第8章 <2>
夕方まで、舎人たちと歌を歌ったりしていたクサカベが無言になり、欠伸ばかりしている。明日の早朝までに積殖の山の口に至り、同じく急いで駆け付けているであろうタケチやオオツと合流しなければならないため、まともな休息をとっていない。女子供には過酷な行程である。
「ちょっと眠くなってきたよ」
「もうちょっとだけがんばれ」
父に励まされ、クサカベは寝まいと必死にがんばった。寝てしまえば手綱を離して落馬してしまうのでどのみち起きていなければならない。
夜半、名張評に到着した。ここでクサカベは舎人と一緒に馬に乗ることになり、狼煙のために火を放った駅家がもくもくと煙を吐き出す頃には熟睡してしまった。
天気がよくないので狼煙がどのあたりまで見えるかわからないが、オオシアマたちが名張までやってきたという知らせにはなるだろう。名張は機内と東国との境目である。名張川を越えた先からは別世界なのだ。
「ヨウイチ、あれを」
名張川のほとりにつくと、オオシアマが陽一に声をかけた。一瞬、月が見えていたが今はもう分厚い黒い雲に覆われ、空は漆黒である。
「みんな、あの黒い雲が何かわかるか?」
オオシアマは舎人たちに問うたが、答える者はいない。そこでオオシアマは陽一から道具を受け取った。占いのための筮竹である。
「何あれ?」
「俺もよくわからないけど、占いをしてるんだよ。オオシアマはそういうの得意みたいだから」
欠伸をこらえてオオシアマの手作業を見ていると、オオシアマが占いの結果を皆に告げた。
「あの雲は天下を二分する兆しだ。だが、最後には俺が勝利する」
それを聞いた舎人たちは拳を突き上げながら気勢を上げた。その中で、チトコは少し離れた場所で冷静にその様子を観察し、日記帳に今の出来事を書きつけている。
一通りのパフォーマンスが終わると、一行はまた馬を駆り、伊賀へ急いだ。この土地はオオトモの母の実家があるいわば敵地であったが、伊賀評の役人たちは既に買収しており、駅家を焼くことになっても騒ぎ立てることはなかった。そして伊賀評督が数百の兵を率いてオオシアマに従った。たとえわずかな兵でもありがたい。
「一刻くらい休息をとろう。飯も食わないとそろそろ限界だな」
オオシアマが馬を止めて、オギミに指示を出した。ここは莿萩野という土地で、21世紀では伊賀市佐那具町付近である。強硬な行程にも関わらず馬たちは文句ひとつ言わずに柘植川の新鮮な水を飲んでいる。
東の空が薄っすらと白み始めた。タケチは無事に積殖にやってくるのだろうか。
オオシアマが吉野を出発した同じ日の午後、飛鳥から近江へ直行した舎人のエサカはまず、今はひっそりとしたオオシアマの私邸に向かい、凡海郷から戻ったタケチと竜成に近江脱出の指示を伝えた。
「積もる話はございますが、まずはここを脱出し明日の夜明けには積殖でオオシアマ様と落ち合ってください」
伝言するや否やエサカはその足で大津宮にいるオオツたちの元へ急いだ。竜成は馬に飛び乗り、タケチを自分の前に座らせ、数人の舎人と共に近江を発った。鹿深、つまり甲賀を越えてオオシアマ一行との集合ポイントへ向かう。
心配なのは大津宮からの脱出だ。重要な子供たちや采女や舎人らが衛士らの目に留まらずに門を出ることなど不可能に思われた。
しかし、大津宮には紀大人がいる。大人は前もって荷物を入れる木箱を宮の北東にある船着き場に用意しておき、適当に物を詰めておいた。厩には脱出用の馬を揃えている。そして、エサカが宮にやってきて脱出の時と告げると、子供たちを麻の大袋に入れて、力のある舎人たちに運ばせた。船着き場の衛士らはその荷の中身と行先を舎人に尋ねたが、不審な様子であったので麻袋を開けさせようとした。
「そこで何をしている」
衛士と舎人が押し問答していると、後方で声がした。
「あっ、御史大夫様」
「その荷は大王より、伊勢大神に奉る品として私が預かったものだ。急ぎ必要とのことなので、そのような麻袋に詰めたのだ。大事なものなので、私も共に伊勢まで行く」
「そうなのですか。失礼いたしました。すぐに準備いたします」
麻袋は木箱に入れられ、船に積まれた。そして、御史大夫と伴の舎人たち数名も別の船に乗り込み、琵琶湖の対岸を目指した。
宮の厩に用意されていた馬は別の舎人たちが乗り、草津のあたりまで進むことになっていた。そこで合流し、タケチと同じように鹿深を越える。ただし、こちらは女性や数名の子供を連れているため、明日の夜明けに積殖で落ち合うことは難しそうだった。
日が暮れていく中、船は全速力で大津宮を離れて行く。舎人の一人がこぶしを握りしめ、ため息をついた。頬には一筋の涙が流れ落ちた。それは舎人の姿をした貴子であった。隣には貴子を心配そうに見ているりらが座っている。
貴子は憔悴していた。オオツたちを連れた脱出チームの中に、最愛の恋人の姿がないからだ。
耳を疑うような発言が潤の口から飛び出したのは一昨日のことだった。オオシアマの私邸にいる貴子の元を訪れた潤はしばらく歓談した後、こう言ったのだ。
「近いうちに皆は大津宮を脱出することになると思うけど、俺は残ることに決めたよ」
「どういうこと!? だってこれで皆と一緒にいられるようになるんだよ。それに、長柄くん言ってたじゃない、オオシアマが勝つのが歴史の事実だ、って!」
「……貴子は皆と一緒に行ってくれ」
「嫌よ! 仲間を裏切るの?」
貴子は胸が張り裂けんばかりの気持ちで、涙が込み上げてきた。何のために今まで正体がばれないように大津宮で働いてきたのか。そもそも、クシナダヒメの意思でこんなわけのわからない古代に連れてこられて、必死で生きてきたのに。
「オオシアマには申し訳ないけど、俺は、オオトモを裏切ることもできない」
兵衛から抜擢されて、朝から晩まで弟か後輩のようなオオトモの舎人として仕えるようになって十か月は過ぎた。出雲の王であるオオシアマの言い分はもっともだと理解できるが、オオトモにだってカヅラキ大王の正統な後継者としての正義がある。
そして、若いオオトモはひたすら前を向いて真摯に自分に課された責任を全うしようとしている。オオトモは己の未熟さをよく認識していた。だから、重臣の発言をしっかりと聞いたし、わからないことや迷うことがあれば潤のような近侍の年上の舎人に相談した。その上で、最終的に自分の判断をヤマト大王に奏上していた。
つまり、潤は始終オオトモの傍にいることによって、若い指導者に愛着が湧いてしまったのだった。オオシアマ側の偵察として潜りこんだ身としては完全に陥ってはいけない状態だった。
「貴子、誤解しないでほしいんだけど、俺は誰も裏切るわけじゃないよ。オオシアマ軍の作戦を漏らすことはしないし、まして負け戦に甘んじて死んでもいいなんて思ってない。ただ、オオトモのためにやれることはやりたいんだ。オオトモの行動を最後まで見たいと思う」
これがただの自分のわがままであることはわかっている。貴子と美輝が苦しむこともわかっている。しかし、武人としての擬似的主従関係を最後まで貫きたいという強い気持ちが勝ってしまったのだ。
「じゃあ、私も潤くんと一緒に戦うよ。弓ならできるし!」
「そう言うと思った。でも、古代の軍は自衛隊じゃないんだよ。部隊に女性を加えることはないから、大津宮に残されることになる。近江が戦場になったら俺は君を守れない。その方が俺だって心配だよ。だから、桧枝さんと行動を共にしてくれ」
「でも、もし…… もし、潤くんの身に何かあったら――」
「大丈夫だよ」
どうして大丈夫なのかという根拠はない。しかし、潤はオオトモと共に戦いたいという気持ちはあるが、本当の舎人のように忠誠を誓っているわけではない。
貴子は何度も考え直すように諭したが、潤の決心を覆すことはできなかった。潤は貴子が大津宮を脱出せざるを得ないように、自分の決断を記した陽一への手紙を託した。
船に揺られて琵琶湖を東へ進み、対岸の船着き場に上陸すると間もなく日が落ちた。ここで積荷を開けて子供たちを外に出し、草津で待機していた馬に乗り換えることになった。
短い間であったが、食事と睡眠をとった陽一はかわいそうかなと思いつつも熟睡している美輝を起こし、薄暗い空を眺めつつ移動を始めた。午前中はまだ蒸し暑さはそれほどではないが、日中になると気温が上がり、夏の日差しが降り注いでくる。だから早朝にできるだけ活動した方が良いのだった。
「ほんとにタケチやオオツたち、時間通りに来るの?」
集合場所である伊賀付近の積殖で待機していると、美輝がしびれを切らして訊いてきた。しかし、待つしかないのだ。
じっと鹿深方面を見つめていると、遠くに黒い影が見えた。それは次第に近づいてきて、10頭ほどの馬だということがわかると、オオシアマは安堵した。子供たちだ。
「父さん! クサカベ!」
オオシアマが下馬して反対から駆け寄る集団を迎えると、随分と日焼けしたタケチが一目散に走ってきた。
「タケチ、よくがんばったな」
付き従ってきた舎人は竜成を含めて8人だった。竜成は陽一と美輝の馬に並んで、互いの労をねぎらった。しかし、凡海郷での出来事などを語る時間はなく、次なる通過点である伊勢大山(鈴鹿山脈)を黙々と越えなければならない。
「オオヒ、無事にタケチを導いてくれて感謝する。ところで、オオツ一行は見かけなかったか?」
「いえ、別々に出発いたしましたので……」
「そうか。では、予定通り進もう。エサカはこちらの行程はわかっているから、どこかで追いつくだろう」
よもや脱出に失敗したことはあるまい。エサカと紀大人がうまくやってくれていると信じている。まずは目の前の大山を越えることが先だ。
最大の難関はこの大山越えであると言って良い。ここを通らねば東国へはたどり着けない。現代の国道25号線が鈴鹿山脈の加太経由で通っているが、オオシアマたちも同じルートを進んでいる。遥か昔から先人たちがこの山に分け入り、人が通れる道を作ってきたお蔭で、なんとか子供でも馬を走らせれば険しい道のりも越えられた。
「暑くなってきたな」
オオシアマが何気なく上半身の衣を脱ぐと、陽一はぎょっとした。竜成も美輝も驚いて会話を止めてしまった。
「どうした?」
突然後方が静かになったので、オオシアマは振り返った。陽一は「あのさぁ、オオシアマ、その背中って――」と指差しながら、遠慮がちに尋ねた。オオシアマの背中には幾何学的な模様が描かれていた。
「これか? そうか、見るのは初めてか。海人族の入れ墨だよ。模様は雲。出雲王国を表してるんだ」
「ヤマトの人たちにはそういうの、ないよね?」
「そうだな。入れ墨をするのは海人族とか蝦夷とかだから」
「そういえば、イズモのある軍団の兵士たちは顔に入れ墨をしてたっけ。似たような雲みたいな模様だったよ」
オオシアマによれば、海人族の特に王に近い者たちは子供の頃からこうした入れ墨を腕や肩に施しているらしい。そして王の息子は背中に雲の模様を彫ることになっていた。
「俺がタケチを凡海郷に行かせたのは、色々学ばせたり安全確保するためでもあるけど、王の息子の印をつけるためでもあったんだ。特別な儀式を行う必要があるから、俺の屋敷ではできなかった」
「クサカベやオオツにも印をつけることになるの?」
「いずれ二人にも儀式を行うつもりだ」
ようやく下り坂になり視界が開け、伊勢の鈴鹿評に到着した。前方に兵士の大群が見えたが、あれはオオシアマを出迎えた伊勢国宰たちであった。伊勢国の長官と次官、それにオオシアマの直轄領の湯沐令が地にひれ伏し、オオシアマに恭順の意を伝えた。
「まずはお前たちが頼りだ。これだけの兵を集めてくれて助かるよ。早速だが、鈴鹿を封鎖してほしい。もし俺の息子のオオツがやってきたらすぐに通すように」
「かしこまりました」
がしゃがしゃと武具を鳴らしながら、兵士たちはオオシアマたちが来た道を駆け抜けていった。今は兵力が500ほどだが鈴鹿山脈を封鎖できればそれで良い。これで近江から至急の追撃があったとしてもここで食い止めることができる。伊勢の地は既にオオシアマの配下にあると言っても過言ではないので、兵力は次第に増えるだろう。
ここからは現在の国道1号線と近似のルートで桑名まで目指す。今まで順調に進んだと思われたが、日が暮れる頃にはサララの体調が優れなくなり、途中で休息をとることになった。思えば、強行軍の旅であり二回しか足を止めていないのだった。
そして空が暗くなり今にも雨が降り出しそうだったので、一行は先にある三重の評家を目指した。そこまでたどりつけば屋根のある役所で世話になることができる。
「うわっ、雷だ!」
舎人が手綱をとる馬に乗っていたクサカベは稲妻を見ると、両手で耳を塞いだ。後ろの伊勢大山の方で大きな音がした。山に落ちたのだろうか。雷に加え、雨が激しく降り始めた。夏なのに、突然の雨と冷気でひどく寒い。確かに今まで夕立に遭わなかったのが不思議なくらいだが、女嬬たちは少しパニックだ。衣は既にびっしょりと濡れ、そのまま馬を走らせているものだから、冬の屋外のような寒さを感じる。
「サララ、もう少しで評家に着くからがんばれ」
さきほどからサララはくしゃみをしている。熱が出たら大変だ。早く濡れた衣を替えて、暖を取らせなければ。
三重評家では近くの小屋を壊し燃やして火を熾した。舎人たちの持っていた着替えも雨に濡れてしまい、着の身着のまま焚火の周りで乾かさなければならなかった。女嬬たちは辛く厳しい行軍の上に大雨に晒されて泣き出す者もいたが、桜児だけは冷静に仲間の女嬬たちを励ましていた。
「もー、何なの。車、ないの!? 車だったらあんな山道だって20分あれば通過できるでしょ~」
たっぷり水を含んだ裳裾を雑巾のように絞りながら、美輝はぶーたれている。ぶーたれている理由は他にもあった。凡海郷から帰還した竜成がシュナと再会し、ずっとラブラブオーラを出しているからである。少なくとも、美輝にはそう見えた。視線の先のシュナは濡れた長い髪を手ぬぐいで拭いてもらっていた。
美輝はまだ、潤がオオシアマ軍に合流しないということを知らない。
もう長いこと床で休んでないように思われたが、実は吉野宮を脱してから二日しか経っていなかった。鈴鹿を封鎖できたこと、オオツたちを待たなければならないことを考慮してオオシアマは三重の地で夜を明かすことにした。
心配していたサララの体調も安定し、熱も出ていなかったので、翌26日の早朝に歩みを進めた。空を覆っていた雲がだんだんと引いていくのがわかる。
「ここで少し休もう」
オオシアマが停止の指示を出した。例によって、チトコは日記帳を開いて行動を記録している。そこは川のほとりだった。
「今ってどの辺なの?」
陽一が尋ねると、オギミは地図を出して示してくれた。
「朝明評の迹太川ですよ。ここから伊勢の海がすぐそこに見えますよね。こんな状況でなかったら、ひと泳ぎして海のものでも採って食いたいとこですが……」
古代の海岸線は概して現代よりも内陸に食い込んでいることが多く、伊勢湾もその例に漏れない。所によっては、海岸線が鈴鹿山脈に迫っている場所もあった。もし晴天であれば、この土地からは海から上がる朝日をはっきりと眺めることができたに違いない。
何やら儀式のようなものが始まるらしい。陽一は、あれだなと思い当たった。まだ吉野宮に滞在していた頃、陽一はオオシアマと一緒に行軍中のパフォーマンスを考えていた。途中で占いをすることも一つのパフォーマンスだったし、もっと重要なのは、戦の勝利をオオシアマが考える最高神に祈るということだった。
二人の女嬬がそれぞれオレンジ色に輝く銅鏡を掲げ、太陽の光が感じられる方を向いた。まだ薄曇りである。そして、オオシアマは上半身裸になり、川で身を清めると女嬬たちの前方へ歩み出た。
「常世の国に坐すオオヒルメの大神よ」
真東の方角を向いてオオシアマが呼びかけた。すると、偶然にも雲間から太陽が姿を現し、舎人たちの間に、おおっという声が上がった。太陽がより明るくなると、女嬬が鏡を動かし、反射した光があちこちに飛んだ。
「我らはオオヒルメの大神を第一の神とし、その加護を受けんとする者である。我らを勝利に導きたまえ」
オオシアマは太陽が最も顔を出した瞬間に遥拝し、それに合わせて舎人や女嬬も首を垂れた。チトコは日記の中で、この日の朝を最も印象的だったと記している。東には美しい伊勢の海、そこから昇った太陽、オオシアマの背中の出雲を象徴する幾何学模様の入れ墨――。もはやどこにも大和の国の影はなかった。
さらに喜ばしい出来事が続けてあった。儀式を終えた後、鈴鹿の関から遣いの者が早馬でやってきて、「昨晩、オオツ王子がお越しになり、もうすぐこちらに到着します」と告げたのだ。
今か今かと待ち受けていると、かなりの数の馬が迹太川を突っ切って対岸に上陸してきた。先頭の馬からエサカが飛び降り、オオシアマに報告した。
「少々遅くなってしまいましたが、オオツ王子、オオク姫、アエ姫を無事にお連れいたしました。紀大人殿も同行しております」
「ありがとう。ここで長く休むわけにはいかないが、もうすぐ桑名の評家だ。そこまで行けばとりあえず安心できるから」
オオシアマは子供たちの顔を確認すると、ほっと笑顔になった。特にオオツとオオクは一緒に吉野へ連れて行くことができず、心苦しく思っていたので喜びも大きかった。もうかなり体重の重いオオツを抱き上げ、声を掛ける。
「すまなかったな、今まで傍にいてやれなくて…… 元気だったか?」
「うん」
たったその一言だけで、オオツの寂しさと我慢強さがひしひしと伝わってくる。オオクも袈裟の裾を握りしめて、父との再会を喜んでいた。そして、サララも母親がわりに彼らを一人ずつ抱きしめた。
クサカベは早くアエと話がしたかったが、一応、弟と姉に挨拶するのが優先事項だと考え、「待ってたよ」と話しかけた。それがよほど嬉しかったのか、オオツは歯を見せてにっこり笑った。オオクが「またよろしくね。弟と遊んであげて」と言う。
そしていよいよアエと対面すると、何と言っていいかわからずにもじもじしてしまった。ずっとアエに会いたいと思っていたのに、いざ目の前に現れるとドキドキしてしまうのだ。するとアエがクサカベの手を取り、ぎゅっと握りしめた。
迹太川のほとりでは、様々な再会の場面があった。りらは真っ先に陽一に駆け寄り、人目をはばからずに抱きついた。幸い、皆がそれぞれのことで忙しく、りらたちに注目する者はいなかった。ただし、桜児を除いては。あの女、どこかで見たことがある気がする。そうだ、蝦夷饗応の時に大后の傍に控えていた采女だわ。でも、采女を恋人にするなんてどうしてそんなことができたのかしら……。桜児は黙って二人を見続けた。
「ねぇ、五十里くんは一緒じゃないの?」
てっきり貴子と仲良く現れると思った恋人の姿が見えないので、美輝は貴子に尋ねた。しかし、貴子の悲痛な面持ちから、何か良くないことがあったのだと察した。果たして貴子の説明は、美輝にとっても不幸なものだった。潤がオオトモと一緒に戦うということは、最悪の場合、もう二度と潤に会えないということだ。
「貴子ちゃん、何で五十里くんについて行かなかったの? 彼氏でしょ?」
美輝は潤から離れ、みすみす戻ってきてしまった貴子に苛立ちを感じた。だが、それは潤自身の望みであったのだから仕方がない。
オオシアマも潤がオオツ一行に含まれていなかったことを訝しく思い、貴子に事情を説明させた。
「これ、潤から預かってきた手紙。オオシアマにって」
渡された手紙にざっと目を通したオオシアマは、初めて裏切りに直面した衝撃を感じた。潤が有能であったばかりに、ただの兵衛府の一員からオオトモの舎人に抜擢されてしまったことがオオシアマの見積もりミスであった。有能な武官、しかもこちらの内情に通じている者が敵の中枢に残っているというのは恐怖だ。
「タカコ、もうこちらの作戦は明らかにされてしまったのか?」
「いえ、潤くんはオオシアマの作戦を暴露することはないって言ってた。それよりも、ただオオトモの戦いぶりを最後まで見たいってことだと思う」
「あいつ、バカじゃねぇの。自分一人だけ勝手な行動とって! 未来に帰れなくなったらどうすんだよ」
陽一は怒りを感じた。潤が浮気しようが、そんなことはかまわなかったが、クシナダヒメから勾玉を与えられ、この世界に送られた6人のうち、1人が欠けることによってどんな不具合が生じるかわからないではないか。それどころか、万が一、オオトモ軍が勝利して歴史が変わってしまったら自分たちの存在だって危うくなるのに。
「まぁ、起きてしまったことは仕方がないよ。ジュンにはジュンの考えがあるんだ。俺たちはそれにもかかわらず全力で挑むだけだ。さぁ、目的地は近い。急ぐぞ」
潤の離反はオオシアマにとって不安材料であったが、桑名評へ向かう途中、それを打ち消す朗報が届いた。
前方から全速力で一騎がこちらに向かってくる。馬はUターンして先頭のオオシアマの馬と平行に走り始めた。
「オオシアマ様!」
「オヨリ、うまくいったか!?」
「不破を封鎖しました!」
「何人集まった?」
「美濃の湯沐邑から集めた軍勢3000人」
「よくやった。手柄だ! 後でほしいもの何でもやる!」
「では、大変お美しいサララ様でも?」
「馬鹿か、お前は!」
相変わらずオヨリは軽い男である。しかし、今般の戦の勝敗はオヨリの不破封鎖のタイミングにかかっていただけに、無事に封鎖完了の知らせが届いてオオシアマ軍はこれで勝利に一歩近づいたことになる。
同時期に伊勢大山の鈴鹿側も封鎖しているため、大津宮の使者が東国へ連絡を遣ることは不可能であるし、軍勢を送ってもすぐに突破することは困難であろう。あとはまだ十分でない兵力を迅速に終結させ、部隊を編成し整えることが肝心である。
日が暮れる前に桑名の評家に到着した。役所は小高い丘の上にあり、内陸に深く迫った海岸と伊勢湾を臨むことができる。
「なんか準備万端って感じだね……」
「オオシアマ様はここで戦の采配を執るおつもりだから、砦のように作ってきたんですよ。地の利もありますし。水運で不破に行けるだけでなく、さらに東とも通じることができます。考えたくはありませんが、万が一の場合に船で撤退する道も確保してますから」
つまり、桑名の高台にある評家はオオシアマ軍の司令部と兵站基地を兼ね備えた場所ということだ。吉野にいる間に、東国の豪族である尾張大隅や舎人に命じて密かに桑名評家に物資を運んだりして要塞化を図っていたのだ。また、大隅は近隣にある私邸と軍資金を提供し、オオシアマ軍の本拠地を整えた。
ようやく腰を落ち着ける場所を確保できた一行は、久しぶりに満足のいく食事と休息をとることができた。しかし、オオシアマはタケチに重大な任務を与え、旅立たせることにした。群臣の前にタケチを迎え、宣言する。
「我が息子タケチを総司令官に任ずる。この後、不破において指揮、監督を行い我らが軍を勝利へ導け」
その場からわぁっと歓声が上がった。「タケチ王子、万歳」という声が何度も響いた。幼い子供であるが、タケチは戦のシンボルの役目を与えられることとなった。しかし、本人は寝耳に水である。長い間、父と離れて凡海郷で暮らしてきたので、桑名に到着して皆と一緒に過ごすことができると安心していたのだ。
「父さん、また離ればなれになるの? 総司令官なんて僕には無理だよ…… クサカベじゃだめなの?」
「お前らしくないぞ、弱気になるなんて。これはアマコと父さんの息子じゃないとできないことなんだ。お前しかいない。実はな、クサカベがタケチ兄さんが相応しいと言ったんだよ」
「クサカベが?」
「そうだ。出雲の王に一番近いからとさ。それにお前は一番武勇に優れてる。弟たちにかっこいいところ見せてやれ。オヨリとヨウイチを補佐役につけるから大丈夫だ。紀大人も一緒だ。あいつはお前の手本になるほど武芸に秀でてるから、色々教えてもらえ」
「わかった。がんばるよ」
タケチの顔がきりりと引き締まった。
再び慌ただしく、出発の準備がなされ、お供を仰せつかった陽一はりらに別れの挨拶をした。不破に行くというのは前線基地での勤務を意味していた。そこから近江へ向けて出陣することにもなる。
「じゃあね、気をつけて」
りらは少し不安そうな表情だったが、意外とあっさり手を振って陽一を送り出した。しかし、黙って桑名で戦が終わるのを待っているようなりらではなかった。
息子が数名の舎人に守られながら桑名を出ていくと、続けてオオシアマは本格的な募兵に取り掛かることにした。
「オダ、アカフ! お前たちは東海道を頼む。イオセ、ウマテ! 東山道を担当してくれ」
鈴鹿と不破を封鎖してあるため、東北地方を含む東日本全域はオオシアマの手中にあるも同然であり、少なくとも近隣の美濃、伊勢、尾張、信濃あたりの豪族は確実に協力してくれる。おそらく大津宮は中央から地方への伝達という正規ルート、つまり庚午年籍に基づいた徴兵を行い、国宰を通じて動員をかけるはずだが、オオシアマは個人的つながりによってその正規ルートを崩すつもりだった。
大津宮に激震が走ったのは24日の夜のことであった。飛鳥の留守司から「オオシアマ挙兵!」の報告が届けられたのだ。
しかし、その前に昼間から宮廷内で騒ぎが起こっていた。ヤマト大王に近侍していた采女一人と、王子たちが部屋から消えており、どこを探しても見つからなかったのだ。ひとまずヤマト大王は宮の外を探させた。久しぶりに天気が良いので、勝手に外出しているのではないかと考えたのだ。しかし、夜になっても帰ってこない。
そんな中、軍事的対応のため緊急の群臣会議が開かれた。
「五月雨はもっと長く続くのではなかったのか!?」
オオトモは神事を司る中臣金を叱責した。金は「オオシアマが悪しき呪術によって天候を曲げたのでしょう」と返答するにとどまった。自分もまた命がけで祈祷を行い心身はぼろぼろである。
「もうよい。お前も身を削って仕えてくれているのだから…… ところで、紀大人の姿が見えないな。どこに行ったか知ってる者は?」
「それが、紀殿は失踪したのではないかと」
「どういうことだ!?」
「船着き場の衛士が、紀殿が大王から預かった大きな荷を伊勢大神へ届けると行って、自らも船に乗り込み、数名の舎人と共に草津方面へ行かれたと申しておりました」
ヤマト大王が「私は御史大夫にそのような指示を出していません」と言うと、その場が凍りついた。偽って宮を脱出したということではないか。
「その荷物の中身は検めたのか?」
「いえ、大切なものだと言われて衛士はそのまま通してしまったそうです」
「わかった。その大きな荷というのは、オオツたちを隠していたんだ。どこを探しても見つからないわけだよ」
その時の、オオトモの絶望的な顔を潤は後々までずっと忘れることはなかった。叔父が父である大王の元を離れた時から、叔父は全てのことを手配していて大津宮を、いや、自分のことを孤立化させようとしていたのだ。信頼していた部下の御史大夫が、なぜオオシアマに寝返ったのかはわからない。おそらくヤマト姫に仕えていた采女も、おそらくオオシアマと通じているだろう。
「さて…… 皆の意見は?」
「恐れながら、早急に追捕しなければ手遅れになります。騎馬隊を集めてはいかがかと」
左大臣が進言するも、オオトモは却下した。紀大人や采女がオオツたちを伴って逃げたということは、オオシアマに既にこちらの内情が伝わっている可能性が高い。合流していなくても、以前から連絡を取り合っていたはずだ。むやみに、追撃しては彼らの罠にはまるかもしれない。そう考えたのだ。
「代わりに、早急に募兵し、軍を動員する。ジュン、今から言うことを各々に伝えよ」
「はい」
「イワスキ、クスリ、オオマロは東国へ、モモタリ、イオエ兄弟、それにヒムカは飛鳥へ。オトコを大宰府へ、イワテを吉備へ。ことごとく兵を集めること。そして、オトコとイワテにはこう申せ。大宰府の栗隈王と吉備の当摩広嶋は、オオシアマと親しかった。もし募兵の命に従わないようならその場で殺せ」
「承知しました」
一礼すると潤は正殿を後にし、言われた通り舎人たちに伝令して回った。潤はこれらの募兵対象地域が既にオオシアマに押さえられていることを知っていた。もしかしたらオオトモに呼応する豪族が出ないとは限らないが、その見込みはかなり低かった。
潤から命令を受け吉備に赴いたイワテは国宰である広嶋を刀を外させてから、募兵の命令書を手交した。しかし、広嶋はじっと命令書を見つめ黙り続けた。そして、「お引き取りください」と告げた。その瞬間、イワテは懐から刀を取り出して広嶋に襲い掛かった。返り血で自分の手や胸元も鮮血に染まった。騒ぎが大きくならないうちに、イワテは馬に乗り逃げ帰るようにして大津宮へ戻った。
他方、数日後、オトコも同様に大宰府へ到着すると栗隈王に面会を求めた。王の後方には息子たちが武装して控えていた。
「何用ですかな」
「大津宮からの命令書です。ご一読を」
本当は目を通さなくとも内容は察しがついたが、一応、命令書に視線を落とした。そして、もっともらしくこう告げた。
「大宰府の役目は元はと言えば、外敵への備えです。内賊への対応のためではありません。大王のご命令に背く意思はございませんが、今、ここで大軍を飛鳥へ派遣するとなると、外敵への備えが空白になってしまいます。予想外に新羅や唐が攻めてきた場合、いかがいたしましょう。こうなれば、大宰府を預かる身としては死しても報いることはできません。そういう理由で大宰府の兵を動かすことはまかりならないのです」
「何という詭弁だ。大王から死を賜ってもよいと申すか」
「大王の国をお守りするのが大宰府の役目でございます」
栗隈王は笑みを浮かべて答えた。従わないならば殺せというオオトモからの命令を実行しようと、オトコは刀の柄に手をかけた。しかし、栗隈王の2人の息子もまた刀に手をかけ、一歩前へ踏み込んできた。武装した若い男2人を相手に戦うことは、無謀すぎた。分別のあったオトコは無言で踵を返した。
そして、東国への連絡係として派遣されたイワスキは、不破に至る手前で急に恐ろしさを感じ、ちょっと腹痛がと仲間に言い残して遅れて行くことにした。クスリとオオマロは何の疑いもなく馬を走らせた。ところが、イワスキの予想通りのことが起きた。
「待て」
山道の両脇から武装した兵士らが10名ばかり飛び出してきたのだ。そのまま不審者2人の背後に回り込み、退路を断った。たいした武器を所持していなかったクスリとオオマロはあっけなく、オオシアマ軍に生け捕りにされてしまった。
「イワスキ! 助けてくれ!」
仲間の必死の叫び声が逃げるイワスキの背中に降りかかる。しかし、イワスキは申し訳ないと思いながら全速力で今来た道を引き返した。仲間の声が遠ざかり、ついには聞こえなくなった。
27日、まさしく夏といった暑さの中、不破の和蹔に陣を構えたタケチから使者がやってきた。
「早速ですが、タケチ様がやはり桑名と不破では距離が離れており、何かと不便であるため父上にもこちらにお越しいただきたいと仰せです」
「なんだ、タケチのやつ。もう音を上げてるのか」
オオシアマは苦笑した。要するに、タケチは不安になって父を呼び寄せたくなったのだ。タケチは長男で精神的にも大人びているとはいえ、実はオオシアマも気がかりであった。お守りを任された舎人たちも気を揉んでいるだろうし、前線基地の様子を把握しておくべきだと考え、オオシアマはすぐにタケチの使者と共に不破へ向かうことにした。
「サララ、急な話だが、俺たちは不破へ移ることになった。だから桑名の基地司令はお前に任せる」
「えー、何なのよそれ。だいたい、私、そんな器じゃ――」
「いや、兵站に関する司令だから大丈夫。だって、普段からやってるじゃないか」
サララが怪訝な顔をすると、オオシアマが説明した。すなわち、兵站というのは家政の切り盛りのようなものだから、サララに采配を振るってもらうことが最も信頼できるというものだ。
「それなら仕方ないわね。任せて。滞りなく部隊に物資を届けるわ」
「君なら安心だよ。細かいことは後で伝令に託すから」
「ええ。でも、あなたも前線で戦うの……?」
妻にとって唯一の心配事がそれである。桑名であれば後方地帯になるが、前線の不破となれば態勢が整えば南下して近江を攻めに行かなければならない。
「俺は出陣はしないよ。ただ、タケチを総司令官にしたから、あいつを戦場へ送ることにはなる」
親が安全な場所で待機している一方、幼い息子を文字通り矢面に立たせるなど理不尽である。理不尽どころか正気の沙汰ではない。それはオオシアマ自身もわかっていた。しかし、敵側の総司令官がカヅラキ大王の息子で太政大臣のオオトモであるなら、こちらも出雲の王オオシアマの息子を出さねばなるまい。
それに、大王を超える存在になるには、あの北辰のように天高く不動であるべきなのだ。以前、小角と修行していた時、夜空を見上げたことがあった。小角は「北辰は空の帝王だ」と教えてくれた。それを天皇大帝と言う。そして最も重要なことは、北辰すなわち天皇大帝が神であるということだ。大王はいうなれば人間の王たちのまとめ役、盟主である。しかし、オオシアマが目指しているものは国つ神であるオオクニヌシの血を引く中つ国の不動の神であった。
ひとまずサララを納得させると、オオシアマは竜成を同行者に加えようと呼びに行った。ところが、小柄な舎人が2人、竜成の後ろに立っている。よく見ると女性たちだ。
「オオシアマ様、何卒、私たちも不破へ連れて行ってくださいませ」
「お願い!」
竜成はもうどうにでもしてやってくれと言わんばかりにオオシアマを見た。男装した舎人は、りらと桜児である。心なしか2人は張り合っているようにも感じられる。
危険だから桑名で待ってろと言おうとしたオオシアマは、りらと桜児の必死で頑固そうな目つきを見て思いとどまらせることを諦めた。きっとヨウイチの元へ行きたいのだろう。隅に置けないやつだな、お前も。
結局、桑名評家に残されたのはサララ、美輝、クサカベ、オオツ、オオク、アエ、その他の舎人と女嬬たちであった。美輝は陽一とすぐに離ればなれになってしまったりらに、「いっそのこと追いかけてみたら?」と提案したのだ。すると、思いがけずりらは行動に移したというわけだ。
美輝はサララに兵站という大役が回ってきたため、代わりに子供たちの世話をすることになった。特に、同性のアエとオオクのことは気がかりだ。
「あーあ、私もちょっとお姉さんになってみたいなぁ」
オオクがいない時、アエは美輝につぶやいた。サララは年の離れた異母姉だし、オオクはもうすっかり大人びたお姉さんになっていて、アエはいつも妹分扱いなのが不満らしい。美輝にとっては何ともかわいい悩みであったが、本人は真剣だ。そして、たまたまその場に居合わせ、2人の会話を耳にした県犬養大侶という若い舎人がアエの前に跪き、微笑みながら言った。
「アエ姫様、私の従兄に県犬養東人という者がおります。その娘は5つばかりになりますが、たいそう利発でかわいらしいのです。この戦が終わりましたら、ぜひ遊び相手になってやっていただけないでしょうか」
今まで少し不満そうだったアエの瞳がぱっと輝いた。年下の遊び相手なんて、本当に妹みたい。
「いいわね! おしえてくれてありがとう。その子の名前は何ていうの?」
「道代と申します」
「ミチヨかぁ…… 早く会ってみたいわ」
まだ見ぬ妹分の少女、県犬養道代は成人した後、あの栗隈王の息子ミヌの妻になる運命であり、アエの腹心の女官として活躍し絶大な影響力を持つことになるのであった。
桑名に集められていた軍勢数百名を引き連れて、オオシアマは養老山地の東側を北上し、不破評へ向かった。評家に近づいた頃、右方向が騒がしくなり、見ると大軍が道を埋め尽くしながらこちらへ進んでいる。大軍の先頭をゆく騎馬が速度を上げた。オオシアマ軍の舎人が誰何する。
「わたくしめは尾張国宰の小子部鉏鉤と申します。御史大夫紀大人様の募兵の令により尾張国の兵士2万を率い、不破評家へ参上する途中でございます」
おそらく鉏鉤はまだオオシアマが挙兵し、自分が鉢合わせたのが大津宮の敵部隊とは知らないようだった。誰何した舎人がオオシアマにこの旨を報告すると、「では適当に褒めて、勘違いさせておけ」と指示がなされた。鉏鉤は大津宮から尾張国に派遣された国宰であるが、個人的にヤマト姫やオオトモに忠誠心を抱いているわけではなかった。それでも中央からの命令には忠実な豪族であり、すっかり大津宮の軍勢の仲間に加わったと思い込んだ。
帰属した2万の兵を数個部隊に分けて、オオシアマは自らの軍の舎人を隊長とし、要所を守らせるよう命じた。尾張から連れてこられた残りの兵は、鉏鉤を先頭にしてオオシアマ軍の後方についた。
ほどなく不破の野上に到着した。不破、つまり現在の関ヶ原一帯は山間に囲まれた狭い平野が東西に伸びており、タケチはより前線に近い西側の和蹔に滞在していた。野上は東側である。野上にも陣が張られ、竪穴式住居のような建物が10棟くらい並んでいた。
「オオシアマ様、タケチ王子が和蹔よりお越しです」
野上で最大の陣の中には、オオシアマと中心的メンバーらが飲食をとるために会していた。タケチがオヨリやヒロなどの舎人を伴って陣へ入ってきた。
「やっぱり父さんが近くにいた方がいいよ」
「わかった。そっちにも頻繁に見に行くからそう心配するな。で、何か変わったことは?」
タケチは隣に控えているオヨリをちらっと見て、自分が報告しても良いかと目で尋ねると、オヨリはもちろんですというように大きく頷いた。総司令官はタケチなのだ。
「昨日の夜、この辺り一帯に置いていた伏兵が大津宮の使者2人を捕えました」
「なんと……」
「クスリとオオマロと名乗っていて、どこに行くのか尋ねると、イワスキの配下で東国に募兵に行くところだったそうです」
「イワスキとやらはどうした?」
「伏兵が現れて、部下を置き去りにして逃げたと言っていました」
つまり、オヨリの行動がもたついて不破の封鎖が一日でも遅れていたら、イワスキらは無事に東国へ抜けてたちまち募兵に成功していたということだ。オオシアマはオヨリの迅速な働きに今一度感謝した。
「あいつらの動きは意外と速い。なんといっても、政治に長けた左右大臣や御史大夫がいる。それに、最大の数になる畿内の兵力はオオトモの手にあるはずだ」
ここでオオシアマは舎人たちに向けて笑いながら言った。
「カヅラキ大王の息子はもう立派な大人だが、まぁ、俺んとこは子供だらけだからなぁ」
舎人たちもつられて笑ったが、一人タケチだけが真剣な顔で腕まくりし、父から授かった刀を握りしめて訴えた。
「大津宮は大人ばかりかもしれないけど、出雲の王の威厳には逆らえないんだよ。父さんは一人じゃないよ。僕がいる。出雲の神さまたちにお願いして、僕が将軍たちを率いて戦えば敵は絶対勝てないよ!」
子供ながらにタケチは大人たちに凄みを見せ、自分は子供でも父の役に立てるのだと必死に主張した。オオシアマは冗談でも子供ばかりだなどと言った己を恥じ、長男を総司令官に任命したのは間違っていなかったと確信した。そして、タケチの目線に合わせて屈みこみ、息子の手を握って背中をぽんぽんと叩いた。タケチが一生懸命に言った言葉が、じわじわと親心に沁みて、オオシアマは静かに感動していた。このやりとりを周りで見ていた舎人たちもまた、幼いタケチの気概に圧倒され、士気が刺激された。
「ありがとう、タケチ。しっかりやれよ。油断するな」
「もちろんだよ」
タケチは大人たちが自分の役割をわかってくれたようなので、大いに満足し笑顔を見せた。




