80.増していく感情
懐中時計をシルヴィ経由で返してもらった時は「親切で優しいな」そんな印象しか持たず、ここまではまだ、彼女に向ける感情に熱はこもっていなかった。
決定打となったのは、大きく舵を切ったのは、やはり王宮で開かれた夜会だろう。
遅刻が確定したことで、テオの小言が酷く、ヴィンセントは話半分に受け流しつつ、廊下を早足に移動していた。
そうしてアンジェリカを見つけた。
彼女は子鹿のようにプルプル震えながらカーテンにしがみついていた。
ここにはヴィンセントとテオしかいない。だから彼女が誰から隠れているのかなんて一瞬で分かってしまった。
一生懸命隠れているつもりの彼女が可愛らしい────と初めて、そういう類の感情が自然に湧いてきた。
それは小さい子、赤子、ぬいぐるみ等に対して持つ可愛いではなくて、令嬢として、異性としての可愛いである。
ミントグリーンのドレスに小花の髪飾り。見つかってないと思ったのに、ヴィンセントに最初からバレていたと知り、顔を真っ赤にしているその姿。
もっと眺めていたい──そう思ってしまった。
(これは参ったな)
アンジェリカを先に会場に戻し、人知れずヴィンセントは天を仰ぐ。
(他の令嬢には抱かないよ……これ)
単なる興味以外の感情を持ち、自覚したその瞬間。ヴィンセントの運命はより大きく廻り始めていた。
会う度に彼女に抱く感情が変化していく。それは急勾配の坂を下るように目まぐるしくなり、いつしか友人の妹に対して向けるものは消えていた。
残ったのは一人の女性として、アンジェリカという人間に対しての恋慕だった。
それから図書館に行く理由は研究や公務の息抜きではなくて、アンジェリカに会うためになった。
この頃には男性に対する恐怖心が軽くなったのか、ヴィンセントに慣れてくれたのか、自分に対して色んな表情を向けてくれて微笑む回数が増えた。
大体不意打ち。予測不能。それ故にヴィンセントは顔を赤く染めないよう必死になることが多々である。
またある日、アンジェリカが普段とは違う窓辺のソファで無防備に眠っている所を発見したことがある。
(あんな所で寝たらダメだ)
エディスはいない。一人だけのようだ。
起こさないように近づく。周りに何人か男がチラチラアンジェリカのことを見ていたが、ヴィンセントが軽く牽制すればそそくさといなくなった。
(…………こういうのにリジェは疎いというか、気がつかないというか)
しっかりしているように見えてちょっと抜けている。特に異性との距離感は本当に気をつけて欲しかった。彼女はお世辞を抜いても魅力的なのだから。
(ひやひやするよ)
ヴィンセントは悶々とする気持ちを抑え込み、アンジェリカのもとにたどり着いた。
「リジェ」
とりあえず声をかけてみる。当たり前だが返答はなく、すぅすぅ寝息を立てていた。入ってきた風がふわっと鮮やかな色合いの前髪を揺らし、開いた本のページがパラパラ進む。
あまりにも心地良さげに眠っているので起こすのに躊躇う。だけど放っておくことも出来ない。
ヴィンセントは右隣に座った。
座面が沈み、瞬間的に斜めになる。すると端に座っていたアンジェリカの上半身が傾き、最終的にヴィンセントの左に寄りかかる体勢になった。
(困った。これは動けない……)
起きるまで本を読んで待とうと思ったのに、肩に熱が集まって集中できない。
ヴィンセントはため息をつき、仕方なく本を閉じる。
(この状態で目が覚めたら真っ赤になるんだろうな)
容易に想像がつく。最近の彼女はよく顔を赤く染めあげるから。
あどけない寝顔を眺めているうちに悪戯心が働いたヴィンセントは、そうっとアンジェリカのきめ細やかな柔らかい頬に指の腹を添わせた。
「んっ」
か細く喉を鳴らしたが、瞳は閉じられたまま。けれども次の瞬間ふにゃりと笑った。
「ヴィンス……さ……ま。かわいい、と」
蕩けるような甘い声で。アンジェリカは夢の中のヴィンセントに向けて。
「うれし……いです」
そう呟いていた。
寝惚けているのかヴィンセントの左腕にぎゅうっと抱きついて、頬を擦り寄せる。
ふんわり甘いお菓子のような香りが立つ。
「ふふ」
そこでようやくアンジェリカの動きが止まった。
ヴィンセントはしばらくの間硬直する。脳が今起こったことを処理しきれなかったのだ。
動けるようになるまで数分を要した。
「アン、ジェリカ」
抑えきれなくて本名を呼ぶ。彼女は起きない。
また、優しい風が間を駆ける。
「私はアンジェリカのことが好きだよ」
頭を撫でる。
「言ったら多分、困らせてしまうね」
恋慕を抱いてもこの時点では直接告げるつもりはなかった。理由は色々あるが、最初に出会った時あれほど怯えていたことが大部分を占める。
それにヴィンセントとヴィンス。前者はアンジェリカに避けられる。後者ならばこのように近い距離にいられた。
自分がヴィンセントだと伝えたら離れていってしまう。困らせる。ならばこのままでいい。そう思ったから今はまだ、正体を明かさないことに決めた。
穏やかな時間。ずっと続くと思っていた。
全てが壊され、ゆっくりだった針が一気に進んだのはそれからすぐの事である。




