第80話:聖女様と、夜凪 夏花
「……お邪魔、いたしますわ」
未来の義姉――夜凪 夏花に促され、天ヶ瀬 陽葵はガチガチに緊張した面持ちで、マンションの玄関に一歩足を踏み入れた。
カチャリ、と背後で冷たい鉄の扉が閉まる。
その瞬間、陽葵の鼻腔をふわりとくすぐったのは、ひどく懐かしくて、胸の奥がキュッと締め付けられるような、心落ち着く匂いだった。
「(あ……。湊くんの、匂いですわ……)」
それは、いつも隣に座った時に微かに香る、洗い立ての柔軟剤と古い紙の匂いが混ざったような、彼特有の清潔で不器用な香り。
天ヶ瀬の本邸のような、高級なお香や豪奢な花々の香りなど一切ない。けれど、このこぢんまりとした玄関の空間には、湊がここで暮らし、息をして、日常を送っているという生活の気配が濃厚に立ち込めていた。
三和土には、夏花のパンプスの横に、湊が雨の日に履いている防水加工の靴が置いてある。普段履いている、踵のすり減ったブラウンのスニーカーはそこにはなかった。
「(私……今、湊くんのテリトリーに足を踏み入れていますのね……っ)」
狂喜乱舞しそうになるヤンデレの自我を、陽葵は必死に深呼吸をして抑え込んだ。
今はまだ、はしゃいでいる場合ではない。ここは未来の義姉の監視下であり、何より自分は、彼の大切な時間を踏み躙った大罪人として謝罪に来たのだから。
「どうぞ、適当に座ってね。ちょっと散らかってるけど」
「い、いえ!とんでもありませんわ!素晴らしいお部屋です!」
無駄なものがなく、背の高い本棚にはびっしりと小説や資料が並べられている。冬の柔らかい日差しが差し込むフローリングの部屋は、暖房が効いていてとても暖かい。
だが、その部屋に入ってまず、陽葵の目を釘付けにしたものがあった。
部屋の片隅に置かれた小さなサイドテーブル。そこだけが、まるで神聖な場所のように、特別に整えられていたのだ。
テーブルの中央に置かれているのは、真っ白な陶器の小さな骨壺だった。
その純白の箱には、可愛らしいピンク色のリボンが丁寧に結ばれている。隣には、小さなガラスの器に盛られた新鮮な水と、冬の寒空の下でも凛と咲くカスミソウの花。
そして、その傍らに立てかけられた小さな写真立てには雪のように真っ白な毛並みをした、美しい一匹の猫の写真が飾られていた。
少しだけ不機嫌そうに目を細めながらも、写真を撮っている人物に体を擦り寄せるようにして、完全に心を許しきっている様子が伝わってくる、温かい写真。
「(……この子が、『ましろ』ちゃん……)」
陽葵は、吸い寄せられるようにその祭壇の前に進み出た。
昨日、大晦日の夕暮れに、湊と夏花がペット霊園でお墓参りをしていたと報告を受けていた。おそらく、一部のお骨をこうして手元に残し、毎日欠かさず手を合わせているのだろう。
親の愛に恵まれず、冷たい家の中で放置されていた幼い姉弟が、雪の日に拾い上げた小さな命。
彼らは、自分たちの傷ついた心を寄せ合うようにして、この白い猫にありったけの愛情を注いだのだ。
写真の中で、陽だまりのように無防備に丸くなるましろの姿を見て、陽葵の瞳から自然と一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ましろちゃんは、湊くんとお姉様に拾われて……本当に、本当に幸せでしたわね」
陽葵が震える声でそう呟くと、後ろでマグカップを用意していた夏花が、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……湊から、ましろのこと聞いてたの?」
「はい……。少しだけ。出会いの細かい話は聞いてないのですが」
陽葵の言葉に、夏花はふっと優しい笑みを浮かべた。
そして、湯気の立つマグカップをローテーブルに置きながら、ポツリとこぼした。
「そっか。あの子、そんなことまであなたに話したのね。……あの子にとって、ましろは絶対に触れられたくない、一番柔らかくて痛い傷跡のはずなのに」
「お姉様……」
「さ、座って。昆布茶でごめんなさいね。今、お雑煮もよそってくるから」
夏花に促され、陽葵はローテーブルの座布団に、着物の裾を整えて正座した。
どうしても気になっていたことを、陽葵は恐る恐る口にする。
「あの……湊くんは、いらっしゃらないのですか?」
「ああ、湊ならさっき飛び出していったわよ」
「えっ?」
「あなたから全然連絡が来ないからって、ずーっとスマホを握りしめてリビングをウロウロしててね。私が『そんなに気になるなら、マンションの下で頭でも冷やしてきなさい』って言ったら、血相変えて走っていったわ。……多分、駅の方まであなたを探しに行ってるんじゃないかしら」
ドクンッ、と。
陽葵の心臓が、大きく跳ねた。
湊が、自分を探してくれている。
あんなにキツく言い合って、最悪の別れ方をしたのに。彼は陽葵を拒絶するどころか、連絡がないことを心配して、この寒い元日の空の下を走り回ってくれているのだ。
その事実が、陽葵の胸を痛いほどに締め付けた。
「あの弟、昔から本当に不器用なのよね」
夏花は向かいに座り、お茶を啜りながらクスクスと笑った。
「陽葵ちゃん、だっけ。……あなたのこと、あの子から事細かに全部聞いてるわけじゃないのよ。でも、たまーにポツポツと聞いてはいたわ」
「わ、私のことを、ですか!?」
「ええ。……そういう時のあの子の顔、すごく安心しきってて、どこか嬉しそうだったの」
夏花の言葉に、陽葵の顔がボンッと音を立てて真っ赤に染まる。
「そ、そんな……っ!湊くん、裏で私のことをそんな風に……っ!」
「昔から、人に甘えるのが下手くそな子だったから。自分が傷ついても、誰かを守ろうとして全部一人で背負い込んじゃう。……だから、あの子を無理やりにでも縛り付けて、居場所を作ってくれるあなたの存在に、湊はすごく救われていたんだと思うわ」
夏花は、ふわりと目を細めて陽葵を見つめた。
「昨日もね、ずっとスマホを睨みながら『俺が言いすぎた……あいつの好意を無下にした』って、頭を抱えて落ち込んでたわよ。……だから、あの子が帰ってきたら、どうか許してやってくれないかしら」
「ゆ、許すだなんてとんでもありませんわ!悪いのは完全に私の方です!私はただ、醜い嫉妬で湊くんを――」
陽葵が身を乗り出して全力で否定しようとした、その時。
「あ、ごめんなさい。ちょっと失礼」
夏花の傍らに置いてあったスマートフォンが、ブブブッと無機質な振動音を立てた。
夏花は画面を確認し、少し不思議そうな顔をして電話に出た。
「はい、夜凪です。……え?」
夏花が電話に出たタイミングで、陽葵はそっと立ち上がった。
「あ、あの……お電話中申し訳ありません、少しだけ、お手洗いを拝借してもよろしいでしょうか?」
夏花が軽く頷いて手で場所を示してくれたのを確認し、陽葵はリビングを出て、廊下の奥にある手洗いへと駆け込んだ。
バタン、とドアを閉め、陽葵はトイレの鏡の前でふうっと息を吐き出した。
「(どうしましょう……!湊くん、私のことを探しに行ってくれているなんて……!)」
心臓のバクバクが止まらない。
もうすぐ、湊がこの部屋に帰ってくる。
そうしたら、自分はどうやって言葉を切り出せばいいのだろうか。
「(パターンC)……おかえりなさいませ、湊くん。私、貴方の帰りをずっと待っていましたわ!これからは私とお姉様の三人で、このお家でずっと一緒に……いえ、これだと私が完全にこの家に住み着く妖怪みたいになってしまいますわ!」
陽葵はトイレの狭い空間で、着物の袖を振り回しながら一人で悶々と葛藤を続ける。
「素直に、『ごめんなさい、私が間違っていました。湊くんの重荷も全部私が愛します』って伝えるべきですわよね……。でも、もし湊くんがまだ怒っていたら?『お前のそういう重いところが疲れるんだ』って突き放されたら……っ」
鏡の中の自分は、不安と緊張で泣きそうな顔をしていた。
だめだ。ここで弱気になってはいけない。
お姉様も言ってくれたではないか。湊は自分に救われていたのだと。ならば、自分が彼の檻であり続けることこそが、彼への最大の愛情表現なのだ。
「……よし!腹を括りますわ、天ヶ瀬 陽葵!湊くんが帰ってきたら、玄関で土下座をして、そのまま彼の足にすがりついて泣き落としをかけますのよ!!」
物理的な拘束も辞さないという、ヤンデレ特有の極端な結論に至り、陽葵はパチンッと両手で頬を叩いた。
覚悟を決めて、深呼吸。
そして、陽葵がトイレのドアノブに手をかけ、ガチャリと扉を開けた――まさにその瞬間だった。
「――っ、本当なんですか?」
廊下の向こう。
リビングから、夏花の悲痛な叫び声が響き渡った。
「え……?」
陽葵の足が、ピタリと止まる。
先ほどまで、あんなに大人の余裕を感じさせていた、落ち着いたお姉様の声ではない。
まるで、足元の床が抜け落ちてしまったかのような、恐怖とパニックに染まった悲鳴だった。
「お、お姉様……!?」
異常事態を察知し、陽葵は着物の裾を掴んで、慌てて廊下を駆け抜けリビングへと飛び込んだ。
そこにいたのは。
つい数分前まで笑顔でお茶を勧めてくれていた面影など欠片もない、顔面を真っ白に蒼白させ、手からスマートフォンを取り落としそうになっている夏花の姿だった。
「お姉様!どうされたんですの!?何かあったんですか!?」
陽葵が駆け寄ると、夏花は焦点の合わない虚ろな瞳で陽葵を見つめた。
その肩は、ガタガタと小刻みに震えている。
夏花の口から漏れたのは、絶望に満ちた、ひどく掠れた声だった。
「どうしよう……陽葵ちゃん……どうしよう……っ」
「落ち着いてくださいませ!誰からの電話だったんですか!?」
陽葵が夏花の震える両手を強く握りしめると。
夏花は、ポロポロと涙をこぼしながら、世界で一番聞きたくなかった『凶報』を口にした。
「警察、から……っ」
「け、警察……?」
「み、湊が……っ。駅前の交差点で……事故に、遭って……っ!!」
――ドクンッ。
陽葵の耳の奥で、自身の心臓の音が、異常なほど大きく鳴り響いた。
冬の暖かい日差しが差し込む、穏やかなリビング。
祭壇の白い猫が優しく微笑むその空間の空気が、一瞬にして、冷ややかな地獄へと変貌したのだった。




