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第81話:夜凪 湊は、守りたい

「み、湊が……っ。駅前の交差点で……事故に、遭って……っ!!」


夏花のその悲痛な叫びが、陽葵の鼓膜を劈いた瞬間。

世界から、あらゆる音がスッと消え失せた。


「(――事故?)」


その二文字が、陽葵の脳内で処理されるまでに、永遠とも思えるほどの時間がかかった。

冬の柔らかい日差しが降り注ぐ、穏やかなリビング。祭壇で微笑む白い猫の写真。つい数秒前まで陽葵の胸を温かく満たしていた、愛する人の帰る場所という神聖な空気。

その全てが、音を立てて崩れ去っていく。


『――危ないッ!!』


陽葵の脳裏に、強制的に『あの日の記憶』がフラッシュバックした。あの冬。牡丹雪が舞い散る交差点で、一匹の泥だらけの野良猫を庇ってトラックの前に飛び出し、アスファルトに体を打ち付けて血を流していた湊の姿。


あの時も、湊は自分の命を省みずに、小さな命のために自らを投げ出した。

そして今、自分が連絡を絶ってしまったせいで、彼を寒い外の世界へと探しに行かせてしまい……その先で、また。


「(嫌……。嫌ですわ。そんなの、絶対に嘘ですわ……っ!)」


心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴る。手足の先から急速に体温が奪われ、足の力が抜けそうになった。


「どうしよう……陽葵ちゃん……どうしよう……っ。湊に、もしものことがあったら……私、私……っ」


目の前で、夏花がスマートフォンを床に取り落とし、顔を覆って泣き崩れそうになっていた。

獣医学部という命の現場で修羅場をくぐり抜けているはずの大人の女性が、今はただ、たった一人の家族を失うかもしれない恐怖に震える、か弱い姉になってしまっていた。


その姿を見た瞬間。

陽葵の胸の奥底で、ヤンデレとしての――いや、天ヶ瀬 陽葵という一人の女としての『絶対的な覚悟』が、恐怖を塗り潰して燃え上がった。


「(私が、泣いてどうしますの。私が取り乱してどうしますの!)」


陽葵は、奥歯をギリッと噛み締めた。

ここで絶望に呑まれている暇はない。自分が愛した男は、自分が一生を懸けて守ると決めた男は、こんなところで簡単に命を散らすようなヤワな人間ではないはずだ。

そして何より、彼が自分の全てを投げ出してでも守りたかったこの『お姉様』を、彼がいない間に自分が支えなくてどうするのだ。


「……お姉様。しっかりしてくださいませ」


陽葵は、崩れ落ちそうになる夏花の肩を両手でガシッと力強く支え、その目を真っ直ぐに見据えた。


「え……?」

「泣くのは、湊くんの無事な顔を見てからにしてください。今は一秒でも早く、湊くんの傍に行くのが先決ですわ」


聖女としての澄み切った、絶対に折れない強い声だった。

陽葵は夏花をソファに座らせると、着物の袂から自分のスマートフォンを取り出し、マンションの下で待機させているSPの黒服に電話をかけた。


「――私です。緊急事態ですわ。マンションのエントランスに車を回しなさい」


『お嬢様、いかがなさいましたか』

「湊くんが救急搬送されました。搬送先の病院は……」


陽葵は夏花から落ちたスマホを拾い上げ、画面に表示された警察からの着信履歴とショートメッセージを瞬時に確認する。


「……『聖鳳総合医療センター』です。最短ルートで向かいます。道中の信号や正月渋滞は、天ヶ瀬グループの全権力と財力を使って、全て『どかしなさい』。一秒でも遅れたら、貴方たち全員、東京湾に沈めますわよ」

『っ!は、承知いたしました!直ちに手配いたします!!』


電話を切り、陽葵は夏花のコートをハンガーから引っ掴むと、彼女の肩に強引に羽織らせた。


「さあ、お姉様。行きますわよ。……湊くんは、絶対に死なせませんわ」

「ひ、陽葵、ちゃん……」


圧倒的な行動力と、微塵の揺らぎもない陽葵の瞳。

その狂気的なまでの力強さに引っ張られるようにして、夏花はフラフラと立ち上がり、二人はマンションを飛び出した。


◇◆◇◆◇


ウゥゥゥゥンッ!!


元日の静かな街並みを、漆黒の最高級リムジンが、まるで猛獣のようなエンジン音を唸らせて爆走していた。

天ヶ瀬のSPたちの見事な連携と警察への根回しにより、車は赤信号すらも安全かつ合法的に突破し、病院へと続く道を猛スピードで駆け抜けていく。


だが、後部座席の空気は、鉛のように重く、冷たかった。


「…………っ」


夏花は、青ざめた顔で唇を噛み締め、膝の上で組んだ両手をガタガタと震わせていた。

無理もない。彼女にとって、湊は単なる弟ではない。親に放置され、冷たい家の中でたった二人きりで身を寄せ合い、生き抜いてきた『半身』のような存在なのだ。

もし湊がいなくなってしまったら、彼女は本当の意味で、この世界で一人ぼっちになってしまう。


隣に座る陽葵もまた、純白の着物の裾を握りしめ、心臓が破裂しそうなほどの恐怖と戦っていた。

自分が意地を張らなければ。自分が、あんな風に怒って飛び出さなければ、湊は事故に遭うことなんてなかったのだ。その罪悪感が、毒のように陽葵の心を蝕んでいく。


それでも。

陽葵は、自分の震えを気力で押さえ込み、そっと手を伸ばした。


そして、夏花の震える氷のように冷たい両手を、自分の両手でギュッと力強く包み込んだ。


「ひ、陽葵ちゃん……?」

「……大丈夫ですわ、お姉様。絶対に、大丈夫です」


陽葵は、夏花の不安を少しでも吸い取るように、その手を強く、温かく握りしめた。


「湊くんは、世界一不器用で、世界一しぶとい人ですわ。そんな無責任なマネをして、勝手にどこかへ逝くようなこと……天地がひっくり返っても、私が許しませんわ」

「…………」

「あいつが目を覚ましたら、私とお姉様で、耳にタコができるくらい説教してやりましょう。……だから、どうか気丈に振る舞ってくださいませ」


陽葵の言葉は、強がりだったかもしれない。

だが、その手から伝わってくる熱と、弟を絶対に死なせないという執念にも似た愛情の深さは、紛れもない本物だった。


夏花は、陽葵の瞳の奥にある『覚悟』を見て、小さく息を吐き出した。

自分が泣いていてはダメだ。弟が命懸けで守ろうとした姉として、そして、こんなにも弟を愛してくれている少女の前で、情けない姿を見せるわけにはいかない。


「……ええ。そうね。……ありがとう、陽葵ちゃん」


夏花の震えが、少しずつ治まっていく。

彼女は陽葵の手を握り返し、コクリと力強く頷いた。

その直後、リムジンは大きく減速し、総合病院の救急入り口へと滑り込んだ。


◇◆◇◆◇


「湊くんっ!!」


病院に到着するや否や、陽葵と夏花は車を飛び出し、ER(救急搬送室)へと続く無機質な白い廊下を駆け抜けた。

純白の着物が翻り、草履の音が静かな病院内にパタパタと響き渡る。


やがて、手術室や処置室が並ぶ最奥のエリア。

その『処置室B』と書かれた赤いランプの点灯するドアの前に、一人の人影が座り込んでいるのが見えた。


頭を抱え、うなだれるようにして長椅子に座っているその人物を見て、陽葵は思わず足を止め、目を疑った。


「な……っ」


淡いミントグリーンの冬用コート。

肩まで切り揃えられた、見覚えのあるボブヘア。

そして、病院の冷たい蛍光灯の下で、顔面を蒼白にして震えているその少女は――間違いなく、陽葵が最も警戒し、最も敵視している存在だった。


「ど……泥棒猫……っ!?」


陽葵の口から、信じられないというような声が漏れた。


宵野 詠。

温泉合宿の朝、『もっと本気で泥棒猫になってみたくなりました』と不敵に笑い、要塞化された陽葵と湊の関係に宣戦布告をしてきた、あのミステリアスな同級生。

なぜ、彼女が湊の救急搬送先の病院にいるのか。


陽葵の声に弾かれたように、詠がビクッと肩を震わせて顔を上げた。

いつもは余裕に満ちているターコイズブルーの瞳は、今は恐怖と自責の念で赤く充血し、涙の跡でぐしゃぐしゃになっていた。


「あ、天ヶ瀬さん……っ」

「なんで……なんで貴女がここにいますの!?湊くんは!?湊くんは無事なんですの!?」


陽葵が血相を変えて詠に詰め寄る。

その後ろから追いついた夏花が、息を切らしながら不思議そうに首を傾げた。


「陽葵ちゃん……?その子は、湊の知り合い?」

「……ただのライバルですわ!」

「ライバル?」


弟が救急搬送されたという極限状態の中で、突然飛び出した『泥棒猫』という昼ドラのような単語に、夏花は一瞬だけきょとんとしてしまった。


だが、詠は夏花の姿を見ると、ハッと息を呑み、フラフラと立ち上がった。


「あ、あの……。もしかして、夜凪さんのお姉様、ですか……?」

「え、ええ。そうだけど……」

「っ……!!」


次の瞬間だった。

詠は、病院の冷たいリノリウムの床に、膝から崩れ落ちるようにして――そのまま、深く、深く頭を擦り付けた。

完全なる土下座だった。


「えっ……!ちょ、ちょっと!?」

突然の土下座に、夏花が驚いて後ずさる。


「……申し訳ありません……っ!私のせいで……私の不注意のせいで、夜凪さんが……っ!!」

「貴女のせい……?どういうことですの!?」

陽葵が、詠の肩を掴んで乱暴に引き上げた。


詠は、ボロボロと涙をこぼしながら、震える唇で事故の真相を語り始めた。


「私……今日、実家に帰省していて……実家の犬を、駅前の公園の近くで散歩させていたんです。……そしたら、元日で人が多くて、犬がパニックになってしまって……私の手から、リードがすっぽ抜けてしまって……っ」


詠の声が、嗚咽で途切れる。

陽葵の胸の奥で、嫌な予感がドクンと音を立てた。


「犬は、そのまま赤信号の交差点に飛び出していって……そこに、猛スピードで車が……。私、頭が真っ白になって、動けなくて……」


それは、まるであの雪の日の再現だった。

猛スピードの車。飛び出した小さな命。そして、それに気づいてしまった、どうしようもなく不器用で優しい少年。


「その時……偶然、駅前を走っていた夜凪さんが……飛び出した犬に気づいて、迷うことなく、道路に飛び込んだんです……っ!」

「っ……!!」


陽葵と夏花が、同時に息を呑む。

湊は、マンションを飛び出し、陽葵を探して駅前を走り回っていたのだ。その最中に、偶然、詠の犬が車に轢かれそうになっているのを目撃してしまった。


「夜凪さんが、犬を突き飛ばして庇ってくれたおかげで……車との直撃は、ギリギリで免れました。……でもっ、でも……!」


詠は、両手で自分の顔を覆い、激しく泣き崩れた。


「避けた勢いで……夜凪さん、アスファルトに激しく体を打ち付けて……っ。そのまま、血を流して、動かなくなって……っ!!私のせいです……私が、リードをちゃんと持っていなかったから……っ!!」


病院の静かな廊下に、詠の懺悔の鳴き声が響き渡る。

いつも余裕で、陽葵の結界を軽々とすり抜けてきた頭脳派の少女が、今はただ、自分の過ちで想い人を傷つけてしまった後悔に押し潰され、子供のように泣きじゃくっていた。


「…………っ」


陽葵は、目の前で泣き崩れる詠を見下ろしながら、ギリッと唇から血が滲むほど強く噛み締めた。


怒りがないと言えば、嘘になる。

この女のせいで、自分の愛する人が再び命の危機に晒されたのだ。胸ぐらを掴んで、平手打ちの一つでも食らわせてやりたい衝動が、全身を駆け巡っていた。


だが――それと同時に。

湊が、あの雪の日の猫の時と同じように、誰かの小さな命のために自分を投げ出したという事実が、陽葵の心を深く、重く締め付けていた。


「(……湊くん。貴方は本当に、どうしようもないバカですわ……)」


自己犠牲という名の、優しすぎる呪い。

それが夜凪 湊という人間の根源であり、陽葵が世界から隠してでも守り抜こうとした、美しすぎる魂の形なのだ。

そして、その呪いに今、詠もまた巻き込まれ、後悔という名の地獄を味わっている。


「……顔を上げなさい、宵野 詠」


陽葵は、冷たく、だがどこか静かな声で言い放った。


「え……」

「土下座なんて、一文の価値もありませんわ。貴女がいくら泣いて謝ろうと、湊くんの流した血は戻りませんのよ」

「っ……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


「ですが……湊くんが自分の意志で、貴女の犬を助けると決めて飛び込んだのなら。……私が湊くんの代わりに貴女を責めるのは、筋違いですわ」


陽葵は、処置室の赤いランプを真っ直ぐに見上げた。


「……今はただ、祈りなさい。あの不器用なバカが、目を覚ますことを。……もし湊くんに万が一のことがあれば、貴女どころか、世界ごと灰にしてやりますわよ」


それは、聖女としての傲慢な宣告であり、同時に、自分自身への恐怖を押し殺すための必死の強がりでもあった。


処置室の重い扉の向こうで、湊はどうなっているのか。

緊迫した空気の中、陽葵、夏花、そして詠の三人は、ただ祈るように、赤いランプが消えるのを待ち続けることしかできなかった。

(諸般の事情で投稿遅れました)

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