敗北しながら、気づけば家康の手足を完全に縛り上げる圧倒的な政治戦。
槍働きにて己の価値を示したい市松にとって、その怪物じみた手腕は誇らしさであると同時に、自分たちの出番が永久に失われていくような言い知れぬ恐れと、胸を抉られるようなむず痒さを伴うものであった。
(槍の力にて勝敗が決する時代は……真に終わろうとしておるのか……?)
戦の常識が塗り替わっていく焦燥に、胸が焼き切れそうだった。
そんな折、市松の陣中にて、配下の武者どもが他家の兵と些細な小競り合いを起こしたという報せが入る。戦場に立てぬ鬱憤を、最悪な形で晴らしたのだ。
市松は不気味な静けさの漂う陣幕へ踏み込み、腕を組んで荒く鼻を鳴らした。この閉塞感に耐えかねておるのは己自身も同じ。配下の者どもの我が儘など、羽柴の屋台骨を揺るがすものではない——大目に見てほしいという身勝手な甘えが、心の底にこびりついていた。
──何の真似だ、佐吉。
文机の前に座す佐吉は、凍てつく冬の夜空の如き【藍濁】の冷気を身に纏い、相変わらず無表情を崩さぬまま検察状に筆を走らせていた。
その佇まいには情念の赤など微塵も混じり込まず、まるで深海の底に浸された濃紺の刃のようであった。
「此度の件、軍法違反につき、配下の者どもは遠島。並びに、将たるお前には謹慎と知行の一部没収を申し渡す」
市松は耳を疑い、思わず身を乗り出した。
「……何だと? 陣中の鬱憤による酒席の過ち程度のこと、わざわざ厳罰に処すというのか! 徳川を相手に皆が燻っておるこの有様が分からぬか! 俺たちは賤ヶ岳からの絆があろう、多少の緩み、目を瞑れ!」
「軍規を私情にて曲げることは断じてまかりならん」
佐吉は顔すら上げず、澱みのない声で言い放った。
その声は、【鉄紺】の氷塊で耳を刺されたかのように冷たく、体温というものが一切存在しなかった。
「殿が外交にて家康の首を締め上げておられるこの決定的な局面において、一歩でも規律が緩めば羽柴家は瓦解する。古参であろうと法度の前には平伏せねばならぬ。理を解せぬか、市松」
「な……ッ!」
佐吉のその横顔には、かつて賤ヶ岳の陣幕にて交わした熱気など微塵も残っていなかった。
秀吉様の描く巨大な絵図を完成させるため、ただ機械の如く軍律を執り行う、冷酷なる「奉行」の顔があるのみであった。
(……いつからだ)
市松の胸の奥で、冷たいしずくがポタリと落ちた。
(いつからお前は、そのような冷ややかな目をするようになった……)
己が戦場で何も成せず燻っている間に、秀吉様が「怪物」としての真価を発揮され、佐吉がその唯一無二の頭脳として重用されていく。
かつて泥に塗れて共に泣き、笑い合ったあいつは、遥か高みの氷の世界へと去ってしまった。泥臭い修羅場にもがき苦しむ俺たちの焦りなど知らぬ顔で、殿の完璧なる盤面を守るための役人になり下がってしまったのか。
怒りよりも先に押し寄せてきたのは、時代のうねりに取り残されていくような焦燥と、かつての友に拒絶された息が詰まるほどの寂寥であった。
「……そうかよ」
市松は絞り出すように呟き、立ち上がった。
「天下の軍監様になられて、さぞやお偉くなられたことだな、石田殿」
幼名で呼び合う日々は、ここで完全に終わった。
吐き捨てるように言い放ち、市松は睨みつけるように佐吉を見下ろした。
その瞬間。
無表情を貫いていた佐吉が、すっと顔を上げた。
冷徹な官吏の仮面の奥で、その目だけが──まるで耐え難い何かに耐えるかのように、わずかに引き結ばれ、凍てつく深藍の奥で険しく揺れていた。
声もなく、言い訳も口にしない。だが、その瞳の奥には、冷酷な拒絶などではなく、市松の視線を真っ向から受け止める、ヒリつくような熱い「何か」がまだ確かに燻っていた。
ただ、真っ直ぐに、射抜くような眼光が市松の視線と衝突する。
何かを必死に訴えかけるような、あるいは、己の不器用な正論をただ信じてくれと祈るような、あまりにも激しい目の揺らぎ。
(──当時の儂は、その瞳の奥に宿る『光』の正体を、ただの冷徹な拒絶だと断じて疑わなかった)
それが、触れれば己さえも焼き尽くすほど狂おしい執念の始まりだとは、気づきもしなかったのだ。
儂は佐吉の視線から逃げるように踵を返し、荒々しく幕を押し上げて去っていった。
重い足音が陣中に響き、やがて遠ざかっていく。
幕舎の外に出ると、いつしか薄曇りの空から冷たい秋雨がぽつり, ぽつりと降り始めていた。
天下へ駆け上がる道。
この小牧・長久手の激動を越え、羽柴はいよいよ四国を呑み込み、主君・秀吉様が関白の座へと上り詰める、あの燦然たる【青金】の時代──絢爛たる豊臣の黄金期へと足を踏み入れていく。
世は華やぎ、豊臣の威光は日輪の如く天下を照らし出した。
──だが。
信州高井野の雪夜。
囲炉裏の残り火を見つめ、老いた正則は痛恨の溜息とともに盃を干した。
枯れた目から、一筋の熱い涙が頬を伝い落ちる。
「……世間は、あの関白就任からの日々こそを羽柴の黄金時代と呼ぶのだろうな。だがな、佐吉……俺と友であったお前にとっての『黄金期』は、皮肉にもこの小牧・長久手の泥の中で……すでに終わりを迎えていたのだ」
あの日、泥を被って無言で花押を書き進めたあ奴の背中。
お前は頭脳で、俺は槍でと拳を突き合わせたあの滾るような黄金の刻は二度と戻らない。
すれ違った針は音を立てて狂い出し、ふたりの距離は二度と交わらぬまま、次の『四国征伐』という新たな時代の裂け目へと向かっていくのだった。
(第8話へ続く)
【あとがき】
ご覧いただきありがとうございました。
いよいよ秀吉が関白となり、黄金時代の到来を予感させる「青金」の時期となりました。
正則の赤、三成の青は再び交わる事ができるのか?
2人の関係は今後…
お礼と感謝のメッセージ
さて、なろうのトレンドに逆行する歴史ドラマですが、データを通じて「1人あたりが平均して何話も、驚くほどガッツリとページをめくって読み進めてくれていること(ユニークアクセスの深い足跡)」がハッキリと伝わってきております。
タイトルや内容でブラウザバックされるだろうな…と思っていましたが、それでも駆け抜けて本作をじっくり読み込んでくださっている生身の歴史ガチ勢の皆様、本当に、本当にありがとうございます……!
〜そして先日、【2人目のブックマーク登録】をいただきました!
画面の前で嬉しさのあまり、思わずガッツポーズをしてしまいました。皆様の応援が、執筆の何よりの原動力です。
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次回、第8話は【11月6日(金)17:30】に更新予定です。よろしくお願いいたします!




