第一節
目を覚ました途端に涙が落ちる。
そんな日もあるんだな。
「……夢? ……びっくり……したけど」
本当に、自分が可哀想になるくらい驚いてた。心臓とかいう生き物に胸を叩かれ、寝起きだというのに全力で走れそうだ。
「もう、なんだよ。…………いや、朝になってる!」
そう。寝落ちして、いつの間にか朝になっている。世の中には、こんな眠った気がしない残酷な魔法があるのだ。
それはそれとして、今日が何の日だったかを思い出そう。
「……ぇ? 待って今何時? 今日、試験──お母さん!!」
気付けた。飛び起きた。棚上の時計を睨む。出発予定の三十分前。……とのことで、焦っていた表情に、わずかに安堵の色が滲んだ。
つまりは、ギリギリセーフ。安心して支度も出来る想定内の起床だったのだ。
「──おやおや。しっかり一人で起きれたじゃない」
よくやったね、リノンだなんて言っちゃって。そう褒めてるのか褒めてるつもりではないのか、よくわからない調子でお母さんが部屋に入って来る。
そして私の姿を見るなり、眉を顰めて言う。
「ちょっと……あんた、制服で寝たの? シワになったらカッコ悪いよ?」
「インナーだから替えは効くもん。寝起き即着替え作戦成功ってね!」
あとはスカートとジャケットを着るだけ。我ながらナイスな作戦だと思ってる。お母さんは否定的な言葉を重ねてきそうな顔をしていたけども。
でも、今は聞いてられないと主張するように、私はお母さんの脇をくぐり抜けた。
「まったく……。優秀な娘だよ、ホントに」
「声と言葉が一致してなーい」
しばらく学校の寮に入るからと、お母さんに言われた通りに二日かけて片付けた私の部屋。心残りになるものは捨て置くな──と、散々お詩的な言葉を並べられた結果、見事に思い出も生活感もなくなった。
あとは私を片付けるだけって?
まったく、優秀な母親だよ。
──小走りで洗面室へと辿り着くと同時に、「ほら、蒸しといた」と、お母さんが温かいタオルをパスしてくれた。
「ありがと」
それを顔にあてつつ、備え付けの棚から髪ゴムを取り出す。肩の所で内に巻く黒髪を梳き、結び癖のある二束を合わせて、耳下のちょい後ろに結び目がくるサイドテール調にした。
その様子に、口を挟まずにはいられない監視員様がおっしゃいます。
「その結び方じゃ、すぐに解けるよ?」
「けど可愛いじゃん」
減らず口。可愛くないな。
「ふーん。……魅せたい人でもいるの? 例えば、幼馴染の子とか」
「……別に会えるって決まってないし」
それでも、あの子についてなら風の噂で聞いている。私と同じ学校への編入が決まった事や、私よりも背が伸びてるって事。
そして……試験が免除されるほど優秀になってしまった事……。
「懐かしいね、レイジィ・サク君。もう、あんたと立ち場ひっくり返ったんじゃない?」
「そんな事ない。どうせ今でも、わたしの方がお姉さんだから。あの子は永遠に弟なんですっ」
切実な願望に見えた滑稽な現実逃避。
解釈不一致がもたらす懐古心。
自分でも分かってる。いじっぱりだと。本当は、会えるかもしれないと考えただけで心が弾むのに、弾むなと抑えつけてる。
多分それは……自分が抱えている劣等感を刺激する世界線へと繋がっていると感じたから。
会ってみたい。だけど会いたくない。
あの子は弟。私は姉。これが崩れたらと思う事が、なにより怖かったんだと思う。
「あんたの方が年下なのに、なに言っちゃってんだか」
お母さんの言う通りです。
なにを言ってるんだろう、この私。
洗面室から出て、手早く制服を体に馴染ませていく。部屋から鞄を持ってきてくれたお母さんに、私の完成品を見せつける。
「どお? わたしも立派な魔法学校の生徒って感じするでしょ?」
「……はいはい立派立派。ほら、もう時間になるよ」
生活用品一式や必要書類とかを詰め込んだ鞄を渡される。確かに、三十分もあった余裕は食い尽くされた。──もう、家を出なければならない時刻だ。
「水しか飲んでなかったけど、大丈夫?」
「平気。お腹すいたら駅でなんか買うよ」
「あっちで何かあったら、お父さんを頼りな。わかった?」
「あいー。……パパと会うのも久しぶりだわ」
「会ったら、魔力研究もいいけど、ちゃんと食べなって言っといて」
「……素直に聞くかな?」
「聞かなかったら、娘の手料理でも振る舞いな」
「情に追い込んでいく奴ー」
体でバタバタ。口でもバタバタ。
なかなか止まらない応酬は、玄関に着くまで続く。
事前準備のおかげで忘れ物なし。
完璧に準備を整えた私が、玄関の扉を開ける。外の光に透かされた髪の毛が、魔力と同じ色の蒼緑に溶けてきらめいた。
「じゃ、お母さん」
「──はい。行ってきな」
誇らしげに。少し寂しげに。
出発時間ちょうどに、私は家を出た。
「行ってきまーす!」
手を振り、笑顔で。
魔法学校の真新しい制服を着た私が、元気に走り出そうとしていた──ところでだ。
「あんた髪留め! 落ちそうだよ!」
「え? ああ!」
もう寸での所まで髪ゴムが力尽きようとしていた。結い直している余裕なんてない。髪留めは向こうに着いたら買い直せばいい。
それでは、ここまで頑張った勇者に休息を。そんな女神様なノリで髪ゴムを掬い取ると──
「お母さん、受け取ってー!」
投げた。
「はあ? どーこに投げてんだい!」
飛んで行った髪ゴムはお母さんの頭上を越えて、玄関のどこかしらの隙間に入ったらしい。
それもあるけど、なによりお母さんのイラついたリアクションを見て、私は笑っていた。
「ごめんなさーい! じゃあね!」
最後に大きく手を振って、駆け出した。
その後ろ姿。朝日に包まれる魔法学校の生徒を見て、お母さんは「ホントに大丈夫かね……」と呟いていた。
──うん、大丈夫だよ。
きっと、どんな時も。