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夜明け前 胸に灯せる ひとすじの 香に託したる 未来踏みゆく 3

右大臣邸の奥へと続く廊下は、朝の光がまだ届かず、薄暗い

足音が静かに響くたび、胸の奥の鼓動がひとつずつ重くなる


右大臣の御座所の前で立ち止まった

襖の向こうから、香のかすかな匂いが漂ってくる


女房が静かに襖を開けた


「失礼いたします」


私は深く息を吸い、その暗がりへと足を踏み入れた



中は静謐で、朝の光が障子越しに淡く差し込んでいる

右大臣は几帳の奥に座し、その姿勢は揺るぎなく、まるで山のように動かない


右大臣の視線がゆっくりとこちらに向けられた


「…夕顔と申すな」


その声は低く、しかし鋭い

私は深く頭を下げた


「はい

夕顔にございます」


右大臣はしばし沈黙し、私を見据えたまま言った


「暁が申した

そなたを正妻に迎えたいと」


胸が痛むほど締めつけられる


「…はい」


右大臣は目を細めた


「正妻とは、家の顔

右大臣家の行く末そのもの」


私は静かに頷いた


「はい

暁様の言葉に恥じぬよう、私の香を焚きに参りました」


右大臣の眉がわずかに動く


右大臣は手を軽く動かすと、香炉が私の前に置かれた


「ならば、そなたの器、覚悟、心根――

すべて香にて示してみせよ」


私はその言葉を合図に、香箱を開く

中にあるのは、今の私を形づくる四つの香


沈香

白檀

薄荷

そして、梅の花の末をひとつ


どれも強く主張しない

けれど、どれも私の人生の一部


私は選んだ沈香を指先でつまみ、香炉の熱に近づけた

火に近づけると、淡い煙が立ち上り、静かに部屋へ広がっていく


沈香の深い、静かな気配

派手でもない

重くもない

ただ、心の底にそっと触れてくるような、長い時間を生きた木の記憶


右大臣の眉がわずかに動いた


次に白檀を重ねる

沈香の深さに、白檀の柔らかい温かさが溶けていく


まるで、冷えた空気の中に灯る小さな火のように、部屋の空気がほんの少しだけ和らぐ


右大臣は何も言わない

ただ、香の変化を見ているよう


私は薄荷をほんのひとかけ、指先で砕いて香炉に落とした

その瞬間、透明な風がふっと通り抜けるような清涼が広がる


沈香の深さを切らず、白檀の温かさを壊さず、ただ静かに、呼吸を整えるように


右大臣の目が細くなる


最後に、梅の花の末をひとつ


火に触れた瞬間、凛とした、冬を越えて咲く花の気配が沈香の奥に細く、静かに立ち上る


強くはない

けれど、確かにそこにある

私の今を象徴する香

覚悟の香


沈香の深さ

白檀の温かさ

薄荷の透明

梅の凛とした余韻


それらが重なり合い、部屋の空気をゆっくりと満たしていく


私は香炉の前で深く頭を下げた


「これが…今の私の香にございます」


沈黙が落ちる

香の煙がゆらゆらと揺れ、その向こうで右大臣の表情が読めない


右大臣はしばらく香の煙を見つめ、やがて静かに息を吐いた後

口を開いた


「そなたの香…」

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