45.問いかける
ヴィンスはアンジェリカのお目当ての本がある所まで案内し、あまつさえ普通よりも分厚いそれを二階まで運んでくれた。
アンジェリカはそこまでしてもらうつもりはなかった。自分が持たなくてもエディスが持ってくれるから持つ必要は無い。と訴えても、ヴィンスは女性に持たせるのは矜恃が許さないと譲ってくれなかったのだ。
そうして座席に戻ると彼はまるでアンジェリカがそこにいないかのように、目の前の書物に没頭し始めた。
時折小さく独り言を呟いたり、ページを捲る音がしたりするが、視線がそれらから離れることはなかった。
アンジェリカはヴィンスの邪魔にならないよう、極力音を立てずに運んでもらった本を開いて読み始める。
けれど中々物語の世界に集中できず、目が滑ってしまう。
(そういえば、どうして閲覧席にいるのかしら。研究室に持っていけないのかな)
研究員にはひとりひとり個室が与えられていると新聞に書いてあった。ウィリアムもそのような旨の話をアンジェリカにしてくれていた。だから彼専用の部屋があるはずなのだ。
館内であれば手続きをせずに読めるのに、奥に持っていくとなるとわざわざ貸し出しの手順を踏むのが面倒だからだろうか。
いつの間にかそんなことを考えていて、本に隠れるようにしてヴィンスの様子を窺う。
彼はテーブルの上に置かれたペンを手に取って、さらさらと本の内容を書き写している最中だった。
そのなめらかな手技。少し崩れた、でも、綺麗な手跡で白紙の紙に文字が綴られていく。
(あれ、この字どこかで……)
じっと見ていたら既視感があった。
けれどどこで見たのか思い出せない。
(記憶違い……かしら)
思い出そうと頑張ってみるが、家族以外の関わった人たちの記憶はすっからかんなので、どう足掻いても無駄である。
「──リジェ、何か気になることでも?」
顔を上げず、声だけがかかった。どうやら凝視しすぎてヴィンスの気を散らせてしまったようだ。
「いえっあの、とても綺麗な……字ですね」
思っていたことをそのまま口にしてから後悔する。
邪魔しないように、としていたのにこれでは逆効果ではないか。
その間でもヴィンスは手を止めようとしない。流れるように書き写していく。
「字を褒められたのは初めてだよ」
「こんなにお綺麗なのに?」
丸く書いてしまう手癖が、中々抜けないアンジェリカより断然整っている。
「私の周りは手厳しいんだ。このくらいの乱れでも汚いと書き直させる」
微かに笑ったヴィンスは跳ねるようにペンを紙の上から離した。
「はい、必要なところは全部書き写したから」
アンジェリカの方に本をずらす。
受け取ると彼はすぐに積んでいた一冊を手元に引き寄せ、開いた。
(うそ、古語で書かれてる。ハーブについて調べた後に……今度は古語?)
彼は淀みのない仕草で文字を追っていく。そうして新しい紙にまた何か書き記しているのだが、それが本と同じ古語なのだ。
アンジェリカの中でヴィンスは普通の研究者となっていたのに、正体が一体何なのか分からなくなってきた。
(研究者であるのは間違いない。文献が昔の物が多いから覚えたってこと?)
古語は今使われている言語と発音や使用する文字が違うため、一から他言語を学ぶようなものだ。
加えてメリットがほぼ何も無いので、わざわざ覚える人は無いに等しい。かろうじて研究者達が昔の研究結果を解読するために、ひいひい言いながら覚えている。
アンジェリカは読めないが、兄であるウィリアムは己の趣味のために多少読めるらしい。
悶々と一人で考え込んでいると、ヴィンスはその本での調べ物は終わったようでまた話しかけてきた。
「この本が気になる?」
ヴィンスは本を立てて題名をアンジェリカの方に見せるが、アンジェリカは古語が読めないので何と書いてあるか理解できなかった。
「そうではなくて……古語が読める方は珍しいなと」
「ああ、ちょっとね。読む専門だけど」
どうやら書き物は終わったらしい。
インク壺に蓋をして、傍に備え付けられていた小瓶の中でペン先を洗ったあと、彼はハンカチで水気を取る。
「……あの、質問してもよろしいでしょうか」
「答えられる範囲ならどうぞ」
アンジェリカの中には些細な疑問が解けずに降り積もっていた。だから思い切ってぶつけてみることにしたのだ。
「ヴィンス様は何の研究をしているのですか」
「うーんひとつには絞れないな。大きく括るならこの国で流行る病の治療薬や薬草全般。研究室では自分で育ててたりする」
「なら、どうして研究室にこの本たちを持っていかないでいつもここに居るのです?」
ほんの少し間を置かれて不安になったが、彼は優しく教えてくれた。
「基本的にここにいるのは仕事をサボっている時、研究室に一人でいると息が詰まる」
ヴィンスの言葉に、不真面目さを感じとったのかエディスの纏う空気が多少変化する。
「さぼり…………」
「いや、誤解のないように言っておくと私の分担は終わらせているよ。行き詰まった時とか落ち込んだ時とか、時間が空くとここに居る」
ということは、ヴィンスは誰かと共同で研究しているのだろうか。それに────
「いつもいるわけではないのですね」
てっきり図書館に来る度にヴィンスに会うから彼はいつもいるのだろうと思っていた。
研究所には毎日いるのだろうが、あくまでも図書館にいるかいないかという一点のみの話だ。
「毎日入り浸れれば最高だけどね。如何せん周りが許してくれない」
彼はどこか諦めてるようで、それでいて何故か弾んだ声だった。




