第1話 婚約破棄
王宮の大広間は、いつもより静かだった。
正面には王族が並んでいる。
その中に、婚約者である王太子ヴィクトールがいた。
そして、その隣には聖女エミリア。
リディアは二人を見た。
なぜ、エミリアがここにいるのだろう。
そう思ったものの、理由を考えるより先に、ヴィクトールが口を開いた。
「リディア」
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
一瞬、意味が分からなかった。
婚約を破棄する。
その言葉が頭の中に引っかかったまま、リディアはヴィクトールを見つめた。
「……婚約を、ですか?」
「そうだ」
ヴィクトールの声には、迷いがなかった。
「エミリアは、すでに多くの民を救っている。彼女の力は、この国に必要だ」
リディアは、もう一度エミリアを見る。
聖女。
エミリアが持つ力は、人の手を温めたり、寒さに震える子どもを温めたりする程度のものだ。大きな奇跡を起こすような力ではない。
けれど、実際にその力に救われた人にとっては、ありがたいものなのだろう。
エミリアは民の前でその力を使い、少しずつ人々に知られるようになっていた。
だからこそ、ヴィクトールは彼女を選んだのだろうか。
そう考えながら、リディアの中に別の疑問が浮かんだ。
――国に必要なのは、エミリアの力だけなのだろうか。
「私も、リディア様と争いたいわけでは……」
エミリアが困ったように眉を下げる。
「争う必要はない」
ヴィクトールが遮った。
「僕は、何が国に必要なのかを考えただけだ」
国に必要なもの。
その言葉を聞いて、リディアは膝の上で手を握った。
なら、自分がこれまでしてきたことは何だったのだろう。
「……私が行おうとしていた国境警備隊の物資輸送も、隣国との小麦の交渉も、国益になることです」
「それは王妃の務めではない」
ヴィクトールの言葉に、リディアは口を閉じた。
「王妃には、王妃として果たすべき役割がある」
「……ですが」
「君が博識なのはよく知っている。だが、それだけだ」
それだけ。
その言葉を聞きながら、リディアはこれまで自分がしてきたことを思い返した。
王妃になったとき、国を支えられるように。
国境で何が起きているのかを知り、兵たちに必要なものを考え、隣国との交渉についても学んだ。
友人達が昼餐会や舞踏会に勤しむ中、分からないことがあれば本を漁り、考えることに時間を費やしてきた。
それが王妃になるために必要なことだと思っていたからだ。
なのに、彼はそれを「それだけ」と言う。
私は何を間違えたのだろう。
「……姉上、もうやめましょう」
弟のセドリックがヴィクトールとの間に入る。
「聖女様に敵うわけないでしょう。往生際が悪いですよ」
悪意のない物言いが、余計に胸を刺した。
弟にとっても、もう答えは出ているのだ。
王妃には向いていない。エミリアには敵わない。公爵家の期待には応えられない。
そういうことなのだろう。
ふと、父の視線を感じた。
公爵家当主としてこの場に立つ父は、冷えた眼差しでこちらを見ている。
「公爵家の血を引く娘ともあろう者が……」
低い声だった。
「王妃教育まで受けさせたというのに……」
リディアは父の顔を見た。
長いため息と共に、失望を露わにしている。
「見苦しいぞ」
父は、それ以上何も言わなかった。
リディアは自身の指先に嵌る婚約指輪に触れた。
これを身につけたときから、自分の人生は決まっていると思っていた。
王妃になる。ヴィクトールを支え、国を守る。公爵家を盛り立てる。
それが自分の役目なのだと思っていた。
疑ったこともなかった。
この先もずっと、そのために生きていくのだと、走り続けてきたというのに。
今、その道が突然なくなった。
リディアは指輪を外した。
「……分かりました」
声が震えそうになる。
それだけは悟られたくなくて、ゆっくり息を吸った。
「では、お返しいたします」
ヴィクトールはそれを受け取ると、安堵した笑みをエミリアに向けた。
それだけだった。
胸の奥から黒いものが湧き起こりそうになるのを、リディアは必死で抑え込んだ。
そして一礼すると、広間を出た。
重い扉が閉まる。
廊下を歩く。
足は動いているのに、頭の中は何も考えられなかった。
どこまで歩けばいいのかも分からない。
ただ、人のいる場所から離れたかった。
人の気配が遠くなったところで、ようやく涙が頬を濡らした。
「……っ」
泣くのは、これが初めてだった。
*
ふらふらと回廊を歩いていると、王妃教育を担当していた教師、マティアスが柱の影に立っているのが見えた。
気遣わしげにこちらを見ている。
すでに顛末は知っているようだった。
「先生……」
幼い頃からの師で、気弱な性質だが穏やかで尊敬していた。
そんな彼の姿を見た途端、リディアは慌てて頬の涙を擦った。それでも、また涙が溢れそうになる。
何が悪かったのか。
どこで間違えたのか。
「私、何がいけなかったのでしょう」
マティアスは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに首を振る。
「何も、とは申しません」
「……はい」
「ですが、リディア様が間違っていたから、こうなったのだとも思いません」
リディアは顔を上げた。
「王家が求めていたものと」
マティアスは、言葉を選ぶように続ける。
「公爵家が求めていたものと、今の世の中が求めているもの。そして、リディア様が持っているものが……少しずつ、噛み合わなかったのでしょう」
「……噛み合わなかっただけ」
「私は、そう思っています」
その言葉だけで、婚約が戻るわけではない。
王妃になる道も、もうない。
それでも、自分がこれまで積み重ねてきたものまで、全部間違いだったわけではない。
そう言ってくれる人が、一人はいた。
「……ありがとうございます、先生」
リディアは小さく笑った。
*
翌日。
父の書斎に呼ばれたリディアは、机の上に置かれた一枚の書状を見つめていた。
王家の紋章が押されている。
「お前に賜った」
「……賜った?」
「リヴェル領だ」
聞いたことのない名前だった。
「……リヴェル?」
「ああ」
父はそれ以上、説明しなかった。
リディアは書状に目を落とす。
王家から、領地を。
婚約を失ったばかりの自分に。
どうして?
そう思ったが、父の顔を見ると、尋ねても答えてはもらえない気がした。
「王都からは遠い」
父が、ぽつりと言った。
「国境にある領地だ」
「……そうですか」
「明日、立ちなさい」
それだけだった。
リディアは父を見る。
領地を賜った。
けれど、なぜ今なのか。
なぜ、こんなにも急なのか。
考えれば考えるほど、答えは一つしかないように思えた。
厄介払い、ということなのだろう。
それなら、それでいい。
「……分かりました」
そう答えた。
扉の近くで話を聞いていたセドリックが口を開く。
「……公爵家の面子も、少しは考えて欲しかったです」
呆れたような、困ったような、そんな声だった。
「僕の立場もありますから」
リディアは弟を見る。
セドリックは少し視線を逸らした。
「でも、もうお役御免ですから」
「リヴェル……でしたっけ?」
セドリックは、遠い場所の名前を思い出すように呟いた。
「そこで、ゆっくりしてください」
それだけだった。
引き止めるでもない。
惜しむでもない。
弟にとっても、自分がここからいなくなることは、もう決まったことなのだろう。
義母は何も言わなかった。
しばらくして、侍女に小さな宝石箱を持ってこさせた。
「これを」
リディアが蓋を開ける。
中には、いくつかの宝飾品が入っていた。
「……これは」
「持っていきなさい」
リディアは宝石箱を見つめた。
どれも見覚えのあるものだった。
義母が大切にしていた品なのだろう。
自分が持っていくものではない。
リディアは首を横に振った。
「……いただけません」
「なぜ?」
「お母様の大切なものなのでしょう?」
義母は、少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
それ以上は何も言わなかった。
*
翌朝。
リディアは馬車に乗った。
身の回りの品、衣服、書物、そして、わずかな金銭。
必要なものは公爵家から用意されていたし、従者たちも同行している。
けれど、彼らがリヴェルで暮らすわけではない。自分を送り届ければ、それで終わりらしい。
馬車が王都を離れる。
窓の外を眺めているうちに、見慣れた街並みが少しずつ遠ざかっていった。
人の姿が減る。
道が細くなる。
やがて、これまで見たことのない景色ばかりになった。
馬車が止まった。
「こちらで、すべてです」
従者たちが荷物を下ろしていく。
「ありがとう」
「では、我々は戻ります」
「……ええ」
従者たちは気まずそうに頭を下げ、馬車に乗り込んだ。
車輪が動き始める。
リディアは、その背中を見送った。
やがて馬車が見えなくなる。
残されたのは、自分と、運ばれてきた荷物だけだった。
静かだった。
あまりにも静かで、リディアは目の前に広がる土地へ目を向けた。
大河が流れている。
その周囲には、荒れた畑が広がっていた。
ところどころに水の跡が残っている。
建物も少ない。
ここが、自分の領地。
リヴェル。
王都から遠く、国境に接する土地だった。
リディアは周囲を見渡した。
閑散としていて、人気もない。
「……本当に何もない土地ね」
ぽつりと呟く。
「今の私と、一緒だわ」
自嘲するように笑った。
そのはずなのに、荒れ果てた大地を渡る風に吹かれていると、不思議と嫌な気持ちが凪いでいく。
もう王妃になるための勉強はしなくていい。
王家や公爵家の期待もない。
どうあるべきか、考えなくても、応えなくてもいい。
何をしろとも言われない。
何をしてはいけないとも言われない。
だったら。
ここで、自分は何をすればいいのだろう。
リディアは何もない、荒れた土地を眺めた。
「……もう、何をしてもいいのよね」
そう口にしてみる。
胸の奥で、何かが少し動いた。
怖い。
でも、それだけではない。
今まで一度も考えたことのなかったことを、考えていいのだ。
そう思ったら、ほんの少しだけ先が見てみたくなった。
「……何をしようかしら」
それだけ、と言われたもの。
今の自分に残っているのは、それだけだった。




