逃げし日を 越えて今こそ 名を呼べば 胸の痛みは 歩を進めしむ 1
春の風はまだ冷たく、五条の家の庭には薄桃の蕾が震えていた
香炉の灰を整えていたが、右近の慌ただしい足音に顔を上げる
「夕顔様…源氏の君様がお見えです」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が強く跳ねた
源氏が…?
何故急に…?
一瞬にして、疑惑、疑念、警戒、あらゆる感情が混ざり、私の背筋を冷たく撫でた
やがて、源氏が私の前に現れる
几帳の向こうに立つ影は、かつての華やかさを失っていた
源氏は静かに歩み寄り、深く頭を下げた
「夕顔…」
その声は、驚くほど弱かった
「これは…源氏の君
お久しゅうございます」
私も頭を深く下げた
「久しうなるな
須磨へ下ることとなり、その前にどうしても、そなたへ挨拶をと思うて参った」
須磨への挨拶…
そうか…源氏はいよいよ須磨に行くのか…
源氏は小さく息を吐いて一拍置くと、続けた
「そなたの香を、妖しと流した噂…
陰陽寮を動かしたのも、宮中より遠ざけたのも…
すべて、この私だ」
息を呑む
知っていた事実だけれど、本人の口から改めて聞くと、胸が痛む
源氏は続ける
「紫が裳着を拒み続けた折、惟光より聞いたのだ
幼き紫に、そなたが『理想のままに生きずともよい』と告げたと」
指先が震えた
「私は…そなたが、私の思い描く行く末を離れ
私の知らぬ道を歩もうとするのが…恐ろしくてならなかった」
『誰かの理想の為に生きる必要はありません』
『夕顔様は…ご自身の香を焚いているのですね』
藤の花が香る二条院で、交わした会話
まさか…こんな形で返ってくるとは思わなかった
源氏は私をまっすぐ見た
「暁がそなたを想っていると知った時、私は愚かにも朧月夜に手を伸ばした
右大臣家を揺らせば、そなたは私の側に留まると…そんな浅ましい望みに縋ったのだ」
言葉を失った
転生してから私は…御息所の物の怪や、源氏を避け、死を避けて来た
でも…
源氏自身も…嫉妬と恐れで揺れていたと言う事…
誰かを救いたくて焚いてきた香
それが、誰かにとっては、恐れるべきものとなった
香そのものが妖術なのではない
香に触れた人の心が揺らぐことを、誰かが恐れていた
源氏は
誰かを守るために
誰かの不安を鎮めるために
誰かの恐れを封じるために
その行動を起こしただけの事…
でもそれは、悪意ではなく、誰かを…
源氏は、静かに息を吐いた
「夕顔
恋とは…抗えぬものだ」
その言葉に、はっとする
「私はそれに溺れ
そなたを…傷つけてしまった」
胸が強く締めつけられた
「夕顔…
これまでのこと、すべて…
私の浅はかさゆえだ」
源氏は深く頭を下げる
「そなたが、どうか…
安らかであるように」
その姿に、背筋に電流のようなものが走り、源氏を見つめた
『もう会いたくない
私に関わらないでほしい
兎に角…出て行って』
『なんで心配なんかするのよ…
なんで会いたくないって言ってるのに帰らないのよ
なんで出て行ってって言ってるのに、出て行かないのよ!』
『困るんだ…そんな事言われても…
迷惑なんだよ…そんな事されても…
あなたが来ると…私はどうすればいいか…もう、わからなくなる…!』
私は…
源氏は顔を上げると、背を向け、歩きだす
須磨へ下る男の背中は、どこか寂しく、どこか清々しかった




