序章 救世主より、一人の釣り人として
湖面に浮かぶ円形の波紋が、日差しを浴びてキラキラと輝いている。
その光景は、まるですり鉢状の地形に流し込まれた、巨大な宝石のようだった。
草原を揺らす風の音以外、ここには人工的な騒音など一切存在しない。
俺――小林和真は、湖畔に突き出た平らな岩に腰を下ろし、慣れ親しんだ感触を伝える愛用のロッドを握りしめていた。
「ふぅ……最高だな」
独り言が、澄んだ空気の中に溶けていく。
頬を撫でる風が心地よい。この世界に来てから、朝のこの時間は俺にとって何物にも代えがたい至福のひとときとなっていた。
そんな時にふと思った。
あの自称神のおっさんに会ってから、どれくらいの月日が流れたのだろうか。
この世界には一応時間の概念はあるみたいだが、カレンダーも時計もない今、それを知る手段はない、この世界のことについてまだそんな知らん。今はただ日が昇り、そして沈む。それだけ分かれば十分だ。
そんなことをぼんやりと考えていると、手元に微かな、しかし確かな感触が伝わった。
チョン、チョン。
カーボン製のロッドが、水面に引き込まれるように繊細に震える。水中に漂うラインの先で、何者かが俺の仕掛けに興味を示している証拠だ。
「お、釣れるかな?」
はやる気持ちを抑え、すぐには合わせない。ここでの焦りは禁物だ。
魚が餌を完全に口に含み、反転して走り出すその瞬間を待つ。
一秒、二秒。
指先に伝わる緊張感が、鼓動と同期するように速まっていく。
やがて、ロッド先が勢いよく湖面に向かって引っ張られた。
「ここだ!」
鋭く、かつ正確に。グン、と手首を返す。
確かな重量感が針に乗った。
本来ならここからが、ラインを切られないようにリールを調整し、魚を疲れさせる知恵比べと力比べの始まりなのだが、今の俺にはそんな心配は無用だった。
神様に貰ったこの万能釣り道具を持っているときは、常人離れした力が宿っている。
少し物足りない気がしなくもないが、贅沢は言ってはいけないだろう
こんなに楽しい日々を送れているのなら、あの理不尽な終わり方も、案外悪いものではなかったのかもしれない。
「おらっ!」
俺は身体の芯から湧き上がる力を腕に乗せ、一気にリールを巻き上げた。
バシャッ!
水面を激しく割り、日の光を反射させて飛沫を上げながら、勢いよく飛び出してきたのは。
「アジか」
足元の岩場に横たわったのは、側線の鋭いぜいごが特徴的な、銀色に輝く立派なアジだった。
ここは異世界の湖。当然、塩気など微塵もない淡水のはずだが、神様に授かったこの『万能釣り道具』のせいか、なぜか元居た世界で見慣れた魚まで釣れてしまう。
生態系も物理法則も無視した入れ食い状態。釣り人にとっては、これ以上ないチート環境だ。
「よし。今夜はアジの塩焼きだな」
丸々と太ったその魚体を見つめ、脳内で調理の手順を組み立てる。
薪を使い遠火でじっくりと焼き上げ、皮目がパリッとしたところに箸を入れれば、真っ白な身から脂が溢れ出すに違いない。想像するだけでよだれが出てくる。
「和真殿、あの時と同じ魚ですね!」
背後から凛とした声が聞こえてきた。
振り返ると、ルフィリアが立っていた。
「アジだ。美味いぞ。ルフィリアも食うだろ?」
「はい! ぜひ! それで、和真殿。今回はどのような料理にするのですか?」
彼女の目が、獲物を見つけた幼子のようにキラキラと輝いた。
「なんでもうまいと思うけど、今回は塩焼きかな」
「焼くのですね! ならば、すぐに火の準備をしてきます!」
ルフィリアは嬉しそうに声を弾ませると、足取りも軽く小枝を集めに森の方へと向かっていった。
「足りなそうだし、もう何匹か釣るか。何が釣れるか知らんけど」
俺は満足げに頷き、まだピチピチと跳ねるアジを万能釣り道具へと放り込んだ。
世界の危機だか魔王の復活だとか、俺には知ったこっちゃない。
俺は再びロッドを手に取り、静かに糸を垂らした。
水面に広がる波紋の先には、まだ見ぬ未知の獲物が潜んでいる。
今の俺にはそれだけでいい。
義務を捨てた勇者と、人生のすべてを釣りに捧げた転生者。
異世界釣り日誌は、始まったばかりだ。




