エピローグ
「オレはさァ」
間延びした声に思考の海から引き揚げられハッと顔を上げれば、向かいのソファに座っていたはずの王子がいつの間にか隣りに座っていた。
だらりとソファの背に身体を預け、話しかけてきたわりに視線は正面を向いたままだ。
「今は三番目の王子でよかったと思ってンだよね」
「なんですか急に」
「そこは『なんでですか』って聞くところじゃねェ?」
横目でこちらを見てくる。
ゲームでもないのに返事に特定の選択肢があるとは思わなかった。
「……なんでですか」
「まずお飾りの王子だからよその国への密偵に選ばれただろ?そんで行った先で気になる子見つけてさァ。なんかいつも気を張ってて大変そうだし一人の時は泣きそうな顔してるし、なんでだろってさ。んで、原因調べたらその子の婚約者が浮気してるって言うじゃん?最悪だと思ったね。うちの国じゃあ重罪だってのもあるけど。そうでなくてもこんな子差し置いて浮気しようってのがまた信じられねェ。それならオレがもらってもいいンじゃね?ってなるわけで」
「……は?」
「さすがに婚約者いるのはわかってるから手を出したらアウトだ。あ、オレの方は最初から潔白だからな!これまた第三王子だからってンで婚約とか急かされなかったんだよねェ。適当な所のお嬢さん連れて来られなくてよかったよかった!それでまァオレとしては破談の方向へ持って行きたかったわけだ。あちらさんも浮気相手とくっついてもらえば不満もないだろうってな」
「えっと……?」
立て続けに並べ立てられる言葉が少しも頭に入ってこない。
これはいったいなんの話なのだろうか。
「密偵の仕事も忘れちゃいないぞ。浮気の時点で得点はマイナスだが、それでもいずれ国を纏める指導者としての自覚があって務めを果たしているなら挽回の余地はある。いや、あった。残念ながらあいつはマイナス方向に驀進していった。あれは王太子でなくても駄目だろうよ。こんなのに付き合わされる方はたまったもんじゃねェよな。オレの気持ちはともかく、早く解放してやらないとと思った。思ったけど、これがまた頑固なのなァ……!」
いきなり頭を抱えて情けない声とともに天を仰ぐ。
第三王子でよかったという話ではなかったのか。何故今嘆いているのだ。
「女の方が精神の成熟が早いとは聞くが、もしや愛情を通り越して息子を見守る母親の気持ちになってンじゃないのかと思ったね!けど、オレが持ってくる情報をひとつ聞く度に傷ついてるのが見てとれてなァ……。たまらなくなる。……それでも自分の意思で決別を選んでくれてよかったよ。あれは今まで生きてきた中で一番長い一年だった」
身を起して王子が身体ごとこちらを向く。
この人の目に私はそんな風に見えていたのか。
笑えるくらい私の目にはサイモンしか映っていなかったのだ。人のことを言えたものじゃない。
そしてこの人は、一年をかけて馬鹿な私の、サイモンへの想いが終わるのを見届けてくれたのだ。
ぽたり、と雫が、ありがとうと歪な声が滑り落ちた。
見守っていてくれてありがとう。終わらせてくれてありがとう。
頭に温かな重みがかかって乱暴に揺すぶられる。
人になでられるのなんて本当に久しぶりで、それもまた新しい雫を押しだした。
「で、だ」
「はい?」
ひとしきり泣いて嗚咽も治まった頃、ロバート王子は真面目くさった顔でこちらを見ている。
ずっと頭をなで続けてくれていた手は、いまは膝の上で拳を作っていた。
酷い顔になっているだろうなとは思いつつ素直に彼の顔を見上げる。
「ようやくオレはお前を婚約者として手に入れたわけだが」
「人質として、ですよね?」
「こ・ん・や・く・しゃ・と・し・て!」
「えと、あの建前としてはそうですが……」
「建前とかどうでも、オレにとってお前は婚約者なの。お前はオレの話をちゃんと聞いていましたか!」
「だ、だってさっき仮面夫婦でもって」
「それも建前!ようやく泣かせるやつを追い払って堂々と手を出せる状況に持ち込んだンだからな!」
「あ、え、ててて手って……!」
「ちゃんとお前の気持ちが手に入るまでそういう意味ではだねェからそこは安心しろ。何しろ口説くことすらできずに一年お預け喰らったんだからな。余裕余裕。だから甘やかして口説くくらいは許せ?」
ぐっと顔が近くなる。後ろをソファの背に塞がれてこれ以上は下がれない。
真剣な目から目が離せず、あわあわと言葉にならない声が口から勝手にこぼれていく。
「返事は?」
「ぅ、あ……っ」
「まァ時間はたっぷりあるしな」
ニッと笑って私から離れた彼は、元の向かいのソファに戻ってお茶を飲み始めた。
いまのは冗談だったのだろうか?冗談にしては心臓に悪過ぎるのだけれど。
などと胸を押さえながら思っていると、「本気だからな」と睨まれてしまった。
「ふん。ゆっくりやっていくさ。まずはいっつも気を張ってるお前を甘やかすのと、第三王子の適当生活っぷりを伝授するところからだ」
「適当生活を伝授……?」
「オレ様直伝だ、覚悟しろ?」
真顔で言われて思わずなんですかそれ、とふき出してしまった。
それなのに、
「ニーナ、ここの生活に退屈になって何かやりたくなったら必ずオレに言え。一緒に出来ることを探そう」
そんな風に微笑んで言われてしまったら、せっかく止まった涙がまたあふれてしまうじゃないか。
本当に私を甘やかす気でいるようでたまらない。
だけど、この人といればきっと退屈に感じる暇なんてないのではないかと思うのだ。
物語のシナリオに逆らってここまで来た。
いまさら自分の足でまっさらな世界を歩いて行くことに恐れはないけれど、それでもいつかより添うのならこの人がいいと思えた。
だから、
「よろしくお願いします、ロバート様」
いつかまた誰かを、あなたを愛せるようになりますように。
頭にのせられた手は、やっぱりあたたかかった。