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丘の道Ⅰ

 しばらくの間、お互いに無言であった。

 俺も真島のことを無視していたし、彼も無表情のままだ。相変わらずなにを考えているかわからない、とっつきにくいやつだと思う。


 車は、静かな道に入っていた。丘を(のぼ)る道だ。道路も通常の一車線に戻り、前方にも後方のバックミラーにもほかの車両の姿は消えていた。


 俺は窓から、外の景色をぼんやり眺める。

 視線を落として道路を見やれば、黒い水は完全に引いていた。試しに窓を開けて、片手を外へ出してみる。大きく上下左右に振った腕をまた車内に引っ込めて、その手をしげしげと見つめた。そこには、冷たい雨粒の一滴すらついていなかった。


 嵐は過ぎ去ったのだ。

 無事に難を逃れたのだと、俺は直観した。

 大きく開いた窓から浴びる乾いた風が心地よい。俺は満足げに自身の目元をゆるませた。


 車の速度も、ぐっとゆるやかになっている。上り坂を進んでいるせいもあるのだろうが、となりの優等生くんもようやく車の運転に慣れてきたのだろう。

 一時はどうなることかと思った。俺はふぅーっと長い息を吐いて――。


 しかしふと、心のなかに影がよぎった。


「あっ」


 俺は短く声を上げた。

 無音の風が、頬を冷たくなでる。まずい……とつぶやいて、俺は両手で頭をがしゃがしゃとかき乱した。


「母さんと妹……ドラッグストアに置き去りにしたまんまだ」


 なだらかに道を進むタイヤの音が、今度は俺の神経を逆なでする。

 家の車は、自分と真島の二人で乗ってきてしまったのだ。だったら母と妹は、まだあの豪雨のなかに取り残されていることになる。


「ああっ、俺のバカ! どうしてこんな大切なことを忘れてしまったんだ!」


 きっと、あの二人はもう……。


 滝のような雨と、黒い水がドラッグストアを吞み込む。そんな生々しい情景が頭に浮かんだ。そして車がなく、逃げ道を失った哀れな自分の家族が震える体を抱き寄せあって、助けを待つ姿も……。

 俺の両目から、ぼたぼた涙がこぼれ落ちた。


「なんで……なんで俺、あの時もっと冷静になって、まわりを確認しなかったんだろう……」


 顔をうつむかせ、嗚咽(おえつ)する


「死んじゃったんだ……バカ、俺のバカ……自分ばっかり助かろうとして、俺は……」


 悔いる言葉を吐くたびに、気持ちはどんどん惨めさを増していく。時すでに遅しなのだ。あんな豪雨のなか、置き去りにされた母も妹も……きっと俺のことをひどく恨んでいるにちがいない。


「……おまえのせいだぞ」


 うつむいた顔のまま、俺は運転席の真島に言った。

 最初はノドがつぶれて、小さな声しか出なかった。今度は顔を上げて少し呼吸を整える。震える声をなんとか外に押し出して、俺は真島に面と向かって言ってやった。


「おまえの、せいだからなっ……」


 ヒュッ、息を大きく吸い込んだ。駐車場で真島の絶叫を思い出しながら、俺は全身全霊で叫んだ。


「おまえのせいでッ!」


 真島賢治につかみかかる。澄ました顔の、その首元まできっちりボタンがしめられた襟をぐしゃぐしゃに握り潰して――乱暴に助手席へ引き寄せた。


「少しは悲しい顔をしろ! 自分がなにをしたのか本当にわかってんのか、ああっ!?」


 涙声で訴えているのに、真島はこちらを見向きもしない。優等生の顔は正しくまっすぐ……前を向いたままであった。

 駐車場の時と比べて、ずっと穏やかになった彼の運転を見ていると、なんだか自分だけがまだ荒れ狂う雨のなかに留まっているような気分になった。


(悔しい……なんでこんな……)


 どうにもこうにも、荒ぶった己の感情をぶつけるには車内も外も静かすぎる。

 俺はもう耐えきれなかった。


「……ちくしょう」


 やるせなさを胸に、真島の襟から手を離した。

 もう顔も見たくない。俺は助手席で、上半身を折って体を丸める。顔も膝の間に(うず)めて、全身で優等生の存在を拒絶することに決めた。


 足元のスピーカーから、メロディが流れてくる。

 あの――卒業式で披露する合唱曲だ。ふさいだ耳の隙間からメロディが侵入してくる。しつこくまとわりつくピアノの旋律に、俺の肩が震えた。


「~♪」


 優等生も、鼻歌でメロディをたどる。

 自由な大空へ羽ばたいて――旅立つ者たちへの賛歌であるはずなのに、いまの俺にとってはまるで真逆に聞こえた。地上へ縛りつけるような、重苦しさを感じるのであった。


 華々(はなばな)しい卒業式。

 先生一同、お父さん、お母さん、地域の方々……多くの大人たちの視線を一心に集めて、あいつは優雅に指揮棒を振るうのだ。


 ほかの生徒たちとは一段高い場所に立って。

 熱く、しなやかに。満ちあふれる自身の汗をきらめかせながら……。


(誰も、なにも知らないくせに)


 こいつがどれだけ卑怯なやつか、知らないくせに。


(……ああでも、そんな卑劣ささえも、きっと最後にはすべて許されてしまうのだろうな)


 なんたって彼は――真島賢治は、特別な生徒なのだから。


「はぁ」


 ゆるりと顔を上げる。「もういいよ」と、誰に言うわけでもなく、俺はつぶやいた。乾いた目をこすって、乱れた髪を軽く手で整える。


 姿勢を直して……けれど、優等生のご機嫌な鼻歌からこそこそ逃げるよう、窓辺へ顔を逸らした。全開の窓から涼しい風を浴びた俺は、静かに息を吐くのであった。

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