第12章 <最終話>
鬱蒼と茂った森の中に、突然、六つの光が漂った。その光はくるくると舞うように降下し、ある一角を眩く照らした。間もなく、地面に何かが落ちる音が続く。
「いたっ……」
どうやら尻餅をついたようだ。美輝は両手をついて起き上がろうとして、自分の姿に驚愕した。両手の爪には派手なネイルアートが施され、肩から流れ落ちる髪は明るい茶色、ロングスカートは絹の裳に似ているが現代的な幾何学模様の綿製品だった。
「戻ったんだ、あたし」
はっと首元に手をやると、ふわっとした慣れた肌触りの布がちゃんと巻き付いていた。すごい、領巾は消えなかったんだ!
隣を見ると貴子と潤が呆けたように座り、呼吸を整えていた。とりあえず無事のようだ。
「大丈夫か、陽一?」
「ん…… 全身痛い気がするけどまぁ平気」
陽一は自分の妻の無事を確認しようと顔を上げ、目の前に第三の男が仰向けに倒れてじっと虚空を見つめているのを発見した。それは、彼の親友だった。
「た、つ、なり…… お前、何でここに…… 残ったんじゃなかったのか?」
「知らねぇよ。俺は残ったつもりだった。みんなをあの場所で見送って、気づいたら、今、ここにいた」
勾玉の力は持ち主の意図とは関係なく、元いた場所に戻してしまったということか。あの時代に存在してはならない竜成がどんなに願っても、古代に生きることは許されなかったのだ。
ということは、つまり――。
「香紀!? どこっ!?」
りらのその両腕に、宝物はなかった。夢のわだを進むときにはしっかりと抱きしめ、感触も確かにあったはずだ。しかし、どこにも香紀の姿はなく、りらの両腕が抱えていたのは現代から持ってきたバッグだった。
りらは肩で息をするほどパニックに陥っていた。陽一がりらの上半身を抱きかかえ、落ち着かせようとする。息を詰まらせて娘の名前を呼び続けるりらであったが、涙は一筋もこぼさなかった。涙は古代に全部置いてきてしまったのだ。
「りらさん…… 香紀は飛鳥に必要とされてたんだよ。オオシアマとサララが…… 天皇と皇后だぞ、二人が面倒を見てくれるから、ちゃんと元気に成長してくれるよ」
妻が涙を見せない手前、陽一が泣くわけにはいかなかった。陽一だって生まれたばかりの我が子を取り戻しに古代に行きたいと願うほど、こんな残酷な仕打ちには耐えられなかった。だが、もうどうしようもないのだ。誰を誰と引き合わせ、誰が誰から去るのかはオオクニヌシの采配の結果なのだから。
陽一はそっとりらを立ち上がらせた。進もう前へ。帰ろう東京の家へ。
六人はおそるおそる森の中を歩いた。明るく開けた場所に向かい、耳を澄ますと人の声や動く音が聞こえてきた。
「ここ、神社だ。参拝客もいる」
思い切って木々の間から飛び出し、神社の正面にやってきた。神社の名前は玉造湯神社。りらの祖父母の旅館からすぐ近くの場所だ。この神社には願い石という不思議な力を持つと言われる丸い石が祀られていて、若い女性に人気のパワースポットでもあった。実はあの米軍ヘリ墜落事故がなく、何事も起こらなければ翌日にはこの神社に来る予定だった。
「今、何年何月だろう」
それが問題だった。見たところ参拝客は自分たちが見ても違和感のない恰好をしているし、スマホのカメラで写真を撮っていたりする。階段を下り、鳥居付近の受付を通り過ぎる時、潤は受付に置かれていたデジタル式のカレンダーを目視した。
「あの日の翌日だ……」
カレンダーの日付は間違いなく、六人が古代に飛ばされた運命の日の次の日を示していた。一度、りらたちがイズモから戻ってきた時に一晩明かしたからだろう。古代では少なくとも二年は過ごしたにもかかわらず、現代の時計は全く進んでいなかったらしい。貴子と竜成は一度も戻っていないが、ロスしたのは半日分だけだ。これなら海外旅行と変わらない。
「一日も動いてなかったんだ…… それなら、私と陽一さんの間に子供が生まれてるなんて、あり得ないよね」
そう、だってあの日はまだりらは陽一の気持ちすら知らなかったのだ。
玉造神社を出て、玉湯川沿いに右折すると大型のホテルに行きつく。陽一は機転を利かせてホテルに入ると、ロビーに備え付けられている新聞を探した。
「あった、地元紙」
一面にはあの米軍ヘリ墜落事故が記載されている。見出しは「米軍機、出雲大社を直撃。全国から怒りの声」であった。事故はやはり現実に起こったことだった。そして、オオクニヌシとオオヒルメがタカミムスヒに勝利したからと言って、帳消しになるものでもなかったようだ。
ロビーのソファに腰かけ、記事を隅から隅まで読んだが、発生間もないことなのでだいぶ情報が錯綜している。事故機が偵察目的だということもあり、米軍が素直に状況を伝えるとは思えない。この手の話に詳しいのは唯一、潤だけだったので手短に説明をした。
「最近ようやく沖縄の在日米軍問題も下火になってきたのに、これで一気に逆戻りだな。出雲大社は平成の大遷宮が終わってまだ五年ちょっとしか経ってない。それなのによりによって本殿が大破炎上だもんな」
新聞記事によると、ヘリに搭乗していた兵士たちは直前に脱出し無事だったらしい。突然、全ての計器が狂い、見えない大きな手で機体が掴まれたような感覚だったという。スポーツ新聞には、操縦士は恐怖のあまり、カミカゼの呪いだなどと口走っているとまことしやかに書かれていたが本当のところはわからない。
「潤の仕事に影響あるのか、やっぱり? 『日米同盟破棄か』なんて書いてあるけど」
一応ジャーナリストとして世事に関心を持っている竜成が尋ねた。
「いや。日米同盟云々は、政治の話だから。俺はいつも通り管制業務をするだけ。官邸と市ヶ谷は青ざめてるだろうね」
一通りの情報収集を終えると、大型ホテルの反対側の小路にある紅玉亭に向かった。ちらほらとチェックインする客がおり、りらの祖母豊子が接客をしていた。
「おばあちゃん、ただいま」
客足がひと段落し、りらは声を掛けた。二年ぶりに豊子の優しい笑顔を見て、りらは思わず駆け寄って、祖母に抱きついた。
「あらあら、どうしたの?」
しばらく無言で抱きついている孫娘の様子に驚いた豊子だったが、微笑みながらりらの背中を撫でてやった。
長い長い夏休みが終わった。
結局全員が紅玉亭で最後の一晩を過ごすことになり、豊子はたった一日で新しい友達を三人も作ってきてしまった孫娘に驚きつつも、快く部屋を用意した。もちろん豊子はりらが二年間も古代で過ごし、この世で最も大切な人を失ったことなど知る由もなかった。
潤は貴子を松江市内の自宅に送り届け、美保基地に帰っていった。陽一、りら、竜成は予定通り復路の飛行機に乗り、羽田へ飛んだ。美輝は出雲市内に滞在している専門学校の仲間の元へ合流した。再び現代人として今までの生活に戻るのだ。
誰しも同じ感覚に陥るが、夏休み明けは仕事に行きたくない。陽一にとってはもう二年間も休職していたような気分だ。大津宮でも飛鳥宮でも建築の仕事に従事していたが、何もかもが手書き手作りで、久しぶりに見るデジタル化された作業場の方が異世界に思えた。
「おはようございます。休み中、何かありましたか?」
陽一は上司や同僚に挨拶をしながら、お土産をポッドとコーヒーメーカーの横に置いた。上司がどれどれと覗きに来る。蜂蜜風味で美味しいと評判のオオクニヌシサブレの箱だ。
「出雲大社行ってたのか。ニュース見たぞ、ありゃーとんでもねぇな。日米同盟なんぞ、解消してしまえってんだ」
「大遷宮が終わったばっかって言うのによ。罰当たりにもほどがある!」
墜落事故は、神社仏閣の建築に携わる丹波ソリューションの従業員をヒートアップさせ、下町の口の悪さと相まって米軍に対する批判が花咲くほどの衝撃だった。
数日後、夏休み前から取り組んでいた課題を上司に提出した。課題は、町おこしの一環として伝統的建築物を建てる場合、留意すべき事項は何か検討せよというものだった。文章と図面などで二十ページ弱のレポート形式にまとめた。
――正確に再現すること、景観に配慮することの他に、地域の住民にとって老若男女に関わらず郷土への愛着がさらに高まるような建築物にすること。
それが陽一の出した答えだった。当たり前の留意点に思えるが、あまりにもモダンなデザインを取り入れて高齢者から不評を買ったり、歴史に忠実であるあまり地味すぎて魅力を感じられない建築物は意外と多い。だからもしその建築物ができることで、地元の人たちやその土地を愛する人たちの誇りを失わせてしまうことになりかねない場合は、建築物なんてなくても良いのだと陽一は考えている。
翌日、社長室からふらっと出てきた作業着姿の丹波雅和は図面の前で悪戦苦闘している陽一の前に来ると、にやりと笑った。
「俺たちの出番だよ。今回の事故で大破したお社を素早く修復するために、全国の宮大工が総力を挙げて取り組むことになった」
「そうなんですか?」
「長柄、いい仕事がある。お前、出雲に行ってこい。ぶっ壊れた大社の修復だ。完璧に直して米軍の度肝を抜いてやれ」
「はい? えっ、何ですか、俺が?」
「そんなアホみたいな面すんなよ。他の奴に任せちまうぞ」
「あっ、それは勘弁してください。行ってきます。やります、オオクニヌシのリベンジしてきます」
まさか修復チームの末端に選ばれるなんて。確か大遷宮は五年の歳月をかけて丁寧に本殿を新しく作り変えるものだ。臨時の修復なんておそらく前代未聞のことだろう。早急にということで五年はかからないかもしれないが、この仕事がメインで追われることになる。飛鳥宮の復元についてなど、こんな時に話そうものなら上司に一蹴されて終わりだ。
丹波ソリューションは関東が活動拠点だが、腕のいい宮大工や体力のある若手の技術者が揃っていたため、出雲大社の臨時修復事業に加わることになった。その準備と通常業務が平行してやってきたせいで、陽一はしばらくりらに会うことができなかった。古代では夫婦だったのに、今ではまたただの恋人どうしの関係に戻っている。それでも、思いを伝えられなかった苦しい時期に比べればどうということはない。
りらがお土産を持って出勤すると、すぐさま訃報に直面した。ケアマネ主任はりらを個室に呼ぶと、利用者の坂倉なみさんが一昨日、息を引き取ったと告げ、桜色の便箋を手渡した。りらはショックで声が出なかった。自分が夏休み中にそんな突然、亡くなるなんて。
「これは? 私に、ですか?」
「そう、枕元に置いてあったの。桧枝さん宛てだったから、読んだりしてないわよ」
几帳面に折りたたまれた便箋を開くと、筆ペンで一文が書かれていた。まるでお話の終わりのような言葉だった。
――櫛名田比売は幸せに暮らしました。
どういう意味だろう。これ、クシナダヒメって読むんだよね。あれ、そういえば板倉さんってクシナダヒメの話、したことあったかな。いつもアマテラスの話ばかりだった気がするけど。でも、幸せに暮らしたんだったら、まぁ、いいのかな。
ひと月経った後の土曜日、りらは陽一が久しぶりに祖父の面会にアーバンパーク湊を訪ねるという連絡をもらった。メールや電話はしていたが、会うのはあれから初めてだ。
「ごめん、忙しいからって放置してたみたいで」
祖父の面会が終わり、陽一は玄関口でりらと立ち話をした。夜は早く上がれるようなので、夕飯を一緒に食べることにした。たくさん話さなければならないことがあるのだ。
地元の居酒屋に入り個室に案内してもらうと、陽一は濃紅色の小さな絹の袋を差し出した。
「何? 開けていいの?」
「うん、驚くよ」
予想通り、りらは目を丸くし、見てはいけないものを見てしまったかのように袋を陽一に返した。
「オロチの耳飾りがどうして陽一さんのとこにあるの? オオシアマがつけてたものは?」
「彼のは偽物。俺と潤が一つずつ本物をもらった。オオシアマが未来でも出雲の心を継ぐ人間に持っててほしいって言うからさ」
「じゃあ、クサカベやオオツにはもうオロチの耳飾りが譲られることはないんだね」
オオシアマはあっさりと大事な継承の証を未来の若者たちに託してしまった。自分はもはや出雲だけの王ではないと言って。
「りらさん、またピアスしてる?」
「うん、お休みの日はね」
「この耳飾りは、りらさんがしてよ。時々でいいからさ」
絹の小袋は再びりらの手元に戻ってきた。
「あとさ、俺たちの結婚のことなんだけど、いつりらさんのお父さんに話したらいいかな。できれば余裕がある時の方がいいよね」
今の二人にとって最大の重要案件であり、関門だと思っていた。りらの父親は頑固親父というタイプではないようだが、やはり下町の職人気質の男性となれば一筋縄では行かないかもしれない。
「たぶん今の時期はまだ忙しくないから、会ってくれる時間はあると思う。お父さんに聞いてみるね」
りらは陽一から受け取った耳飾りをその場で左耳に着けた。右耳には夏の夜空に燃えるアンタレスのようなルビーのスワロフスキーがついたピアスをしている。
りらが帰宅すると、珍しく兄が父と酒を飲んでいた。いつもはすぐに自分の家族が待つ家に帰ってしまうのだ。
「あ、もしかしてお兄ちゃん、お義姉さんとケンカでもしたの?」
半分からかいながら、りらは兄の隣に座った。
「まさか。昨日から子供連れてあっちの岡山の実家に帰ってるんだよ。夏休みは忙しかったからね。俺も明日から顔出しに行こうと思ってるけど。りらこそ外で食べてくるなんて珍しいじゃないか、彼氏か?」
「え、うん、そうだけど……」
まさにその話をしようと思っていただけに、りらは動揺した。しかし、さらに動揺する言葉が父の口から出てきた。
「りら、そのピアスどうしたんだ? 左側の方。誰にもらったんだ?」
確かにあまりピアスにはない奇妙なデザインで人目につくものだが、父はどこで買ったのかではなく、誰にもらったのかと尋ねた。
「あの、お付き合いしてる人にもらったんだけど…… これが何かあるの?」
「彼氏はどういう人だい? 近いうちに会わせてくれないかな」
棚からぼたもちだ! 理由はわからないが、父親から交際相手に会いたいと言ってくるなんてチャンスではないか。
「お父さん、実は私も会ってほしいと思ってたところだったんだ。大学時代の友達で、今は建築家として働いてる。建築家って言っても普通の家じゃなくて、お寺とか神社とかが専門なんだけど。彼は……真面目でとっても優しい人」
「そうか……」
意外な展開に兄の魁は驚いている。妹はいつも飄々として介護の仕事に熱心で、恋愛にあまり興味がないと思っていたが、どうやら見当違いだったようだ。
「りら、その不思議な耳飾りのことは、昔、松江のお義母さんから聞いたよ」
松江のお義母さんとは豊子のことだ。でもなぜおばあちゃんがオロチの耳飾りを知ってるの? お父さんと関係あるの? りらは鼓動が速くなっているのを感じた。
「咲夜ちゃんはね、本当はその耳飾りを持った人と結婚しなきゃいけなかったんだ」
りらは耳を疑った。まさか陽一のことではないだろうから、また別に耳飾りを持った父親と同じくらいの年の男性がいたということだろうか。
「親父、言ってる意味わかんないんだけど?」
一番混乱していたのは魁だった。魁は奇妙な耳飾りの話も何も知らず、父と妹の間に秘密めいた会話が繰り広げられようとしていることに不安を感じた。
啓太は息子にも向き合い、続きを語り始めた。
「松江の両親が温泉旅館をやってるのは、それが出雲の神々の力が宿る湯を守るためだ。ずっと昔からそうしてきたらしい。当然、旅館を継ぐ子孫が必要だね。不思議なことに、その子孫は今りらがしてるピアスを持った人を選ぶことになるそうだよ」
「でも、お父さんはこの耳飾りなんて知らなかったんでしょ?」
「そう。咲夜ちゃんは旅館も継がなかったし、耳飾りを持ってない男と結婚した。だから、その代償として突然亡くなったんだ……」
数秒間の沈黙の後、机をバシンと叩いた音が食卓に響いた。
「親父、そんな話真に受けてんのか?! 神の罰でお袋が死んだって? いくらあの温泉街が古くからあるからってバカバカしいにもほどがあるぞ」
身をのりだし、啓太を睨み付けている。りらは久しぶりによく父の顔を見た。いつの間に目尻に細かい皺が増えたのだろう。父は勇ましくて以前はよく兄と口論していたが、今の顔はただ悲しそうな初老の男のものだ。
「咲夜ちゃんには申し訳ないことをしたと思ってる。俺と出会ったのが早かったんだな、きっと」
「でも、お父さん、誰を愛するのかは神様だって決められないと思う……」
「そうだよ。本当に信じてるのか、ばあさんの与太話かもしれないのに」
「父さんもさっきまではそう思ってたよ。信じられるかい、たとえ咲夜ちゃんのお母さんの話でも。現物を見せてくれと言っても、模写した絵しか渡してくれないし、耳飾りはいつの間にかなくなったなんて言うし、作り話だと思ってた。でも、りらの耳を見てようやく信じる気になった」
啓太はふうと大きな溜め息をつき、ぎこちなく微笑んで娘に言った。
「りらは良い相手に巡り会えたね。一緒になりたいんだろ?」
「……いいの?」
「反対する理由はないよ。ただ、近々会わせてほしいね。それだけだ」
りらは拍子抜けした。陽一が出てくるまでもなく結婚の許可が降りてしまった。しかし、旅館を継ぐという話はどうしたら良いのか。陽一は一人っ子で、建築家としての夢があり、りらもその夢を見たいと思っているのだ。今さら玉造で旅館経営などできるわけがない。
「お義母さんがね、旅館はもう近所の別の旅館に売却することになったと言ってたよ。別館として使ってもらうんだって」
「そう、なんだ……」
考えてみれば祖父母ももうとっくに引退していい歳だ。それに、もし咲夜が生まれていなければ、どのみち旅館の継手は存在せず誰かに引き取ってもらうしかなかったのだ。
「紅玉亭は大正時代から始まったらしいね。でもその前は、別の旅館だったし、経営者も別の家族だったみたいなんだ。ただ、神の湯だけはその耳飾りを持った人たちに守られてきている。だから、りらは心配しなくていいんだよ。神の湯を忘れずに、時々お参りすれば」
だが、啓太は知らなかった。旅館つまり神の湯の祭祀を引き継がないという代償を、既に娘が払っていたということを。そして、りらは香紀を失った意味を悟った。
「お父さん、話してくれてありがとう。この耳飾りは色んな物を背負ってるんだね。選ばれたり選ばれなかったり、受け継いだり受け継がれなかったり。でも、私は神の湯を枯らしたりしないよ。旅館はダメでも、陽一さんと一緒なら出雲の神様たちの力を守ることができると思う」
りらはイズモの温泉を思い出した。オオクニヌシは温泉を人々の癒しの場として開放し、傷病者に分け与えた。神の湯はこの国に必要なのだ。
神の湯だけではない。りらと陽一はオオクニヌシの国、それを甦らせたオオシアマの国を守りたかった。オオシアマがオロチの耳飾りを二人に託したのは、日の光輝く海の国を忘れないでほしいと思ったからだ。
「りらはばあさんの話、信じてるんだな」
釈然としない様子の魁は、妹の顔を見ずに一人で焼酎を飲んでいる。これではあまりにも母親がかわいそうだ。
「信じてるかどうかは、わからない。でも、誰かが残そうとしたものは守るべきじゃないかなぁ」
咲夜はたぶん、自分の子や孫を自由にしたかったのだとりらは考えた。自分が神の湯を守るためにオロチの耳飾りを持っている人と結婚すれば、その子供はまた同じ道を歩まなければならない。それを振り切るために、桧枝啓太に巡り合ったのだ。咲夜にとっては神の湯よりも大事なものがあった。ただそれだけだ。
香紀を失ったという傷は絶対に癒えない。考えないように、忘れるように努力している。敢えて仕事に打ち込んでいる。それでも一つ救いがあるとすれば、香紀は黄泉の国に旅立ったわけではないということだ。香紀は古代とりらを結ぶ印としてあの時代に残されたに違いない。
咲夜が振り切ろうとしたオロチの耳飾りは、結局、娘の手が掴み取った。
その週末、陽一はりらの父親と兄と対面し、「りらさんを生涯の伴侶にしたいと思っています」と少々緊張した面持ちで伝えた。啓太は一言、よろしく頼むよと返した。
窓の景色が急激に傾いた。重力がかかり、体が座席に押し付けられる。窓に頬を寄せて外を見るとどこかの通りの桜並木が視界に入った。九十分後には出雲空港に着陸する予定だ。
りらは航空券に印字された名前に微笑んだ。
――MS. Rira Nagatsuka
ようやく夫と一緒に同じ家で暮らすことができると思うと胸が高鳴った。りらの父親から結婚の許可を得た後、自分の両親にりらを紹介してこちらも快諾してもらうと、陽一は上司たちと共に一足先に出雲市に入り、出雲大社の修復作業に取りかかった。長丁場になりそうだというので、出雲市内に部屋を借りてりらを迎えることにした。りらはアーバンパーク湊を退職したが、新しい土地でも介護に従事することになった。稲佐の浜と神戸川の中間に建つこじんまりしたデイケアセンターである。
りらは新聞を持って回ってきたキャビンアテンダントから一紙もらい、文化面を開いた。
……奈良県立橿原考古学研究所は、七日、飛鳥宮遺構の正殿付近から新たに鉄製の刀や鏡など二十点を超える出土があったと発表した。えー、うそ、これってオオシアマのものってこと? 鉄製の刀の柄部分には翡翠などの石が北斗七星の形に埋め込まれており、通常祭祀に使用される刀に比べて大きく、実用的であることから、同研究所は使用目的について詳しい調査が必要だとしている…… ふーん、北斗七星かぁ。まるで……。
そこまで頭の中で独り言を言って、りらはあっと声をあげてしまった。幸い隣の席の女性はイヤホンをしていた。
新聞の写真に写っている刀は、確かに見覚えがあった。五十里くんが持ってた刀だよね、これ! 正月の行事で潤が星川摩呂に挑んだ試合で使われていたものに違いない。
出雲空港に到着すると陽一がロビーで待っていた。妻の到着に笑顔だったが、少し興奮気味な理由はそれだけではない。
「飛鳥宮のニュース見た?」
「うん、見たよ。あれは絶対、星降るの剣だね」
「そっか、星降るの剣って言うのかぁ」
「あー、研究所に教えてあげたいよ! この剣は正月の真剣勝負で使われた後に内安殿に奉納されたものです、って」
残念だがたとえ教えたところで信じてもらえないだろう。しかし、陽一は飛鳥宮の復元を諦めていなかった。もちろん建築家一人が主張しても何もならないことはわかっている。とりあえず、若造の自分にできることはまず出雲大社修復に全力を尽くすことだった。
俺の宮殿のことはいいから、早くオオクニヌシの社を直してくれと、オオシアマなら言うに違いない。
ある朝、りらが郵便受けを見に行くと冊子が入った封筒が投函されていた。差出人は竜成である。
冊子は『旅の宙特別号』、表紙にはトラベルライティングアワード受賞ジャーナリスト鄭竜成とあった。
竜成は出版社に出勤するや自分の担当範囲だった出雲地方の編集企画書を提出し、さらに飛鳥地方にも手を出した。自腹でいいからと上司を説得したあげく、明日香村に一週間滞在して取材をしたらしい。
そして「僕が古代を旅したら」というタイトルの長編紀行文を書き上げた。現代の旅人が古代にタイムスリップしてしまったという設定で、傍から見ればほとんど妄想のエッセイのようなものだったが、実際に古代で見聞きしたことをアレンジして書いたものだから、妙にリアリティーがあった。写真の撮り方も、通常は思い付かない角度のショットで、まるでそこに古代人があるいは古代の建物が実在しているかのように見えるのが斬新だった。一般の旅好き読者だけでなく、考古学者や歴史学者からも多くの反響があったという。
りらはこのくだりが好きだった。竜成の偽らざる愛情が読み取れる。
――僕は朱奈という謡女に恋をした。天皇直属の芸能集団の一人で、かつては各地を旅して興行していたらしい。出雲の神楽や里の舞いを飽きもせず踊り謡う姿は、素朴な太陽の女神大日女を思わせた。僕は朱奈を現代に連れて帰りたいと思ったが、飛鳥の方こそ朱奈を恋しがるだろう。
“茜さす日の照る謡女ひるがへり甘樫丘に風通ふ”
現代人の僕が頭を捻って考えた歌を、朱奈は口ずさんでくれただろうか。
潤と貴子とは比較的よく会っていた。というのも、同じ県内に住むことになったからだ。
今や四人は七世紀の日本のことなら、史学科の一年生よりもよくわかっていた。しかし、歴史とは残酷な結果を生み出すものだということも知った。
あれから五年後、トオチは十八歳という花の盛りに宮中で病死した。父のオオシアマは声を上げて泣いたそうだ。そして、オオシアマが亡くなると、オオツは兄のクサカベに対する謀反の罪で捕らえられ死を賜った。伊勢の斎宮で巫を務めていた姉のオオクは役目を解任され、飛鳥に戻されたようだ。
あれほど仲の良い兄弟だったのに、やはり皇位継承という魔力からは逃れられなかったということか。世間ではサララの陰謀だと言われているようだが、りらには信じられなかった。少なくとも憎くて排除したとは思えない。
さらに不幸なことに、三年後にクサカベもまたアエとの間に三人の子を残してこの世を去ってしまった。享年二十七歳だった。
「オオシアマの息子たちがこんなにあっさり若くして亡くなってしまうなんて…… タケチとサララががんばるしかなかったんだな」
もしかしたら、息子たちに本物のオロチの耳飾りを譲らなかったのが原因なのではないか。潤と陽一はもっと頑なに受けとることを拒むべきだったと後悔した。自分たちがもらうのは別に贋作でもよかったのだ。
「だけど、オオシアマが血統を重視してたら危機的だったけど、彼はそれでは揺るがない制度を作ることを第一に考えてた。それが救いだったかもしれないな」
「サララは政治に慣れてたし…… それに! あのアエにクサカベの子が三人もいたなんてね。しかも、アエは元明天皇、その子供二人も文武天皇と元正天皇として即位したって」
お転婆でおませなアエのことだから、きっと元気なお母さんになったに違いない。クサカベは尻に敷かれているのだろうか。
しかし、陽一とりらには一つどうしても解せないことがあった。それは二人が取り組んだ歴史書の存在だ。オオシアマから出雲王国の成立と滅亡を見聞きした通りに記すことという指示を受けて、大部分はまとめ終えた。オオトモとの戦も事の発端と出雲との関わりを細かく書いたはずなのに、どこを探しても自分たちが記したような歴史書は見当たらないのだ。
「古代に関する記録で有名なのは『日本書紀』でしょ。『古事記』もあるね。だけど、私たちがまとめたような話じゃない。『古事記』は大部分が出雲の話だけど、結局国譲りをしてしまってるし、『日本書紀』に至ってはほとんどオオクニヌシは出てこない。それにオオシアマが挙兵した理由も、よくわからないね」
「病床の天智天皇から事後を託されたけど、身の危険を感じて吉野山に引き下がったってことになってる。それは間違いじゃないけど、すごく消極的だ。オオシアマ自身にも戦う理由があったのに」
オオシアマはあれほど出雲にこだわっていた。それなのにどこにもオオシアマが挙兵した理由は記されていなかった。
さらには、陽一たちの名を示すような言葉も見当たらない。『日本書紀』の編纂を担ったのは川嶋皇子や忍壁皇子で、完成させたのは舎人親王だ。『古事記』は太安万侶が奏上したが、編纂に関わった人物に稗田阿礼というオオシアマの舎人がいる。記憶力が優れていたので『帝紀』や『旧辞』などを暗唱するよう命じられたらしい。
「稗田かぁ。音で考えると、桧枝と同じだね。もしかして、りらちゃんのことだったりして」
「でも舎人って男性じゃないの?」
「だけど、そんな舎人に会った覚えないよ」
四人で知恵を絞ろうにも、結局、出雲王国の滅亡の話がないことも、オオシアマの挙兵の理由が書かれていないことも説明がつかなかった。もはや四人にはその経緯を知る術がなかった。
もう一つ、彼らの知りたいことがあった。香紀のその後である。夢のわだで香紀は未来に行くことを拒まれ、その場に残された。そうであれば、オオシアマとサララが引き取って育ててくれたに違いない。それは、約束したことでもあった。
「香紀っていう女性の名前は『古事記』にも『日本書紀』にも出てこないし、『万葉集』にも見つからなかった」
陽一はウェブ上で香紀の名を検索してみたが、歴史的人物でヒットする人物は皆無だった。だが、オオシアマに関係する女性で一人だけ怪しい人物がいることがわかった。
「それが、この女性だよ」
陽一が指示したウェブ上のページを、潤と貴子が覗き込んだ。
「きのこうじょ、って読めばいいの?」
「そう、紀皇女」
オオシアマには九人の妻が存在し、娘は七人生まれた。しかし、一人だけその生没年も生涯も不明な皇女がいるのだ。
「俺たちは会ったことがなかったけど、香紀はオオシアマの妻のオオヌ姫の元で紀皇女として育てられたのだと思う。どういう女性に育ったのか、誰と結婚したのか、いつ死んだのか全くわからない。俺たちの娘だとしたら、歴史の表舞台には出てこなかったんだろうね」
紀皇女には歌が残されている。
――軽の池の浦み行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
軽というのは、軽皇子つまりクサカベとアエの長男、文武天皇を指すという見解があるが、実際に男女関係にあったのかは不明だ。紀皇女は弓削皇子というオオシアマの息子から歌を贈られている。彼らの関係についても確たることは言えない。もしかしたら、紀皇女の歌は弓削皇子に送ったものかもしれない。
できることなら香紀にもう一度会いたい。美人に成長してくれるはずだ。文献に彼女の生涯が少しでも記載されていればどれほど救われたことか。しかし、歴史書は口をつぐんでいる。
この日、潤と貴子は陽一の自宅に泊まり、夜通し七世紀の思い出を語り合った。
男性二人はリビングのソファで寝ることになり、りらと貴子は一緒にベッドにもぐりこんだ。
「貴子ちゃん、その指環、素敵なデザインだね」
りらは指環をつんつんと優しく指先でつついた。
「ありがとう。もらったばかりなの。来年の春、潤くんのお嫁さんになるんだ」
また一組、オロチの耳飾りを受け継ぐ夫婦が誕生することになった。
焦げ茶色のブーツが石畳を小気味よくうち鳴らし、クリスマスソングの流れるシャンゼリゼ通りを抜けていく。
黒い細身のコートの首元にはエメラルドグリーンのストールが無造作に巻かれていた。
美輝は片時も古代の領巾を手放さなかった。この美しい絹織物が映えるように、美輝は今まで好んでいた派手なまとまりのない色の服装を止め、モノトーンの服を着るようになった。それがかえって、洗練されたスタイルとなり以前とは違った魅力を与えている。
なぜ美輝がパリの大通りを闊歩しているのかと言えば、発端は専門学校の出雲公演だった。
「皆さん! 嬉しい知らせがあります。えー、我が学校の舞踏部門が行った現代神楽舞の出雲公演ですが、その場にパリ、フランスですよ! パリのダンススクールの校長がいらっしゃっていて、是非フランスで披露してほしいと招待されました。しかし、公演はクリスマスです。短期間ですが練習に励んでください」
学校長が名前を挙げたパリのダンススクールは舞踊を専門とする学生の間では憧れの学校で、当然、美輝も知っていた。何かのコンクールに出場するというわけではなかったが、スクールのクリスマス公演にゲスト出演できるだけでも名誉なことだ。
「ママ! あたし、パリに行くことになった!」
帰宅した美輝が真っ先に母親に伝えると、母親は一緒に行くと言い出し、とうとう父親まで見に来ることになった。猫は叔母の家で留守番だ。
その公演はとても奇妙で幻想的だった。ヨーロッパ各地から集まった観客は、初めての日本からのゲストパフォーマーの舞台に魅せられた。イズモという初めて聞く日本の土地に古くから伝わる伝承をモチーフにした伝統芸能が、現代的な音と光で甦り、原始の祈りをパリに羽ばたかせた。スサノオは力強く、クシナダヒメはたおやかに、ヤマタノオロチは荒々しく舞台を駆け巡った。
出雲王国の物語を始めに紹介したらどうですか、と美輝は舞踊部門長に提案した。日本人でさえ神話を知っている人はあまりいない、まして外国人はなおさら未知の世界だろう。舞台演出部門の仲間に協力してもらい、出雲王国の物語は影絵で表現することにした。繊細な影絵とダイナミックな神楽の対比は観客を惹き付けるのに成功したようだ。
「じゃあ、ママたちは一日観光したら帰るわね」
娘の公演が大盛況だったことに満足した両親は、そのままルーブル美術館に行ってしまった。明日はヴェルサイユ宮殿らしい。本当は観光が目的だったんじゃないと美輝は苦笑した。
たまには一人で散歩でもしてみようと、適当にシャンゼリゼ通りを歩き始めたのだが、クリスマスシーズンで開いている店がほとんどない。仕方ないと向きを変えてセーヌ川を目指す。
「ふぅん、ここ、グラン・パレっていうんだ」
ガラス屋根で覆われた左右対称の壮大な石造りの建物に圧倒されながら、美輝はセーヌ川にかかる橋を渡った。橋を渡れば、アンヴァリッドという歴史的建造物と広場である。
美輝は橋の中腹で立ち止まり、欄干に寄りかかった。橋でさえ豪華な装飾が施され、見上げればアールヌーボーの街灯や黄金の女神像が視界に入ってくる。
「うわー、出雲の神様が見たら腰抜かすわ」
わざわざ出雲の神を持ち出さなくても驚くような華麗さだが、今の美輝の頭は神楽公演の余韻に浸っているのだ。ぽかんとして黄金の女神像を見上げていた美輝は、隣にふと人の気配を感じた。
「すごいよね。アレクサンドル三世橋って言うんだよ、徳永美輝さん」
その青年は日本人にしては背が高く目鼻立ちがくっきりとしていて、ほどよく低い声が暖かく心地よかった。
「どうしてあたしの名前を知ってるの?」
「舞踏公演で見たからだよ。今、出雲の神様って独り言言ってたし、そうかなって」
そういえば、プログラムには出場者の顔写真と簡単なプロフィールが掲載されていた。
「お客さんだったの?」
青年は頭を横に振った。
「僕は音楽学校の学生なんだ。フルートの。うちの音楽学校はよくダンス公演の生演奏を頼まれるんだけど、今回も支援してきたところだよ」
よく見れば楽器のケースを肩にかけている。海外公演だという意識が働いてしまい、あの建物は外国人ばかりだと思い込んでいた美輝は思わぬ同胞との出会いに嬉しくなった。
美輝が笑顔を見せると、青年は美輝の首元に手を伸ばした。どきん、と大きく鼓動が跳ねる。青年は領巾にそっと触れると、悪いことをしてしまったかのようにまたすぐに手を引っ込めた。
「そのストール、とてもきれいだね。公演の時も身に付けてたでしょう? ずっと、気になってたんだ」
「え……?」
また鼓動が大きく振れ、胸の奥底がきゅっと熱くなった。冬の寒さを忘れるくらい顔が火照っている。
「変だね、僕は昔、あなたに会った気がする。どこか…… 思い出せないけど、そのストールに見覚えがあるんだよ」
そうだ、どうして初対面の男性にこんなにドキドキしてしまうのかわかった。この領巾を目印に真っ先に美輝を探し出してくれる人。それは――
「あなた、孝恭なの……?」
美輝は長身の青年を見つめた。
「ひょごん? 外国に僕に似てる人がいるのかな? まぁ、そう呼んでもかまわないけど。でも、僕は……」
面白そうに笑うと、青年は腰を屈めて顔を美輝の耳元に近づけた。そして、自分の名前をささやくように告げる。
「美輝さん、せっかくだからどこか暖かいカフェに行こうよ。ここは芸術の都パリだよ! 僕たち、芸術家だろ? もっと出雲の神様のことを教えてよ」
勝手に決めてしまって、美輝の承諾を聞く前にアンヴァリッド広場の方向へ歩き始めてしまった。
ちょっと強引で、自信ありげな後ろ姿は、確かに美輝が心を寄せた横笛を操る異国の太子そのものだ。
でも、今は留学中のフルート奏者なのね。
「ねぇ、待ってよ、タケル君!」
美輝はときめく心に従って、軽やかに駆け出した。
* * * * *
ここに来るのは何年ぶりだろう。鳥居を途中に抱く大きなあの岩だけは変わらない。ワインレッドの天井から薄い山吹色の光がこぼれ落ち、岩の周辺は茜色の帯が広がっている。
「お母さん、カメラ貸して!」
じっとしているのが苦手な娘が早速、りらの手からカメラを取り、水際ぎりぎりまで走っていく。稲佐の浜の夕日は格別だった。
「靴、濡れちゃうわよ!」
「だいじょうぶー」
今日は娘の十四歳の誕生日だった。最近、あまり家族でゆっくりする時間がなかったと反省し、陽一は娘にどこか連れていってほしい場所はあるかと訊ねた。すると、思いがけないことを言ったのだ。
「んー、じゃあ、お父さんとお母さんが出会った場所!」
無邪気な提案ではあったが、厳密に言うと両親は都内の大学の授業で知り合ったのでそんなところに連れていくわけにはいかず、想い出の地、出雲を選んだのであった。
好奇心が旺盛な娘は古めかしい神社も温泉も楽しんでいる様だった。出雲大社は一寸の狂いなく修復され、作業に携わった宮大工や建築士は各地で大いに称賛された。
娘がファインダーを覗いて夕焼けを取り続けている隙に、陽一は妻の手を握った。案の定、りらはびっくりしている。
「どうしたの?」
「君がコトシロヌシの妃だった時、イナサ浜の海神の祠に二人で行っただろ。覚えてる?」
「うん。オオヒルメが現れた祠ね」
「あの時、俺は君の手をこうして繋ぎたくて、できなかった」
夫のささやかな告白を聞いて、りらはおかしそうに笑った。
「コトシロヌシのことを気にしてたのね。彼はあなたが私を好きだって気づいてて、私には触れなかったのに!」
今となっては笑い話なのだ。それもそのはず、陽一もりらも中学二年生の子を持つ親になってしまった。
りらは陽一の仕事の都合で介護士をやめたり始めたり繰り返していたが、結局またアーバンパーク湊に戻って、今では副管理者を務めている。
陽一は歳をとるごとに忙しさが増していき、東京と各地を往復する生活が常となった。というのも、竜成が仕事を持ってきたからだった。彼が受賞した紀行文のおかげで飛鳥宮に注目が集まり、竜成は文化シンポジウムやら学術的な講演やらに招かれるようになった。そしていつの間にか、知人の古建造物建築士として文化人や学者たちに紹介され、陽一も飛鳥宮を語れる「有識者」の仲間入りをしてしまったというわけだ。
「いいのかなぁ、こんな立派なシンポジウムに俺なんかが出て」
「お前は米軍にぶっ壊された出雲大社を修復したスーパーヒーローの一人なんだぜ。古代の建築を語る資格は十分にあるよ」
うまく竜成の口車に乗せられてしまったような気がしたけれども、こうして培った人脈と知識は、陽一の夢実現への近道となった。
実は飛鳥宮復元の構想は二千十年代にも出ていたが、明日香村の現代の景観を重要視する市民や有識者の批判を受けて立ち消えていた。どんなに自分が欲していても多くの人々から望まれないものを建てるという行為は、陽一も賛同できず、なかなか復元の話は日の目を見なかった。
それでも陽一は考古学者や歴史学者、同僚や先輩の建築士、宮大工たちと交流を続け、飛鳥宮に関するあらゆる情報を蓄積した。なせそんなにこだわるのか、皆が首をかしげるのも無理はないくらいのめり込んでいた。
「お父さぁん、写真撮ってー!」
娘が夕焼けを背景に自分を撮れと手招きしている。少しわがままに育ってしまったが、父にかまってくれるだけありがたい。
「真秀、もうちょっと右に動いて。わかいい顔が影になってるよ」
「ここは、どう? じゃ、早く撮って!」
元気よく手を振る娘を捉えてシャッターを押す。もう一人の娘も同じくらいの年に成長したはずだ。香紀、いや、紀皇女はオオシアマを父と信じてこうして手を振り、お父さんと呼んでいるのだろう。
父と言えば、潤は三人の子供を育てる身となった。さすが自衛官だなと陽一は妙に感心したものだ。貴子は三人目の子供が生まれた時に薬剤師の仕事を辞め、現在は専業主婦だ。
互いに家庭を持つようになり、もう頻繁に会うことはなくなったが年賀状のやりとりは欠かしていない。数年ごとに五十里家の年賀状に家族が増え、大きくなるのを見るのは嬉しいことだった。潤は三等空佐に昇任し、芦屋基地というところの管制隊長だそうだ。そういえば、今度、福岡の神社を調査しに行く予定があった。
「潤を訪ねて酒盛りでもするかな」
「いいんじゃない? あなたが覚えてない飛鳥宮のことでも、五十里くんが覚えてるかもよ」
ところで、とりらは続けた。
「あなたの博物館は今どうなってるの?」
「外観はだいぶできてきたよ。俺の記憶が間違ってないか、竜成にも確認してもらいながら設計したからそれは心配ない」
妻は「あなたの博物館」と呼んだが、一応、公共施設だ。陽一が責任を持っているのは建物そのものの設計と内部の実物大の飛鳥宮復元室である。
長らく飛鳥宮復元計画は頓挫していたが、奈良文化財研究所附属の飛鳥資料館を改修する話が持ち上がり、新しく建て直す資料館を外観と内部どちらも飛鳥宮として再現してはどうかということに計画が進んだ。これならば、跡地の景観を損ねることもないし、今まで蓄積された飛鳥宮の発見が研究成果として形になる。もちろん、全てを建築によって再現することは不可能だが、バーチャルリアリティーの空間を生み出すことができる。 しかも、窓にも特殊な加工が施され、外を見ると飛鳥宮の外の様子が再現されるような仕組みになっている。時間を短縮して朝、昼、夜、そして四季が組合わさった古代飛鳥の風景が広がるというアイデアは気象学者と天文学者、それに現代歌人が提案してくれた。
「資料館は地下を入れて三階建てなんだ。宮中内を再現しつつ、展示をする。こういう展示そのものは珍しくはないみたいなんだけど」
「楽しみ! もちろん、オオシアマとサララの物語も展示されるんでしょ?」
「それこそ、俺たちが望んできたことだよ。星降るの剣もちゃんと展示する。祭祀の場を復元してね」
星降るの剣は、学術的には朱鳥七星文鉄刀と呼ばれ、道教思想に深い関心があった天武天皇が魔除けのために使用したと認識されるようになった。
「でも、実際に真剣勝負したって主張してるのは俺と竜成だけだよ」
陽一は肩をすくめた。この点ばかりは建築家がいくら力説しても、考古学者たちは首はなかなか縦に振らなかった。勝負をしたなら対になる刀もあるはずだというのが彼らの言い分だ。
ワインレッドの空は次第に渋味を増し、稲佐の浜に夜の帳が降りようとしている。刻々と代わりゆく空の模様と海の色に魅せられ、真秀は吸い込まれるような感覚を抱いた。
父と母の思い出が詰まった場所だという。旅行で来たのかな。詳しいことはちっとも話してくれなかったけど、まぁいいや。実はさっきから写真を撮りながら、時々、両親の様子を伺っていた。娘が見ていないと思って二人とも手を繋いで、普段は見せない恋人どうしに戻ったような微笑みを交わしていた。
私の知らない時代を生きてきたんだね、お父さんとお母さん。真秀はほんの少しだけ両親が遠くの存在に感じた。どんな世界を見てきたんだろう。私の生まれる前のこと、全然想像できないな。
真秀は名残惜しそうに波打ち際でしゃがみ込んだ。そういえば、お父さんが神様は海からやってくるんだよって言ってたっけ。お母さんも小さい頃、たくさん神様の話を聞かせてくれたね。
水平線を見ると、確かに炎のように輝く夕日が神々しかった。
「真秀、そろそろ行くよ!」
母親が呼んでいる。真秀は立ち上がろうとして、海面に光沢を見つけた。身をかがめて水とは違う輝きの正体を確かめる。そして、真秀は叫んだ。
「お母さん、見て! すっごくきれいな石だよ!」
真秀は海の水ごと、その変わった形の石を掬い上げた。
海に沈く深紅の勾玉は、長い眠りの果てに、新しい持ち主を迎えようとしていた。
The End
文庫本2冊分の長編にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。この話は完結ですが、勾玉を拾った真秀を主人公にした続編をいつか書こうと思っています。ちびっこだったオオツやクサカベやアエが青年時代をどう過ごしたのかも気になるところです。




