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昔私を捨てた御曹司が高級車で現れた日、安いサンダルの私を笑わない人がいた  作者: ちょこまろ


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第1話 安いサンダルの日に、昔の男と再会した

十年前、私は好きだった人に「住む世界が違う」と言われました。


その言葉は、ただ恋が終わっただけではなく、

私の中にあった自信や、自分の価値まで一緒に削っていきました。


もう忘れた。

もう大丈夫。

そう思って働き続けてきたはずなのに――。


仕事帰り、七百九十円の安いサンダルを履いた日に限って、

私はその男と再会してしまいます。


高級車の窓を下ろし、昔と同じ顔で笑う彼。

そして、そんな私の隣に、静かに立ってくれた人。


過去に傷つけられた女性が、自分の価値を取り戻していく物語です。

第1話、よろしくお願いいたします。

 十年前、私を「住む世界が違う」と言って捨てた男は、高級車の窓を下ろして、私の足元を見た。


 その日に限って、私は七百九十円のサンダルを履いていた。


 駅前のディスカウントストアで、閉店間際に買ったものだ。合皮のベルトは硬く、歩くたびに小指の付け根へ当たる。色は無難な黒。けれど、近くで見れば値段相応だとすぐにわかる。かかとの部分は薄く、ソールも安っぽい。


 本当は、こんなものを履くつもりではなかった。


 朝、いつものパンプスのヒールが折れた。玄関で右足だけ妙に沈んだと思った瞬間、金具が外れる乾いた音がした。修理に出す時間も、別の靴を選び直す余裕もない。


 どうせ今日は社内作業だけだ。


 誰に会うわけでもない。


 そう思って、私はそのサンダルを引っかけて家を出た。


 人生は、そういう日に限って、いちばん意地悪な偶然を用意している。


 午後七時半。


 私は、商業施設の裏手にある小さな広場で立ち止まっていた。


 仕事帰りに寄ったスーパーの袋が片手にある。中には半額になった鮭の切り身、卵、豆腐、そして明日の朝食用の食パン。財布の中身を考えながら、スマホで乗り換え案内を見ていた。


 五月の夜は、まだ少し肌寒い。


 雨上がりのアスファルトに、信号や車のライトが滲んでいる。湿った風がスカートの裾を揺らした。


 その時、低く滑るようなエンジン音がした。


 何気なく顔を上げた私は、息を止めた。


 濃いグリーンの輸入車が、広場の脇に停まった。


 街灯を映したボンネットは、濡れた宝石みたいに艶めいていた。車に詳しくない私でも、それが簡単に手の届くものではないとわかる。


 運転席の窓が、ゆっくりと下りた。


 中から顔を出した男を見た瞬間、私の手からスーパーの袋が滑り落ちそうになった。


「……美緒?」


 その声を、私は知っていた。


 忘れたと思っていた。


 忘れようとしていた。


 それなのに、たった二文字で、胸の奥が十年前の痛みに戻された。


 神崎悠真。


 大学時代、私が世界でいちばん好きだった人。


 神崎ホールディングスの御曹司。


 そして、私に「君とは住む世界が違う」と言った人。


 悠真は、昔より少し大人になっていた。頬の線は鋭くなり、髪はきれいに整えられ、シャツも時計も靴も、全部が高そうだった。けれど、笑い方だけは変わっていない。


 相手が自分を好きだと知ったうえで、少しだけ優しくして、少しだけ突き放す。


 あの頃と同じ笑い方だった。


「久しぶりだな。何年ぶり?」


 私は声が出なかった。


 足元が冷える。


 七百九十円のサンダルが、急にみすぼらしく見えた。


 今日に限って。


 どうして、今日に限って。


 もっとちゃんとした靴を履いていればよかった。


 クリーニングに出したばかりのコートを着ていればよかった。


 髪を結び直していればよかった。


 スーパーの袋なんて持っていなければよかった。


 そんな無意味な後悔が、一斉に胸の中へ押し寄せてきた。


「……お久しぶりです」


 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。


 悠真は私の全身をゆっくり見た。


 スーツ。


 スーパーの袋。


 そして、足元。


 視線がサンダルで止まった瞬間、喉がきゅっと縮んだ。


「変わらないな、美緒」


 何が、とは言わなかった。


 けれど、わかった。


 彼は昔もそうだった。


 直接ひどいことを言わない。


 けれど、私が一番気にしているところを、正確に撫でる。


「元気そうでよかった」


「……神崎さんも」


「神崎さん、か。ずいぶん他人行儀になったな」


 当たり前でしょう。


 あなたが他人にしたんでしょう。


 そう言えたらよかった。


 けれど、私は言えなかった。


 十年も経ったのに。


 仕事では、クライアント相手に平然と交渉できる。理不尽な修正依頼にも頭を下げられる。年下の後輩に指示も出せる。


 それなのに、悠真の前に立つと、私は一瞬で二十一歳の自分に戻ってしまう。


 神崎家の御曹司だった彼に、必死で釣り合おうとしていた、貧乏で地味で、不器用な女の子に。


「今、何してるの?」


「広告制作会社で、企画を」


「へえ。頑張ってるんだ」


 その言い方に、少しだけ笑いが混ざっていた。


 頑張ってるんだ。


 昔も、彼はよくそう言った。


 私が奨学金とアルバイトで大学に通っていた時。


 授業の合間にパン屋で働いて、夜は塾講師のバイトをしていた時。


 ブランド物のバッグを持つ同級生たちの中で、母のお下がりの鞄を使っていた時。


 悠真は決まって、優しい顔で言った。


 頑張ってるんだね、と。


 その優しさが、私は嬉しかった。


 でも今ならわかる。


 あれは、同じ場所に立つ相手への言葉ではなかった。


 少し上から、かわいそうなものを見る言葉だった。


「結婚は?」


 悠真がふいに聞いた。


 胸の奥に、小さな針が刺さる。


「していません」


「そうなんだ」


 彼は意外そうでも、嬉しそうでもなかった。ただ、確認しただけという顔だった。


「美緒は、真面目だからな。相手にも厳しそうだ」


 違う。


 私は厳しかったんじゃない。


 怖かっただけだ。


 誰かを好きになって、また自分だけが本気になるのが怖かった。


 誰かの何気ない一言で、自分の価値を全部否定されたような気持ちになるのが怖かった。


 悠真に捨てられてから、私は誰にも心を許せなかった。


 好きになりかけた人は何人かいた。


 でも、最後の一歩が踏み出せなかった。


 どうせ私は選ばれない。


 どうせ本気にしたら、傷つく。


 そう思ってしまった。


「そっちは?」


 聞きたくなかったのに、口が勝手に動いた。


 悠真は窓枠に肘を置き、軽く笑った。


「婚約してる。来月、式」


 胸が、音もなく沈んだ。


 祝福すべきことだ。


 十年前に終わった相手なのだから。


 それなのに、心のどこかが勝手に痛む。


 馬鹿みたいだと思った。


 本当に、馬鹿みたいだった。


「おめでとうございます」


「ありがとう。相手、父の知り合いの娘でさ。まあ、家同士の付き合いもあるから」


 相変わらずだと思った。


 彼にとって恋愛は、少し遊ぶもの。


 結婚は、家と家でするもの。


 昔、私が彼に真剣に告白した時、彼は困ったように笑って言った。


「美緒のことは好きだよ。でも、結婚とか、そういう話になると別なんだ」


 あの時の私には、その意味がわからなかった。


 好きなら一緒にいられると思っていた。


 頑張れば認めてもらえると思っていた。


 でも、彼にとって私は最初から、結婚相手ではなかった。


 長く付き合う相手でもなかった。


 ただ少し、真面目で一生懸命で、都合よく好意を向けてくれる女だったのだ。


「じゃあ、急いでいるんじゃないですか」


「まあね。人を待たせてる」


 人を。


 誰かを。


 昔も、そうだった。


 彼はいつも、私の知らない誰かに呼ばれていた。


 私と一緒にいても、電話が鳴ればすぐ行ってしまった。


 それでも私は、彼が戻ってくる日を待っていた。


 いつか私を選んでくれると、本気で思っていた。


「美緒」


 悠真が名前を呼んだ。


 私は顔を上げる。


「今度、時間ある? 懐かしいし、食事でも」


 一瞬、心が揺れた。


 そんな自分が嫌だった。


 まだ、嬉しいのか。


 まだ、期待するのか。


 この人は来月結婚する。


 それなのに、昔の女に食事へ行こうと言える人だ。


 そんなこと、わかっているのに。


 胸の奥の古い傷が、まだ彼の声に反応してしまう。


「……考えておきます」


「変わらないな。そうやって、真面目に考えるところ」


 悠真は小さく笑った。


 その笑い方が、昔のままで。


 苦しくて。


 悔しくて。


 逃げ出したかった。


 その時、悠真の視線がまた、私の足元へ落ちた。


「でも美緒ってさ」


 彼は、悪気がないような顔で言った。


「そういう安いものを平気で身につけるところ、昔から変わらないよな」


 息が止まった。


 七百九十円のサンダル。


 濡れた石畳。


 スーパーの袋。


 全部が一気に、私を惨めにした。


「神崎さん」


 言い返そうとした。


 でも、声が出ない。


 悠真は続けた。


「ごめん、悪い意味じゃないよ。美緒はそういうところが素朴っていうか。昔もそうだったじゃん。真面目で、飾らなくて」


 飾らなくて。


 違う。


 飾れなかっただけだ。


 お金がなくて。


 余裕がなくて。


 あなたの隣に立ちたくて必死だったのに、何を選べばいいのかわからなかっただけだ。


「まあ、でも」


 悠真は少し笑った。


「君は真面目でいい子だけど、俺の隣に立つタイプじゃなかったんだよな」


 胸の奥で、十年前の私がうずくまった。


 ああ。


 結局、この人は何も変わっていない。


 私がどれだけ働いても。


 どれだけ服を選んでも。


 どれだけ大人になったふりをしても。


 この人の目には、私はずっと、彼の隣に立てなかった女なのだ。


 涙が出そうだった。


 悔しかった。


 でも、その場から動けなかった。


 その時、背後から低く静かな声がした。


「彼女の価値を、靴で測るんですか」


 私は振り返った。


 そこに、瀬名遼介が立っていた。


 私の会社が今、最も力を入れている大型プロジェクトのクライアント。


 瀬名コーポレーションの常務取締役。


 いつもは会議室でしか会わない人。


 ネイビーのスーツに、濡れた街灯の光が薄く乗っている。手には黒い傘。髪は少しだけ雨に濡れていた。


 遼介は、悠真ではなく、まず私を見た。


 泣きそうになっていることに、気づかれたのだと思った。


 けれど彼は、何も聞かなかった。


 ただ、私の隣に静かに立った。


 近すぎない。


 でも、確かに隣だった。


読んでくださってありがとうございます。


美緒の前に現れた昔の男・悠真。

そして、彼女の隣に静かに立った瀬名遼介。


安いサンダルを笑う人と、笑わない人。

この再会が、美緒の止まっていた時間を少しずつ動かしていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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