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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
オペレーションくしなだ part2
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16/31

第8章 <1>

 子供たちと持ってきた飲食物が気づいたら全て腹の中に収まっていた。オオシアマは懐かしく思いながら、陽一と息子たちに小角について長々と語った。

「父さんは師匠がいていいなぁ」

 オサカベが羨ましそうに言うと、クサカベが「僕からの師匠は父さんだよ」といじらしいことを返してきた。

「それで、父さんは正しい道を選んで、また古野にやってきたの?」

「うん。オオクニヌシが作ってきた国を甦らせることが、父さんの考える正しい道だと思ったからね」

 息子たちがどれほど自分の目指す国を理解してくれているのかわからないが、タケチやオオツを含めて、彼らには隠すことなく重要な話し合いに同席させていたし、これから起きるであろうことを伝えてきた。まだどの息子が後を継ぐことになるかは未定であっても、いずれ全ての子供たちが何らかの地位に就いて国の統治に関与することになるのだ。

 しかし、今まで大きなお兄さんと慕っていたオオトモと敵どうしになるということは、少なからぬ衝撃を与えたと思う。実際、特にオオトモとよく顔を合わせていたクサカベからは「何でオオトモ兄さんと戦わなきやいけないの」と泣きながら詰問されたこともあった。「オオトモ兄さんにお願いして、出雲の国を作ってもらえばいいじゃないか」と言われた時、オオシアマは心を鬼にして明言した。「あいつはオオクニヌシの血を受け継いでいない。それだけじゃなく、いつかまた出雲王国を滅亡させようとする」と。なおも父に反抗してくる次男に、静かに言った。

「お前もオロチの耳飾りを持ってきたアレオトメの話を聞いただろう。それが真実だったんだよ……」

 じっと父を直視していたクサカベが、唇を噛みしめて俯いた。小さい頃から、出雲の国譲りの話はヤマト姫によく開かされていた。それがあの未来からやってきたという女性が事細かに語った内容と全く違うではないか。

「でも…… オオトモ兄さんは……」

 幼いクサカベにひどく葛藤を強いているのはわかっていた。しかし、自分ち同じ年頃の時、葛藤を強いられた。そして成人してからも続いた。クサカベも苦しむかもしれない。

 次第にクサカベは「何で戦わなきゃいけないの?」と言わなくなった。その代わりに、オオトモの名を口にすることもなくなった。クサカベの中で、いつでも優しかったオオトモの存在がなかったものとして封印されてしまったのだった。

 ここでオオシアマは以前から考えていたことを話しておこうと思った。それは、来るべき戦の総指揮官を誰に当てるかということだ。

「ちょっと意見を開いてみたいんだが…… 誰が総指揮官に相応しいと思う?」

「父さんじゃないの?」

「別の人を考えてみてくれ」

 クサカベもオサカベも当然、父が最高責任者としてオオトモの軍を迎え撃つのだと思っていたし、オオシアマの問いかけには陽一も少し驚いた。何か考えがあるということか。

「僕はチトコかオヨリがいいと思う」

 オサカベは推薦した理由をこう述べた。二人ともいつも落ち着いているし、とても武芸に優れている、特にオヨリは美濃のことをよく知っているから、と。なかなか良い着眼点だな、とオオシアマは褒めた。

「ヨウイチはどう思う?」

「え、ああ、先にクサカベに訊いてみたら?」

 子供を優先した方がいいかなという軽い気持ちで、陽一はそう言った。クサカベは初めためらっていたが、意を決して顔を上げると自信に満ちた声で答えた。

「僕は、タケチ兄さんが指揮を執ればいいと思う」

陽一は耳を疑った。子供が軍の指揮を執るという発想に呆れたからではない。自分もタケチが適当だと考えていたからだ。

「タケチ兄さんは子供だよー。僕たちもそうだけど」

 オサカベは困惑しているが、オオシアマは真面目にクサカベに向き合っていた。タケチを選んだ理由を尋ねてみる。

「最初は僕もオヨリとか舎人の中で強いやつがいいかなと思った。でも、みんな出雲に関係してないから違うかなって…… 前にね、ジュンが軍の指揮官は強ければいいわけじゃないよって言ってたの思い出したんだ。だから、指揮官が大人じゃなくても大丈夫かと思った」

「そうだね。だって僕たちが戦の練習をする時、将は僕からだけど、ヒロやチトコが助けてくれるもんね」

 なかなか面白い展開になってきた。クサカベはさらに理由を付け加えた。

「タケチは父さんの息子の中でも一番、オオクニヌシに近いよね」

 そう。タケチは男子の中で、実は最も濃い出雲王国の血を引いているのだった。クケチの祖父は宗像徳善というオオクニヌシの末裔である海洋豪族だ。

 一通りクサカベの主張を聞いたオオシアマは最後に陽一に見解を求めた。陽一としては、基本的にクサカベと同じ根拠でタケチが総指揮官に相応しいと考えていたので、一つだけ付け加えることにした。

「今度の戦は出雲王国のためだから、それを象徴するような人物を据えるのがいいんじゃないかと思って。オオシアマ本人でないとすると、やっぱりタケチしかいない。長男だしね」

 戦いには大義名分が必要だ。それはオオクニヌシの国を復活させるというもの。そして大義名分を盛り上げる精神的な支柱も用意しなければならない。タケチは子供だが、それは一層のことオオシアマ軍の兵士たちにとって印象深く、出雲復興の象徴として映るに違いなかった。

「そういえば、何でオオシアマ自身が総指揮官じゃないの?」

「ああ、俺は高みの見物を決め込もうと思ってさ」

 予想外の無責任な発言だが、オオシアマは特に説明することなく立ち上がった。

「さて、そろそろ戻るか。夕餉の支度をしないとな」


 四月一日、貴子からの急ぎの伝達が吉野に到着した。すっかり新緑の季節となり、活動に適した気候である。陽一は貴子からの知らせをオオシアマとサララに読み聞かせた。

「本日、ヤマト姫が大王になりました。殯はまだ続いていますが、カヅラキの死から既に3か月経ち、大津宮は気を引き締めるためにも早めに即位ということになったようです。オオトモ王子が太政大臣、重臣メンバーは前政権と同じです」

 ヤマト姫がいずれ即位するであろうことは予想していた。そもそも、カヅラキの病床でそのことを提案したのはオオシアマなのだ。来たるべき戦は、大王ヤマト姫の下で、大和の国の王位後継者のオオトモと凡海郷の王位後継者のタケチが対峙するという構造になる。そしてこの戦いを制した方が新しい王となる。しかし、オオシアマはそのまま息子を王位に就けることは考えていなかった。その前にやるべきことがある。それに、大和との戦いに勝つ以上、もはやかの国の名称である大王という地位などは無用だ。大王を超える全く新しい存在に、自分はならなければならぬ。

 翌日、ヌカタからも書簡が届いた。サララが皆の前で読み上げる。

「未だに御陵は半分しか完成していません。一方で、畿内の徴兵は着々と進んでいます。先日、激励と称していくつかの評を見て回りました。人員数も装備も充実していました」

 ということは、東国の徴兵も同じように手がつけられているだろう。だが、オオシアマにとって東国の農民が大津宮側によって組織され、訓練されればされるほど好都合だった。こちらの労力を使わずに兵力を手に入れることができるからだ。

 吉野では自らと近侍の舎人たちを鍛錬することくらいしか活動できることはない。その代わりに、各地から情報を収集することが勝利への第一歩である。大津宮にはりらと貴子と潤が、畿内にはヌカタが、東国には忠実な舎人たちがいて、逐次状況を報告してくる。大津宮の兵力が整う頃が行動を起こすチャンスであり、そのタイミングが情報によって決まっていくのだ。

 爽やかな風が吹くようになった。 目まぐるしく冬と木が過ぎ、桜の色を感じることなく初夏を迎えようとしている。

「やっと少しは落ち着いてきたな」

「父が生きていたら、あなたを全力でお支えするのに……」

 久しぶりに柔らかい妻の体に触れ、普段は気の強い女でもこうして一緒にいると穏やかな気分になるものだと驚いた。トオチが母のヌカ夕と共に山科に行ってしまっているので、最近、鎌足の娘ミミモ姫を宮中に呼び出し、身の周りの世話をしてもらっている。今までそういったこともジュンに任せていたが、ミミモ姫が来てくれたのでジュンには軍事に専念してもらえる。トオチとの関係もあって遠慮していたが、もっと早くミミモ姫を呼んでいればよかったと少し後悔した。なんだかんだ言って、夫婦なのだ。

「君の父上は本当に有能だったからね。でも、俺もそろそろ一人前にならないと。今、ヤマト姫が大王となられて万事うまく取り仕切っていらっしゃるけど、叔父との戦に勝ったら、今度こそ俺は入王として人和を治めなきやいけないんだ」

「じゃあ、私のことも頼ってくださいね。戦のことは難しくてわかりませんけど、美味しい食事は作って差し上げるわ」

「うん、ありがとう」

 難しくてわからない、などと謙遜しているが鎌足の娘だ。本当は賢い女なのだ。戦になることを話した時、ミミモ姫は冷静に説明を聞いて、実家の蓄えた食糧を提供すると申し出た。腹が減っては戦はできぬというわけだ。

「ずっと実家に留めおいて、悪かったな。君とはちゃんと色々話したりすべきだった」

「いいえ、私こそあなたがお忙しいことはわかってるのに、どうして来てくれないのなんて拗ねてごめんなさい」

 ああ、そうだ、俺はこの女を大事にしよう。幸せにしよう。大王になったとしても、それ以前に家族の長だ。もちろん、トオチも同じように愛そう。戦に勝つことが家族への報いになるだろう。

 潤はオオトモの表情が以前より明るく生き生きとしてきたことに気づいた。殯宮に張り付いて儀式に参加し取り仕切る必要もなくなったことも理由の一つだが、ミミモ姫の存在が大きいだろう。潤自身も日常的な雑務から解放されてほっとしている。

 10日くらい前に、オオトモは東国での徴兵の命を下した。東国の武装化と一通りの訓練が終われば、直ちに出陣したいところである。

「大王は軍事については太政大臣に任せるとおっしやっている。そこで今日は、編成と展開を決めたいと思う」

 オオトモの言葉に合わせて、潤は地図を広げた。オオトモが小さな木材の目印を地図上の中南和に置く。

「オオシアマは今のところ古野から一歩も動いていない。兵力も確保していない。だからこちらは飛鳥に布陣して吉野山を包囲する。もちろん、大津宮の防衛態勢も整えておく」

「留守司の高坂王に、畿内の兵力を飛鳥に集め、編成を組める状態にしておくよう命じましょう」

 左大臣蘇我赤兄が提案すると、紀大人も言った。

「東国の武装化ですが、8割方完了しております。沿岸の船も我々が押さえてますから、オオシアマが東国の兵力に手を出すことは不可能かと……」

「大人殿は用意周到ですな。まあ、主戦場は飛鳥になるだろうから、東国の兵力はもしかしたら動かす必要はないかもしれませんが。しかし、少なくともオオシアマを心理的に追い詰めることにはなりましょう。引き続き、美濃と尾張を頼みますよ」

 最高齢の右大臣中臣金は、若く真面目な紀大人がどこまでやる気を見せるか伺っていた。今まで淡々としている印象であったが、大津宮の危機に際して随分と忠誠心を発揮しているようだ。

 潤はどうも中臣金という男が苦手だった。中臣家は神事を統括していて、タカミムスヒを最高神として崇めている一族だ。必然的に、オオクニヌシの血を受け継ぐオオシアマを冷遇することになる。今に至ってはオオシアマ排除に全力を傾けていると言っても過言ではない。

 それに先日、貴子からおかしな話を聞いた。同僚と一緒に薬園で腹痛に効く薬草の手入れをしていると、呪禁師が男を伴ってやってきたという。二人は薬園の奥、つまり例の毒性植物が管理されている一角に入り、10分くらい経ってから出てきた。貴子は目立たぬように様子を見ていたが、呪禁師の手にしていた箱にたくさんの植物が詰め込まれているのを確認した。全て毒草である。

「それでね、呪禁師が連れてきた男は右大臣だったの! そう呼んでたから問違いないよ」

「毒草で何するつもりなんだ……」

 その時は呪禁師と中臣金の意図がわからなかったが、後に二人が真夜中に白い装束で外薬寮に入っていったのを目撃して、わかった。もしあの時、薬園に現れたのが外薬寮関係者と左右兵衛督だったのならば、持ち出された毒草は武具に塗りつけて生物化学兵器として使用されることになっただろう。しかし、今回は神事をつかさどる右大臣と呪禁師である。毒草は祈祷に使われるのだった。

 貴子によれば、通常、呪禁師が病気回復のためなどに使用する薬草は限られていてどれも無害なものだという。つまり、右大臣らは特殊な、しかも毒をもってするような禍々しい祈祷を行っていたということだ。予想していた通り、怪しい祈祷は戦の勝利祈願とオオシアマヘの呪詛であった。

「右大臣、あんまり無理するなよ。顔色が悪い」

 オオトモが中臣金の青白い顔を見て心配そうに言った。潤にはその理由が、毎夜遅くに祈祷をしている上に、毒草を使用しているため心身を害しているからだと想像できた。金は全く堪えていないようだった。

「オオトモ様のためならこれしきのこと…… タカミムスヒ大神は未だに荒ぶる出雲の神にとどめを刺さんとしております」

 潤はぞっとした。そうか、これから起きる戦いは神々の戦いでもあるんだ。もちろん神々が直接対決するわけではない。しかし、オオクニヌシにとってはその血を受け継いだ末裔を通じて、タカミムスヒにリベンジを仕掛けるのである。受けて立つタカミムスヒに強い折りを捧げるのは大王家、そして中臣を始めとする一部の中央豪族たち――。

 大津宮側の部隊編成と展開についての作戦会議は夜中まで続いた。紀大人と潤は会議が終わるとそれぞれの部屋に戻って会議の内容を書き留め、翌日、大人の分を受け取ると、潤はそれらを貴子に託した。貴子はオオシアマ邸に持ち帰って厳重に封をすると、吉野との連絡係を任されているオサカベの舎人に手渡す。こうして大津から古野まで内裏での出来事が定期的に報告されるのだった。

 ヤマト姫が即位してから、りらは半ばお役目御免となっていた。というのも、ヤマト姫から、自分の世話はいいから子供たちの相手をしてあげてほしいと頼まれたからだ。カヅラキ大王が存命の頃は、後宮で暮らしているオオツとオオクの世話はヤマト姫自身が引き受けていたが、今ではそのような時間がすっかりなくなってしまった。身の周りの世話は采女たちがやっているようだが、それほどなついている風には思われなかったし、りらならヤマト姫との連絡もすぐにつく。

 りらにとっても後宮で子供たちの世話をしている方が負担が少ないし何よりも薬生として出入りしている貴子に会えるというのがありがたかった。

「ねえねえ、また神さまのこと、お話して?」

 もう子供という域を卒業してしまったオオクがりらの隣に座って言った。アエも一緒に話を聞こうとしている、一番お姉さんのトオチが後宮からいなくなってしまったので、女の子たちは新しいおしゃべり相手がやってきて嬉しいのだ。

 オオツは普段からお姉さんたちに囲まれて過ごしているので、特に気にする様子もなくおしゃべりに加わっている。男の子がいないわけではない。実はナガという名前のオオツの異母弟が後宮にいるのだが、ナガはまだ3歳に満たない幼児で遊び相手にはならない。母親のオオエ姫は内気な性格で滅多に皆が集まる場所に顔を出すことがなく、オオツはその姿を見たことがなかった。

「えっと、どこまで話したっけ……」

「スサノオが追放されるとこよ」

「あ、そうだったね。スサノオはお父さんからもお母さんからも高天原を出て行きなさいと言われて、困ってしまったんだけど、出て行くことにしたの。でも、妹のヒルメにはお別れの挨拶がしたいと思って、途中で引き返してヒルメに会いに行きました。すると、タカミムスヒがやってきて、お前は高天原を乗っ取るつもりでやってきたんだろうと言いました。タカミムスヒは防具を着けて武装していました。私はそんな悪い気持ちは持っていませんと、スサノオは答えました。そして、ヒルメはお兄さんをかばおうとして誓約うけいをすることになったの」

「どういう約束?」

「互いの持ち物を交換して、それから子神を生むんだけど、もし男だったら清い心、女だったら邪な心ということを決めました。そしたら、スサノオからは男の神が生まれました」

「じゃあ、やっぱりスサノオは悪い心は持ってなかったんだね!」

 オオツは明るい顔になったが、りらは残念な続きを告げなければならなかった。タカミムスヒが子生みに使った物はヒルメのものだから、男の神はヒルメから生まれたということにすると宣言したのだった。

「怒ったスサノオは高天原で大暴れして、天つ神たちから追放されてしまいました。妹のヒルメも嘆き悲しんで天の岩戸に閉じこもってしまいました」

「そんなぁ、スサノオがかわいそうだよ……」

 いつの間にか感情移入していたらしいオオツがりらに抗議の感想を述べた。両親の元を追い出されたわけではないが、オオツはスサノオが両親から離された境遇を自分と重ね合わせていた。

「私はタカミムスヒがスサノオを厄介払いしたかったんじゃないかと思うな。お父さんとお母さんが自分の息子を嫌いになって追い出すのはちょっとおかしいでしょう」

 オオツの気持ちを察して、りらはそう答えた。以前、ヤマト姫がオオツはかわいそうな子だと言っていたのが思い出された。毎日、楽しそうに遊んでいるが、寂しさをぎゅっと耐えているに違いないのだ。

「私もね、お母さんが亡くなって、もういないんだ。お父さんとお兄さんはいるけど、寂しいね。ちょっとオオツ様に似てるでしょ」

「リラも……? 知らなかったよ。父上と兄上はどこにいるの? 何をしているの?」

「武蔵の国の端っこの方で、酒を造ってるの」

「采女は本当に遠いところからひとりで来るんだね。……母上はどんな人だった? 覚えてる? 僕はもっと子供の時だったからあんまり覚えてないよ」

 久しぶりに、りらは母親のことをじっくりと考えた。学校から帰るといつもりらは母親の咲夜が働いている自営の酒屋を覗いてから、近くの自宅に戻った。桧枝酒造は伝統的な酒屋だったが、咲夜は酒粕や日本酒を使った化粧品を売り出すことを提案し、お得意先に試供品を配ったりしてちょっとした目玉商品を作り出していた。化粧品を自分の手や顔で試していたので、咲夜の肌は白くてすべすべして若く見えた。職人気質の父親は最初、新しい事業に手を出すのを嫌がっていたが、妻が化粧品の開発に一生懸命取り組み、一層きれいになっていくのを見て、酒の化粧品を桧枝酒造の仲間に加えるに至ったのだった。

 りらは母親が亡くなった後、父親が「咲夜ちゃんの形見になっちまったなあ」と目本酒の化粧水のボトルを神棚に捧げて眺めていたことを思い出した。

「私たちの母もきれいな人だったのよ」

 オオクが今にも泣きそうな顔で、りらに言った。弟にも自分にもつらいことなので、オオクは母親の話をほとんど他人にしたことがなかったし、オオツに話してやることもなかった。けれども、オオクにもっと語ってやるべきなのではないかと思った。

「サララ様のお姉さんなのよね?」

「そう。すごく似てるの」

「意外だわ。性格も?」

「クサカベの母上よりも気が強くて、たまに怖かった!」

 さっきまでしんみりしていたオオクは言いながら笑い出してしまった。だって、サララ叔母様の姉だもの。しっかりしてるに決まってるじゃない。父上もお酒を飲み過ぎた時はいつも怒られていたわ。オオツ、あなだだって、しょっちゅういたずらして叱られてたんだから――。

 早くに亡くなってしまったと聞いていたから、たおやかな女性をイメージしていたが、どうやらオオクはパワフルでさばさばしていたようだ。

 数日後、りらが廊下を歩いていると「待って」と呼び止められた。アエだ。

「どうしたの?」

「お願いがあって……」

 立ち話で済ませられるようなものではない雰囲気だったので、りらは近くの空いている小部屋にアエと共に入った。アエは声を低くして訊ねた。

「クサカベが元気かどうか、リラは知ってる? リラはほんとはオオシアマ様やサララ様の女嬬にょじゅって、オオツから聞いたから……」

 りらの顔が少し青ざめた。オオツはりらの正体をアエに話してしまったのだ。もし、アエがこのことをメイに伝えていたら、大津宮にオオシアマ側の人間が何人も潜り込んでいることが発覚してしまう。

「あ、私、誰にも話してないから心配しないで!」

 アエは一生懸命に言った。オオシアマが窮地に陥るようなことはしない。それはつまり、大好きなクサカベにも害が及ぶということだから。りらの正体やオオシアマが戦をしようとしていることは子供たちだけの最重要機密事項だった。

「たぶん元気にしてると思いますよ。この前までは吉野山に入って、修行をしてたみたいです。……会いたい?」

 もう半年もクサカベとアエは離ればなれで暮らしていた。それは陽一とりらも同じだったので、相手が小学校高学年くらいの女の子であれ、りらにはアエの気持ちがよくわかった。もう少し気を遣って、アエにも手紙を書かせてあげればよかったと後悔した。

「私も吉野に行きたい。オオシアマ様にお願いしてみて」

 切実なアエのお願いに、何とかならないかと思案したりらは、とりあえず陽一に相談することにした。こんな時、携帯電話があればすぐに声も開けるし、相談もできるのに。やはり古代の生活は何かと不便なのだ。

 数日後に返ってきた手紙には、クサカベもアエに会いたがっているが、アエを今の時点で吉野に引き取ることはできないと書かれていた。しかし、挙兵直前に大津宮に残っている者たちを脱出させる時にアエも連れて行くとのことだった。

「――必ずクサカベ様には会えるから今は我慢しましょう。実はね、私も吉野に背子がいるの」

「えっ、本当?」

「私の背子はオオシアマ様の舎人をしているのよ」

 背子とは恋人とか夫という意味で、後宮に勤めている間にりらが覚えた古代の言葉の一つだった。

「あなたもつらい立場なのね…… 一緒にがんばりましょう!」

 アエは突然、りらの手を握ってそう言った。何か連帯意識が芽生えたらしい。そして、「ねえねえ、あなたの背子はどんな人? 武芸は得意? 歌は送ってくれるの?」などと俄然はりきって質問攻めにしてきたのだった。

 この恋バナが好きなおませな女の子が、数十年後に天皇として即位、遷都などを敢行し、譲位してからも実権を掌握することになるなどと、誰が想像できただろうか。


 恵みの雨というのは作物の成長に欠かせないものだが、それが長らく続くとなると計画的な野外活動には適さない。大津宮からの情報によると、もう畿内の軍事訓練は要求レベルに達しているという。

 「あ~あ、また今日も雨だれ、母さん」

 「仕方ないでしょ、五月雨の時期だもの」

 戸を開け放つと雨と土の匂いが室内に入ってくるが、同時にひんやりとした空気も流れ込んでくる。

 クサカベはオサカベと敷物を敷いた床に寝そべって本を読んでいた。サララは女嬬たちと夏物の衣を縫っている。美輝はいずれ合流することになるアエの衣を作るのに熱中していた。専門学校では時々、仲間とダンスの衣装も自分たちで縫製することもあり、手仕事は嫌いではないのだ。

「それって、アエの?」

 「うん、どうかな? あんまり見かけない工夫なんだけど、襟元に刺繍をしようと思うんだ。貝とか星とかの柄で」

 美輝が鮮やかな空色の衣を見せると、クサカベは一人で照れている。アエはいつも桃色や山吹色の衣を着ているから、この色は新鮮だなぁ、でもかわいいだろうなぁ、まるで海の乙女だねと独り言を言って微笑んでいる。

 「アエは僕の大事な妃だから、一番かわいくなるように作ってね! あ、でもけばけばしだのに駄目だよ。上品なやつね!」

 生意気なやつだなぁと美輝は笑いを堪えながら、クサカベに「承知しました」と恭しく答えた。

 午後から雨脚が強くなった。今日は誰も出かける予定はなかったが、古野宮にやってきた人物がいた。オオシアマが正殿に向かうと、サララも裁縫を中断して後に従う。

 「お久しぶりにございます」

 額を床にこすりつけるくらい頭を下げた青年は、オギミという飛鳥官に残っているオオシアマの舎人だった。急ぎの報告だというので、髪も服も濡れたままである。

 「雨の中、ご苦労」

 「オヨリが別件に対応しているので、私か参りました。例の東国徴兵の話ですが、春先に大津宮から美濃と尾張の国宰に対し、カヅラキ大王の御陵造営のため人員を選定するよう命令がありました。しかし、実態は武器を取らせて訓練などをしているのです」

 「全て順調、ということだな」

 オギミは頷いた。以前、オオシアマたちはまだ吉野に来る前に作戦会議をしたことがあった。そこでオヨリは東国封鎖と徴兵の方法を知り、後に仲間のオギミに作戦を伝えていた。

 「最近はこの雨で訓練が滞っていますが、もし命令が下れば即応できる態勢は整っています。古野へ来る前に飛鳥に寄ったのですが、吹負殿からこれを……」

 懐から出されたのは木簡である。オオシアマとサララは黙読すると互いに顔を見合わせた。それは正真正銘の大津宮からの指示書であった。宛名は留守司の高坂王、差出人の署名は御史大夫の巨勢人だ。

 「吹負は、高坂王の懐柔に成功したのね」

 「はい、ご覧の通り、オオトモ側は五月雨が終わる時期に畿内の軍団を動員し、兵衛を飛鳥に集結させるようです」

 「考えることはどっちも同じだな。でも、オオトモの臣下に天文術に長けている者はいないんだよ。俺は亡き大王に再三、天文博士を採用すべきだって進言してきたし、オオトモにも言っていた。それなのに、唐との関係を刺激したくないとか何とか言って、蔑ろにするから……」

 オオシアマは大げさに残念がってみせた。この時代、星の運行や気象状況を判断する天文学は機密度が高く、唐の専売特許であり、朝貢国は唐から暦や気象情報をもらわなければならなかった。大和は既に唐の朝貢体制から抜けてはいたものの、天文学を官制化するには至っていなかった。

「さて、五月雨がいつ終わるか、正確な判断ができるのはどちらだろうな。オギミ、今日はもう休んでよいから、明日、飛鳥に行って天文札を取ってきてほしい」

「承知しました」

 天文札というのは、オオシアマが勝手にそう呼んでいる、自分の天文に関するメモ帳のことだ。もう10年くらい天文や気象の観察を続けており、木簡に記録を付けているのだった。

「それから、私は直接見たわけではありませんが、吹負殿が言うには大津宮から飛鳥宮までの道のりは斥候が放たれていて、さらに宇治橋の守衛にオオシアマ様の舎人が食糧を運ぶのを妨害させているとのことでした」

「なかなか攻撃的じやねぇか。もう大津宮との書簡のやりとりは宇治経由では無理だな。けど、兵糧攻めにしようとしても無駄だ。こっちの蓄えは宍入邸に任せてあるから――」

「はいはい、そこまでね」

 サララは夫の勢いを止めた。オギミは体を冷たい雨で濡らしたまま侍っているのだ。

「シヒ、オギミの着替えを持って坊へ案内してあげて。湯は沸いてるわね?」

 サララが指示をすると、オオシアマは気が回らなかったことを舎人に詫びた。シヒがてきぱきとオギミを先導して退出する。

「戦に勝ちたいならあなたに付いてきてくれる舎人を大切にしなきゃね」

「そうだったな。……俺には君が必要だよ」

 オオシアマは素直に妻に感謝した。

 それから二日後、オギミはやはり雨の中、機密情報に該当する天文札を持ち帰ってきた。札には季節毎の重要な気象状況と天体観測が記されており、10年分と少ないものの、大津言にはこのような記録が皆無だとすれば、オオシアマに有利なことは確かだった。

 オギミが古野宮に来てから半月が経とうとする頃、貴子からの手紙が届いた。最近、近江の私邸にタケチと竜成が戻ってきたということだった。

――鄭くんは相変わらずですが、タケチは驚くほど逞しくなりました。海人族に鍛えてもらったようです。

 美輝が読み上げた手紙を聞いて、オオシアマは一瞬だけ嬉しそうな父親の顔になったが、すぐに王としての思考に戻り、タケチを総指揮官に据えることをサララや他の息子たちに正式に告げた。

 大津宮ではいかに迅速に飛鳥に兵を動員するかということが、重臣たちを腐心させていた。紀大人は美濃と尾張の兵士からを琵琶湖の東側に沿って南下させ、飛鳥に集結させる計画を提出したが、これはもちろんフェイクであって、オオシアマの行動から目を逸らさせるためである。

「現時点で飛鳥から吉野に展開できる兵力は3万です。遠国へ動員をかければ倍にはなりましょう。しかし、オオシアマ勢の兵力は皆無ですから、これで十分かと」

「飛鳥を防衛し、吉野を攻めれば敵方はそれで終わりですなあ」

 オオトモの後ろに控えていた潤は、御史大夫たちのあまりに楽観的な見積もりに閉口したが、親切に東国にも目を向けた方がいいと教えてやる気もなかった。すっかりオオシアマの影響が及ぶ東国は自分たちが手中に収めていると安心しきっているようだ。

 確かに、兵力数で言えば圧倒的に大津宮が勝っており、この時点ではこの上なく有利なのだった。たとえオオシアマが東国の兵力のみを自分のものにしたとしても、畿内の兵力はその3倍はあるらしい。しかし、オオトモたちは既に軍の指揮権がオオシアマに握られているなどとは思ってもみないようだ。

「それで、五月雨はいつ頃終わるんだ?」

 いつもより肌寒い雨天を室内から眺めながら、オオトモが誰とはなしに訊ねると、蘇我赤兄が答えた。

「百済の暦博士によりますと、今年は気温が低くあとひと月はこのような状態だろうと申しておりました」

「そうか…… 左大臣、神の占はどう出ている?」

 オオトモに名指しで訊ねられた中臣金は、昨日届いたばかりの伊勢社に仕える祝の奏上を述べた。

「伊勢大神のお告げは、ずっと、10日ばかりですが、くぐもっていると。鏡が晴れぬのでございます。暦博士の申すとおり、五月雨は来月まで続くということでしょう」

 またしても潤は古代人の発想に呆れ驚いた。そりゃ、梅雨で湿度が高いんだから鏡が曇るのは当然だろうよ……。それが、ここでは神意が曇っているということになるらしい。しかし、この発想が古代なのだ。もし現代であれば、テレビやネットで天気予報なんていくらでも調べられるし、職場の美保基地にも気象隊がいて基地周辺の天気図を提供してくれたりするのに。そもそも軍事行動には正確な気象情報が欠かせないものだ。まあ、郷に入っては郷に従えということで、潤は信じるふりをして、左大臣が告げる神意に対して適当に頷いていた。

 一方、オオシアマはほぼ毎日、雨にもかかわらず外をうろついたり、天文札を眺めたり、卦で占ったりして五月雨明けを予想しようとしていた。潤が見たら、大津宮の連中とたいして変わらないなと思ったに違いないが、オオシアマの予想は大津宮の暦|専士や伊勢祀のものとは異なっていた。

「今日は6月庚辰、あと数日したら気が動くかもしれない」

「いつ出発してもいいようにしておくってことね?」

 オオシアマの判断ではもうすぐ天候が変わりそうだということだった。

 翌日、吉野山の角乗から手紙が届いた。

――師匠はこれから一人きりで修行に入られます。当分の間はどなたともお会いにならなりません。山の神々の気が高ぶっているようです。ご武運を。

 一見するとそっけないような文面だが、後半部分はオオシアマヘの重要な示唆であった。山の神々の気が高ぶっているというのは、変化の兆しである。そして、小角と違って通常の修行を続ける角乗が「ご武運を」という語で結んでいるのはもう近々、オオシアマと顔を合わせたり手紙をやりとりすることがなくなるだろうということを意味していた。

「つまり、数日以内に五月雨が終わって、俺が吉野を離れることを、角乗は予期してるんだよ」

「父さん、小角はどうしちゃったの? もう会えないの?」

「いや、たぶん師匠は吉野でより高みに上るために厳しい修行をされるんだろう。自分との戦いってことさ。だから俺たちも勝たないと会わせる顔がない。さあ、もう休もう」

 オオシアマは息子たちをサララと世話係の女嬬に引き渡すと、自分も床に就いた。こんな風に静かに横になれる夜はもう残されていない。

 早朝、風が止み、薄曇りである。

 空の様子を観察し、占いを終えたオオシアマは、飛鳥へ偵察に行っていたオギミの報告を受けると、正殿に3大の舎人を呼びつけた。

「オヨリ、ヒロ、キミテ、聞いてくれ。オギミの報告によると、オオトモは飛鳥から吉野へ兵を送り、こちらを包囲する作戦らしい。すぐに安八磨評に行って、湯沫令ゆのうながしに動員令を下せ。それから同時に美濃国宰には、国内の軍を派遣して早急に不破への道を封鎖させろ。行け」

 それは戦いの始まりであった。

 不破が封鎖されるタイミングに勝敗がかかっていると言っても過言ではない。大津宮は飛鳥寺の槻木広場を本陣として整え始めていた。加えて、いよいよ五月雨の季節が終わろうとしている。

 翌日は朝から雨で、風も強く吹いていた。もし晴れていたら出発しようと思ったが、これでは動けない。妻や子供たち、それに女嬬もぞろぞろと連れて行くには悪条件の天候だ。ここで一日足止めを食らっても、オヨリたちが一刻も早く美濃に到着すればとりあえずの目的は達成される。

 24日。とうとうその日がやって来た。まだ太陽が昇る前、オオシアマは舎人のエサカとシマに命じた。

「飛鳥へ行って、高坂王から駅鈴をもらえるか訊いてくれ。前もって、もし大津宮が俺たちが動き始めたことを知らなければ駅鈴は渡さないということを決めてある。だから駅鈴がもらえなければ、シマはすぐに吉野へ戻ってこい。エサカはその足で大津宮へ行ってタケチとオオツを呼び出し伊勢で落ち合おう。万が一、高坂王が駅鈴を渡してきたら、オオトモの動きの方が速かったということだ。その場合は皆で吉野へ戻ってこい」

「わかりました」

 太陽の光が天と地を照らし始めた頃、エサカとシマは馬に乗り飛鳥へ急行した。

 飛鳥の留守司では、吹負によって取り込まれた高坂王らがいつも通り勤務を始めていた。昨日の大雨が嘘のように、清々しい青空が広がっており、初夏の湿気が感じられた。

 エサカとシマは飛鳥宮の手前で馬を下り、衛士に証明書を提示した。これは吹負が用意した偽の証明書だ。既にオオシアマの名を使って身分を証明することはできなくなっていたからだ。

「高坂王!」

 留守司に案内されたエサカは高坂王らしき人物を見かけると声を掛けた。

「お前たちは、何者だ? 見かけない顔だが」

「……吉野のさるお方からのお願いです。駅鈴をいただけないでしょうか」

 その言葉を聞いた高坂王は目の前で跪いている舎人たちの正体を知り、すぐに「それはできない」と返答した。長らく仕えてきた大津宮はまだ動いていない。

「では仕方ありません。これにて失礼いたします」

 オオシアマの舎人たちはそう言うなり飛鳥宮を離れ、エサカは北へ、シマは南へ駆けて行った。

 駅鈴を渡さなかったのは間違いではないか、と高坂王は後悔の念が沸き起こっていた。もし自分が駅鈴を渡せば、オオシアマ方は動揺したはずだ。その間に急いで大津宮にオオシアマが挙兵の動きを見せたと報告すれば、オオトモの勝利に有利に働くし、自分の功績も大きいものとなっただろう。

 高坂王は今は使用されていない飛鳥の地を守る役目を与えられているが、亡きカヅラキ大王も次期大王のオオトモも近江の地を拠点としていて、飛鳥に留まっている限り、はっきり言って顧みられることはない。

近江に呼ばれたところで、自分のような凡人より百済の帰化人が優遇されるに決まっている。そんな不満を抱いているところへ、大伴吹負という男が大津宮に見切りをつけて飛鳥へ戻ってきた。そして、オオシアマが大王になればまた飛鳥に宮が移り、活躍の機会が与えられるだろうという話をし始めた。

 しかし、オオシアマの舎人に駅鈴を渡さなかったのはやはり間違いだったかもしれない。どうやって吉野に籠りっぱなしのあの風変わりな王子が、ヤマト大王とオオトモに挑むことができるのか。

「誰かおるか? 用がある」

「はい、ただいま」

 高坂王は木簡にさらさらと何事か書きつけ、呼び出しに応じた雑使に手渡した。

「急ぎだ。これを持って大津宮へ行き、左右大臣どちらかへ届けるように」

 雑使が執務室から出ていくと、高坂王は迷いのため息を吐き出した。自分の役目は現在の大王家を助けることではないのか。オオシアマが動き始めたことを知らせるのが本来の務めではないのか。

 高坂王は大津宮にオオシアマが挙兵するようだと報告の使者を出したが、それよりも早く、シマが吉野宮へ帰り着いた。

「駅鈴はもらえませんでした。まだこちらに有利です」

「よし、今を限りに吉野宮を離れる。残りたい者は残れ、それで咎めたりはしない」

 最終的にオオシアマに従うことになった舎人は20人、女嬬は10人ほどとなり、女嬬の中には桜児とシュナも含まれていた。オオシアマは女嬬らに男装をさせた。

 宮の中庭にはずらりと馬が並んでいる。予め角乗が地元の国栖に指示をして集めさせたものだ。陽一は最小限に荷物をまとめて一頭の馬に乗った。

「準備はいいか?」

 オギミが伴の者たちを見て回っている。しかし、チトコの荷物がやたらと多い。

「どうしてそんなに荷物があるんだ、お前?」

「いや、凡海郷でもらった貴重な紙の冊子だよ。これに戦の記録をつけようと思ってね」

「マメなやつだなぁ。けど、オオシアマ様の偉業を後世に残すのも大事な仕事だな」

 前方が進み始めたので陽一も馬を進めた。いつのまにか陽一の後ろに桜児が乗っており、不安げに周りを見渡している。不安ならついてこなければいいのに、と思うのだが、陽一が出立するのに桜児が黙って見送るわけがない。

「私、お邪魔にならないように気を付けるから。でも、ヨウイチ様は兵士ではないから危ない目に遭うことはないわね?」

「たぶんね」

 吉野宮で過ごしている間、桜児は何かと陽一に近づき世話をしていた。本当ははっきりと世話などしなくていいと言えばよかったのだが、狭い同じ空間で過ごしている限り顔を突き合わせるだろうし、そのうち、りらとも再開するのだからその時に言えばいいやと、うやむやにしてしまっていた。

 一行は吉野宮を北上し、津振川つふりがわに沿って宇陀へ向かった。宇陀評に近づくにつれ、オサカベが落ち着かなくなってきた。おなかが空いてきたということもあるが、久しぶりに母親のカジメに会えるからだ。

 家々の中で大きな建物が一軒だけある。そこが宍人邸であった。建物の囲いの入口に人影が見え、それが自分の母親と祖父母だとわかると、オサカベは大きく手を振った。

「母上! ただいま!」

 オサカベは舎人に手伝ってもらって馬から降りると、一目散に母親の元へ駆けより抱きついた。オオシアマもしばらく顔を見ていなかった妻カジメを愛おしく見つめた。

「あの女の人がオオシアマの奥さんなの? なぁんか、地味だね」

 器用に馬を陽一の隣につけた美輝が言った。確かに、サララの華やかさやヌカタの理知的な雰囲気はなく、カジメはどこにでもいそうな女性だった。

「元気だったか、カジメ」

「はい。あなたも。少しお姿がお変わりになったようですけど」

 袈裟を身につけているのに髪の毛が中途半端に伸びた夫を見て、カジメは微笑んだ。そして、カジメは馬の一行に向かって歩み、オオシアマのもう一人の、正式な妃の前で跪いた。

「サララ様、お久しゅうございます。オサカベがしばらくお世話になり、感謝いたします。道中この先長いですから、どうぞわたくしどもの家で一息おつきになってください」

 まさか挨拶に来るとは思っていなかったサララは面食らって、ぎこちなく微笑み返した。何も動揺することはないじゃない、サララ!

 宍人邸では肉を中心とした力の付くような食事が提供され、これからの旅程で必要な食糧も驢馬に乗せられた。

 うっかり長居しそうになったが、まだ先を急がねばならない。オサカベは再びカジメの元で育てられることになり、名残惜しそうにクサカベにお別れの挨拶をした。オオシアマはカジメとオサカベの手を握り、戦の勝利を約束した。

 道の途中、地元の道案内のために集めさせていた猟師たちを一行に加えて前進する。夏になり日没が遅くなっているので明るいうちに馬を走らせたが、日が落ちるとすぐに闇夜がやってきた。誰も住んでいない家の垣根をはぎ取って松明にして明かりをつけることにした。

「疲れただろう」

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