46.変化の兆し
「お忙しそうですもんね」
前回会った時は彼は寝ていた。それも懐中時計を落としたことに気が付かないほどぐっすりと。
普通ならば周りの目のあるところであれほど熟睡するのは難しい。
「うーん、多分リジェが思う忙しいとは違うだろうな」
苦笑しながらヴィンスはテーブルを指で叩く。
「何が違うのですか」
「秘密。それに、そろそろ──」
ヴィンスは窓の外を覗き込む。釣られたアンジェリカも一体何があるのだろうかと窓に手をかけた。
しばらくして一人の男の人が通ったとき、彼は声を上げた。
「ああ、テオが来た。嫌になるほど時間に正確だ。遅れてもいいのに」
ヴィンスは懐中時計で何時か確認する。
「リジェ」
「はい」
「私はここら辺でお暇するが、ひとつだけ」
本の山を抱えて席を立つ間際、彼はアンジェリカの方を向く。
「上の階は研究者達が来ることが多い。うるさいし、研究員は男が多いからあまりおすすめしない。それに、近々下の階に君みたいな人が座れる席を作るらしいから今度からそちらの席に」
「え」
ぱちくりとアンジェリカは瞬きをする。
(私男の人が無理なの彼に言ったかしら)
そう考えて、違う意図に辿り着く。ヴィンスは単に、女のアンジェリカが男ばかりの空間にいるのを心配しているのだろう。
加えて、お付きを連れているアンジェリカは周りから見間違えようもなく、一般市民ではない。
低くても豪商で、アンジェリカの後ろにはお金があることが分かる。
拐かしやら何やらの目標になっても変ではないし、むしろなりやすいのだ。
犯罪率が低く、公共の場とはいえ、そういうことが起こってもおかしくは無い。
「詳しく知りたいならカウンターのシルヴィに聞くといいよ」
そう言ってヴィンスは立ち去ってしまった。
◇◇◇
彼が自分に言ったことは本当のようで、近々一階の閲覧席の一角が、婦女子専用になり、騎士が一定時間ごとに館内を見回るらしい。
帰り際、カウンターに寄るとシルヴィという名の女性が快く教えてくれた。
彼女はアンジェリカがいつも図書館に来る際、入館の手続きをしてくれていた人だった。
「お忍びで視察したラインハルト殿下がですね、これでは女性は落ち着いて使えないからどうにかしなさい。と命令を下したんです」
サラッと言ったが、まさか王太子殿下がお忍びで来ていたとは。アンジェリカは驚いて聞き返してしまった。
「ラインハルト殿下がいらしたのですか?」
大騒ぎになりそうだが、そんな噂が立っていないということは本当にお忍びなのだろう。というかそれをアンジェリカに教えてしまっていいのだろうか。
(終わったからかな……)
「ええ、ラインハルト殿下はヴィンセント殿下のことを可愛がっていますからね。図書館が完成したのを誰よりも喜んでいたのはラインハルト殿下でしたし。来ないはずがありません」
その光景を直接見たのかくすくすとシルヴィは笑う。
「あ、他言無用でお願いしますよアンジェリカ様。貴女様は私が教えなくても、ウィリアム様に尋ねればこの話に行き着くと思いましてお話したのです」
(お兄様の妹だから教えてくれたのね)
確かにこれくらいなら、ラインハルトの側近であるウィリアムに尋ねれば教えてくれる内容だ。別に秘匿しなければいけないものではないのだから。
とはいえ、あまり言いふらして良いものでは無い。
「分かりました。秘密ですね。教えて下さりありがとうございます」
頭を下げて、アンジェリカは持っていた本をカウンターに置いた。
「あと、これを借りる手続きを……」
「かしこまりました。貸し出しは二週間後までです」
テキパキと手続きを済ませ、シルヴィは期限の日付が押された紙を本に挟んでアンジェリカに返す。
「ありがとうございます」
受け取って、持ってきていた鞄の中にしまった。
「ねえエディス」
「どうかしましたかお嬢さま」
帰りの馬車の中、アンジェリカはエディスに聞く。
「貴女にはヴィンス様の顔、分かるでしょう?」
真っ黒なままの顔。いつになったら見えるようになるのだろうか。一生この状態なのは嫌だな、と思いながら現状天に任せるしかないのがもどかしい。
「はい。今のところ表面上は良さそうな青年でしたよ。己の立場をわきまえているのか、安易にお嬢様に近づきませんでしたし」
エディスがそう評価するということは、彼女から見ても好印象らしい。
だからアンジェリカは彼女にさりげなく訊く。
「あの、ね。私は見えないから……教えて欲しいのだけれど。──彼の瞳の色は何色?」
ほんの少しだけ、心臓が大きく鼓動したことにアンジェリカは気が付かなかった。
ずっと考えていた。澄み切った天色だろうか。はたまた、闇のように光を通さない黒だろうか。
ただの好奇心なのだけれど、それにしては知りたいという思いが強くて、自分には見えないのが残念さを感じていた。
「そうですねぇ。何でしょう。翡翠に似た色だとは思うんですが…………」
煮え切らない返答だ。
「くすんだ緑……? ですかね。ごめんなさい。眩しかったり陰になったりで分かりにくくて、しっかりとは」
しょんぼりとエディスは肩を落として俯いてしまう。
「謝らなくていいのよ、緑系統ではあるのでしょう?」
「それは間違いありません。今度お会いする機会があれば、次こそしっかり見ておきます」
拳を握って意気込むエディスが可笑しくて、クスリと笑った。
だからちょっぴり抱いた口惜しさを、アンジェリカは自覚せずに終わったのだ。




