79.最初は些細なきっかけで
ヴィンセントが彼女と一番最初に出会ったのは、まだ彼女が赤ん坊の時だった。新しい家族の紹介のためにウォーレン公爵が妻のシンシアを伴って挨拶に来た。
とはいえ、ヴィンセントも幼かったのでそれほど鮮明に覚えている訳では無い。まだ歩けないアンジェリカはずっとシンシアに抱き抱えられていた。
ヴィンセントは兄と一緒に覗き込んだ。眠たいのかぐずり出す寸前で、濡れてくりくりした大きな瞳がそこにある。
よく遊ぶウィリアムもそうだが、王族ではない彼女の宝石瞳がこちらを捉えているのが何とも不思議な気持ちにさせた。
そこから数年後。彼女はブライス侯爵家のベネディクトと婚約を結んだ。
ヴィンセントもウィリアムとはラインハルト経由で交流があるが、妹のアンジェリカに至っては接点は無い。
友人の妹。その程度の認識で。時折社交場でベネディクトと幸せそうに微笑みながら居るのを見かけるだけ。
関わることはないだろうな、そう思っていたのに。
────運命が変わったのは約一年前だった。
将来鴛鴦夫婦になるだろうと言われていた二人が婚約破棄した。しかもベネディクトの方からではなくて、アンジェリカ──ウォーレン公爵家からという衝撃的な事件。
破棄の原因はベネディクトの不貞。
当時のヴィンセントもあんなに仲が良さそうだったのに一体何があったのかと不思議に思った。
それでも、驚いただけで終わるはずだったのだ。
なのにあの日、出会ってしまった。
普段から外に出る時は王子だとバレないよう髪と瞳を変えていたヴィンセントは、その日も慣れた手つきで支度して完成した図書館を訪れた。
そこで運悪くシルヴィに見つかり、まだ整理し終わってない本の山を分類して欲しいと頼まれた。
(……カウンターの前を通らなければよかったな。失敗した)
そうは言っても断る選択肢は持っておらず、黙々とこなす。
「シルヴィ」
「はーい殿下どうしましたか」
呼べばカウンターに居たシルヴィがドアから顔を覗かせる。
「終わったよ」
ジャンル毎に本の山ができていた。
「助かりました。では引き続き棚に戻すのをお願いしても?」
「えっ」
シルヴィはにこりと笑う。
「今、頼りになるのヴィンセント殿下しかいないのです」
「いや、私は────」
「戻してくれないのですか」
ヴィンセントは言葉を詰まらせる。
(断れないの分かってて言ってるな)
シルヴィとの付き合いは長い。彼女はヴィンセントの性格を熟知していた。
「…………分かった。暇だから最後までやるよ」
執務から逃れるために来たはずなのに、何故雑用をしているのだろうか。こっちもサボってしまおうか……そんな思いが込み上げてきたが蓋をする。
「ありがとうございます」
シルヴィはカウンターに戻っていく。
「まったく。人使い荒いな」
本を抱えて立ち上がる。そのまま部屋を出て歩いていた矢先のこと、人とぶつかってしまったのだ。
(しまった。前が見えていなかったせいで転ばせてしまった……)
慌ててしゃがみこんでいる令嬢に声をかける。
「すみません。よそ見していましたお怪我は──」
手を差し出しながら最初に視界に入ったのは艶やかな珊瑚色の髪。
(まさか。いや、ここに居るはずは)
髪色に見覚えがあり、ヴィンセントは硬直しそうになる。
目の前の令嬢は立ち上がろうとしない。ふと気になって目を彼女の手に向ける。
(……震えてる?)
そこでようやく令嬢は顔を上げた。濡れた瞳は蒼く──
(宝石瞳。ウィリアムの妹のアンジェリカ嬢か)
ふたつの特徴が合わされば一瞬で特定可能だった。それだけ宝石瞳保有者は少ない。
「あの大丈夫ですか」
震えているのが気になるが、とりあえず怪我の確認のために再度声をかける。するとアンジェリカはビクリと震えた。
どうも様子がおかしい。ヴィンセントは眉間に皺を寄せてしまう。
(目が合っているようで合ってないな)
もしかしたら体調が悪いのかもしれない。
そう思って無礼を承知で手に触れると叩き落とされ、しどろもどろの彼女はそのまま逃げるように去っていってしまった。
「……何だったんだ?」
呆然と立ったままだったヴィンセントは一歩前に出る。コツンと足の先が何かにぶつかり、下を見ればちぎれた糸と宝石が散らばっていた。
きっとアンジェリカが着けていたのだろう。転んだはずみでちぎれてしまったと思われた。
(直して返す機会あるかな)
無いとしても、ウィリアムに渡せばどうにかなるだろうと飾りを拾い直した翌日。アンジェリカと再会し、手渡すことが出来た。
会うのは二度目で声も変えていないのに、彼女はヴィンセントの正体に気が付かなかった。
ヴィンセントもヴィンセントで咄嗟に愛称を告げてしまい、これはバレたなと思ったのにアンジェリカはすんなり信じた。
(どうしてだ? ……分かりそうなものなのに)
目の前のアンジェリカは昨日と同様、体を強ばらせている。
どう見ても何かがある。
この時点で数多くの違和感がヴィンセントを包んでいた。だが相手が触れられると困る類なのを感じ取っていた。
加えて、この格好では無闇矢鱈に尋ねられない。
(それに、もう話すこともないだろう)
そう思ったがほんの少し湧いていた興味が表に出てきてしまって名前を尋ねてしまう。
彼女はしばし逡巡した後、『リジェ』つまり偽名を名乗り──
必死に本名を隠そうとするアンジェリカの行動に、去り際、いつの間にか口元を緩めていたのに気が付かなかった。




