香の道 試むる刻の 影深く なお照らさんと 薄明の子は 1
父の部屋の前に立つと、襖の向こうから香の匂いが漂ってきた
深く息を吸い、静かに、しかし確かな声で告げる
「父上
暁にございます」
「…入れ」
短い言葉
だがその一言に、家の重みと、父としての威厳が凝縮されている
襖に触れた指先が、わずかに震えた
それは恐れではない
覚悟が形を持ち始めた時に生まれる、静かな熱の震え
自分の未来と、夕顔の未来を賭けて――襖に手をかけた
父の部屋は、相変わらず静かで
しかし今はその静けさが、まるで戦場の前の空気のように重く感じられた
右大臣は文を読んでいた手を止め、ゆっくりと顔を上げる
その目は、いつもと変わらない厳しさを湛えているはずなのに
今はどこか、探るような光を宿していた
「いかなる用向きにて参った」
俺は几帳の前に膝をつき、深く頭を垂れる
「父上
恐れながら、申し上げたき儀がございます」
右大臣は文を閉じ、静かに息をつく
「申してみよ」
顔を上げる
「家のためと仰せられた御縁談、まことにありがたきことと存じます
されど…この身、すでに心を定めた人がございます」
右大臣の眉がわずかに動く
「…心を定めた、と申すか」
「はい
いかなる御叱責も覚悟の上にて
ただ、この命、家のために尽くす志は変わりませぬ
されど――誰と生きるかは、この暁が自ら選びとうございます」
目を伏せ、一拍置き、再び右大臣を真っ直ぐ見る
「夕顔を…正妻として迎えとう存じます」
右大臣は目を閉じ、深く、長い息を吐いた
「…朧月夜より、いささか聞き及んではいたが
まさか、ここまで思い詰めておるとはな」
再び深く頭を下げる
「父上の御心を煩わせること、まことに恐れ多く存じます
されど、こればかりは…譲り申すこと叶いませぬ」
右大臣はしばし沈黙した
香の煙だけが、静かに揺れている
「お前は右大臣家の嫡男
正妻には、相応の家の姫を迎えるが道理であろう」
拳を握りしめる
「道理は重々承知しております
ですが…夕顔を側室に据えれば、夕顔は必ずや不遇の道を歩むこととなりましょう」
右大臣の目が細くなる
「不遇、とな
側室として迎えられるだけでも、あの娘には過ぎたるほどであろう」
首を振る
「父上
夕顔は…孤独に沈む側室には、決してしてはなりませぬ」
右大臣の表情が険しくなる
「暁…何を申す
家の務めを忘れたか」
握りしめた拳に力がこもる
「忘れてはおりませぬ
されど、夕顔を側室に据えたその時より、夕顔は正妻の影に追いやられましょう」
一瞬、右大臣の目が揺れた
「家の名を背負う者が、己が情に溺れると申すか」
「情に溺れるのではございませぬ
ただ…共に歩みたいと願う人を、この手で守りとうございます」
右大臣は低く言い放つ
「正妻は家の顔
お前の妻は、右大臣家の行く末そのもの
その娘を正妻に迎えれば――お前は政の場にて孤立することとなろう」
胸が締めつけられる
「…それでも、夕顔を守りとうございます」
右大臣の声が鋭く響いた
「守れるものか」
心の奥に冷たい刃が刺さる




