春の風 胸の痛みを 呼び醒まし 君の名ひとつ 歩を進めしむ
宮中の一角
春の陽が差し込む廊の端で、俺は文机に向かっていた
右大臣家の嫡男として、政務は山のように積み上がっている
そこへ、控えていた侍従が静かに近づく
「暁様
五条の夕顔様の侍女、右近殿がお見えです」
手が止まった
胸の奥が、痛むように跳ねる
「…通せ」
侍従が下がった後、右近が深く頭を下げる
そして、手紙を両手で差し出した
「夕顔様より…お預かりいたしました」
手紙を受け取ると、封を切る前から、淡い香がふわりと立ちのぼった
夕顔の香り…
胸が熱くなる
『もう会いたくない
私に関わらないでほしい
兎に角…出て行って』
同時に、あの時の冷たさが蘇る
慎重に、静かに手紙を開いた
『もしよろしければ、一度お話しできればと思っています
夕顔』
短い
けれど、その短さと潔さに、夕顔の決意を感じる
そして――
自筆で書かれた文章に、夕顔の、俺に対する明確な意思を感じる
手紙を握りしめた
胸の奥が熱く、苦しく、そして…
嬉しい
「…夕顔」
思わず呟いた言葉は、冬の間ずっと押し殺してきた、愛しい人の名…
右近が静かに言う
「夕顔様は…暁様に会いたいと
ご自身の意思で、この文を書かれました」
俺は目を閉じた
『死ぬのが…怖いの…』
『好きになったら…死ぬかもしれない…
私は…死にたくない…
死にたくないから、ここまで生きて来た…
だから…暁に優しくされると…怖くて…
どうしたらいいか、わからなくなる…』
『あなたの事を、好きにさせないで…』
目を開き、右近を見る
「右近
夕顔は、今…?」
「五条にて、お待ちしております」
立ち上がった
政務の山も、父の視線も、今はどうでもよかった
「すぐに参る」
春の風が廊を抜け、夕顔の香りがふわりと揺れた
俺はその香りを胸に抱き、五条へ向かって歩き出す




