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夜明け前 胸に灯せる ひとすじの 香に託したる 未来踏みゆく 2

右近が涙を拭いながら部屋を下がると、静けさが戻った


香炉の煙だけが、夜の闇の中で細く揺れている


私はそっと香箱を手元に引き寄せ、ゆっくりと蓋を開ける


中には、これまで私が調え、焚き、誰かに渡し

誰かの心に触れてきた香の欠片たちが、静かに眠っていた


沈香、白檀、丁子、龍脳…

どれも私の人生の一部


指先で一つひとつを撫でるたび、記憶が香りのように立ち上る


あの人の微笑み

嫉妬

迷い

優しさ

そして、別れ


香はいつも、私の代わりに言葉を紡いでくれた


だからこそ

今、選ぶ香は

誰かのためではなく、私自身のため


私は沈香の小片をそっと摘み上げた


深く、静かに、しかし確かに心の奥に届く香り


香炉に火を入れると、沈香はゆっくりと熱を帯び、淡い煙を立ち上らせた

その香りが部屋に満ちていく


胸の奥が、静かに、しかし確かに熱くなる


私は香炉の前に膝をつき、細い煙を見つめた


暁と歩む未来を選ぶ

そのために、私は私の香を焚く…


夜が明けきらない薄明の空に、かすかな朱が差し始めていた


夜明け前――決意の刻


私はゆっくりと立ち上がる


巳の刻

右大臣の前に立つために


暁と共に歩む未来を、自分の手で掴むために



右近に手を借りながら牛車へ乗り込む

香を選んだ夜の余韻が、まだ胸の奥に静かに残っている


牛車の簾が下ろされると、外の世界がふっと遠くなった

蹄の音がゆっくりと動き出し、車輪が朝露を踏む音が響く


牛車で揺られる中、右近が寄り添いながら微笑む


「夕顔様…

昨夜は取り乱してしまいましたが、私は、夕顔様を信じております」


「右近…」


右近はふっと柔らかく笑った


「夕顔様は夕顔様です

どなたの前でも、変わらずにいらっしゃればよいのです」


その言葉は、右近が、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえたけれど

胸の緊張が少しほどける


私は小さく頷いた


「ありがとう、右近」


右近の言葉と、香の残り香が袖に淡く漂い、それが私の背を押してくれる



右大臣邸に近づくにつれ、空気が少しずつ張りつめていくのがわかった


大きな家の重み、格式、静けさ――


そして、屋敷の門が見えたとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられた


ここで、私は試される…


牛車が止まる

右近が簾を上げると、朝の光の中に、暁が立っていた


その姿を見た瞬間、胸の奥が熱くなる


暁は静かに歩み寄り、牛車の前で深く頭を下げた


「夕顔…

来てくれて、ありがとう」


その声は静かで、しかし確かな熱を帯びていた


私は牛車から降り、暁と向き合う


暁は邸の中へと続く廊下を示した


「ここから先は…」


私は深く息を吸い、頷く


「うん」


暁はそれ以上何も言わず、ただ私の背を見守るように立ち尽くす

右近がそっと私の袖を整えた


私はまっすく前を見て、一歩、廊下を歩み出す


右大臣の御前へ

自分の未来へ

暁と共に歩むための道へ


右大臣の前で香を焚くのは、ただの儀式ではない

今までとは違う

家の重さ、家格、覚悟、すべてを見られるということ


原典の夕顔なら、きっと震えて逃げただろう

誰かの影に隠れ、怯え、消えてしまったかもしれない


でも、私は原典の夕顔じゃない


暁と並んで立ちたい

暁の隣で、胸を張って生きたいんだ

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